“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~ 作:こじまたり
あの戦争が終わってから、三度目の夏が来ていた。
王都の空は、抜けるような青だった。
乾いた風が、石畳の上を吹き抜けるたびに、どこかから干からびた野菜と下水と、薄い酒の匂いが混ざったような臭いが漂ってくる。
市場の値札は、春先よりまた少し高くなっていた。
パンひとかけら。
塩漬け肉ひと片。
どの品にも、一昔前には考えられないような値段がぶら下がっている。
通りのあちこちには、膝を抱えた子どもたちが座り込んでいた。
親を戦争で失った孤児たちだ。
洗いざらしのシャツは薄く、肩の骨の形が布越しに見える。
昼間から開いている酒場の入口では、かつて軍服を着ていた男たちが、
今は色あせた上着に身を包み、安酒をなめるように飲んでいる。
「お前、任地はどこだって言ってたっけ?」
「北の砦だ。凍える山道を目を皿にして警戒してたのが懐かしい」
「俺なんて、街道の見張り番だったぞ。
敵の姿も見ないうちに戦争が終わって、気づけば仕事もなくなってやがる」
乾いた笑い声。
その下には、笑い話にでもしないとやっていけないという気持ちが透けていた。
ヨルンは、記録局からの帰り道、そんな光景を横目に見ながら歩いていた。
復興事業の書類は毎日のように増えているのに、その恩恵がどこに落ちているかは、街を歩けば一目で分かった。
新しく塗り直された石造りの建物は、王宮の近くにばかり増えている。
貴族街の舗装は滑らかなのに、労働者の多い地区の道は、雨が降れば泥だらけになる。
紙の上の「復興」と、足下の「現実」の間には、いつも微妙な段差があった。
◇ ◇ ◇
その日、ヨルンは昼間、税務局に顔を出していた。
戦後の税制改革に伴う「通知文」の文面を、記録局が確認することになったのだ。
民に伝わる言葉かどうか。
誤解を招かないか。
──誤解を招かないか。
紙の上では、そういう配慮がなされる。
実際の取り立ての現場では、言葉の選び方よりも、棍棒の握り方の方がよほど重視されることをヨルン自身はもう知っていた。
税務局の役人たちは、汗を拭きながら言った。
「戦争で金を使いすぎた分を回収せねばならんのだ。
“皆で負担を分かち合う”と書いておけば、角も立たんだろう」
その「皆」の中に、グラナ商会を含む大商店や貴族たちがどれほど含まれているのかを尋ねる者はいなかった。
日が暮れ、ヨルンが記録局を出たとき、空はすでに赤く染まりかけていた。
夏の夕方特有の、まとわりつくような湿った熱気が、石畳の隙間から立ち上っている。
街角には、まだ開いている配給所の前で人々が長い列を作っていた。
その列の脇で、税の取り立て官吏が兵を連れて歩いているのが目に入った。
薄汚れたシャツを着た男が何かを訴えている。
官吏は書類をちらりと見ただけで首を横に振り、兵がその男の肩を乱暴に掴んだ。
男の後ろには、やせた女と、痩せこけた子どもが立っていた。
子どもの手には、小さなパンが一つ。
ヨルンは一瞬足を止めたが、すぐにまた歩き出した。
こういう場面は、この夏、珍しくなくなりつつあった。
◇ ◇ ◇
その夜のきっかけが、何だったのか。
後になっても、ヨルンには正確には思い出せない。
ある者は言う。
――「孤児がパンを盗んで、殴り殺されかけたのが始まりだ」
ある者は言う。
――「魔族の子どもを、酔っぱらった兵が路地裏でいたぶっていた」
また別の者は、こう言った。
――「税の取り立てに来た役人が、払えない家の戸を蹴破ったんだ」
たぶん、どれもが、少しずつ本当で、少しずつ違っている。
いずれにせよ、その夜、王都の下町の一角で、
長く積み重なっていた不満と怒りに、火がついた。
◇ ◇ ◇
ヨルンが最初に異変を感じたのは、
窓の外の空が、妙な色に見えたからだった。
狭い記録官用の一室。
夜の記録を書いていた手を止め、ふと窓の方を見ると、
遠くの方で、空が赤く明滅している。
何事かと窓を開けると、熱風と共に、怒鳴り声が飛び込んできた。
「水を!」「こっちだ、こっちが燃えてる!」
男たちの叫び。
女の悲鳴。
何かが割れる音。
ヨルンは思わず上着を羽織り、机の上の記録用具を掴んだ。
記録官として、戦後の王都の「出来事」を書き留める役目。
火事であれば、その規模や被害状況を記録する必要がある。
そう自分に言い聞かせて、階段を駆け下りた。
◇ ◇ ◇
通りに出た瞬間、熱気が肌に張り付いた。
下町の倉庫街の方角から、火の手が上がっている。
炎が木造の屋根を舐め、黒い煙が夜空に昇っていく。
人々が桶を抱えて走り回る中、ヨルンは、少し高い場所から全体を見渡そうと、小さな坂道を駆け上った。
そこで、彼はそれが「ただの火事」ではないと知った。
倉庫の前の広場に、人の波がうねっていた。
怒鳴り声。
罵声。
石を投げる音。
松明を掲げた男たちが、税務局の出先機関の看板を引き倒し、それを踏みつけているのが見えた。
鎧を着た兵士たちが、盾を構えて列を作っている。
向かい合うのは、粗末な服の男や女たち。
中には、顔を布で覆った者もいる。
「税金を返せ!」「俺たちの金を返せ!」
「配給を誤魔化しやがって!」
「魔族にだけ飯をやるのか!」
叫びは入り乱れ、意味を判別する前に熱だけが伝わってくる。
兵たちが警告の号令をかける。
群衆は引かない。
誰かが、石を投げた。
誰かが、それに投げ返した。
その境目がどこだったのかはもう分からない。
ただ、次の瞬間には、盾と棒と石と、素手がぶつかり合っていた。
◇ ◇ ◇
「ヨルン!」
背後から呼ぶ声に振り向くと、そこには見覚えのある顔があった。
歩兵上がりのガルドだ。
以前、魔族収容区への道中を護衛してくれた男。
今は王都警備隊の一員として、この騒乱の鎮圧に駆り出されているらしい。
「何やってる、こんなところで!」
「記録局からだ。状況を記録するように言われて――」
「記録だと?」
咄嗟に出た嘘だが、信憑性はある。
ガルドは、苦い笑いを浮かべた。
「だったら、よく見ておけ。
“小規模な暴動が一件発生したが、速やかに鎮圧された”って、明日の報告書に書くことになる」
ヨルンは返す言葉を失った。
その間にも、前方では小競り合いが激しくなっていく。
兵の盾に石が当たり、火花が散る。
ひとりの男が前に飛び出し、棒切れで盾を叩いた。
兵が押し返す。
男が転び、その上に別の誰かが倒れ込む。
群衆の中から、「やめろ!」という声と、「もっとやれ!」という声が同時に上がった。
◇ ◇ ◇
どこからともなく、「魔族だ!」という叫びが聞こえた。
ヨルンが視線を走らせると、群衆の端で、角を包帯で隠した若い男が地面に押し倒されているのが見えた。
彼の服は人間のものと変わらないが、額から覗く角の名残を見つけた誰かが、彼を「魔族」として標的にしたのだろう。
数人の男たちがその上に馬乗りになり、拳や足を振り下ろしている。
「お前らのせいだ!」「魔王の手先め!」
若い魔族は、必死に腕で顔を庇っていた。
そのそばで、同じ顔立ちの子どもが泣きながら叫んでいる。
「やめて! お兄ちゃんを叩かないで!」
兵たちは、騒乱の中心を押さえるので手一杯らしく、その一角にはまだ目が届いていない。
ヨルンの足は、勝手にそちらへ向かっていた。
記録官として、その場を「見ておく」ために。
……そう言い訳しながら。
◇ ◇ ◇
近づいたとき、男たちのひとりが地面に落ちていた酒瓶を掴んだのが見えた。
割れたガラスの口が、若い魔族の顔の方に振り上げられる。
「やめろ!」
ヨルンは叫んでいた。
声を張るのは、戦場以来だったかもしれない。
男たちが、一瞬こちらを振り返る。
そのとき、誰かが人混みの中でぶつかった。
兵士の手から剣が滑り落ち、石畳の上を滑ってきた。
ヨルンの足元に、鈍い光が転がる。
意識せず、手が動いた。
気づけば彼は剣の柄を握っていた。
重量感。
掌に馴染む感触。
戦争が終わってから、ずっと避けてきたものだ。
記録局の机の前では必要なかった重さ。
それが今、彼の手に戻ってきた。
息が荒くなる。
心臓の鼓動が早まる。
目の前で、割れたガラスが再び振り上げられた。
若い魔族の額には、殴られた影響か、既に血がにじんでいる。
このままでは、まずい。
ヨルンは、剣を構えた。
剣先をどこに向けるか。
暴行を加えている男。
騒いでいる群衆。
あるいは、自分の足元に再び落とすか。
選べる時間は、ほとんどなかった。
ヨルンの腕は戦場で覚えたとおりに動いた。
刃が振るわれ、空気を裂く。
ガラス瓶を振り下ろそうとしていた男の腕に、鋭い線が走った。
血が飛び散る。
男が悲鳴を上げ、瓶を落とした。
周囲が一瞬、凍りつく。
「何しやがる!」
別の男が叫び、ヨルンに掴みかかろうとした。
剣を構える。
男が怯んで足を止める。
その隙に、ヨルンは倒れている若い魔族の腕を引き、近くの路地の影に押しやった。
傍で泣いていた、似た顔をした幼子も一緒くたに。
「無事か」
若い魔族は、半分意識を失いかけながらもかすかに頷いた。
その目には、恐怖と、理解できないものを見る戸惑いが入り混じっている。
ヨルンは、自分が今何をしているのかを理解する間もなく動いていた。
◇ ◇ ◇
どこかで笛の音が鳴り響いた。
増援の兵たちが駆けつけ、盾と棍棒で群衆を押し返し始める。
「散れ! 家に帰れ!」
叫び声。
悲鳴。
男が倒れ、女がうずくまり、誰かが頭を抱えて走る。
ヨルンは、路地の陰で若い魔族と子どもを壁に押しつけるようにしてしゃがんでいた。
手の中の剣が、汗で滑りそうになる。
戦場で剣を振るったときと同じ感覚が、記憶の底からよみがえってくる。
あのときも、「誰かを守るため」に戦っていたはずだった。
同時に、「誰かを斬ること」でもあったが。
今さっき、自分が斬った男は死んでいない。
腕に傷を負わせただけだ。
それでも、斬った瞬間の感触は、胸のどこかに重く沈殿していく。
◇ ◇ ◇
騒ぎが収まったのは、夜がかなり更けてからだった。
火の手は、兵と自警団とで何とか抑え込まれた。
燃え残った倉庫の壁は黒く煤け、看板は半分焼け落ちている。
通りのあちこちに、人影が横たわっていた。
頭に包帯を巻いた兵士。
腕を吊った男。
動かないまま、白い布をかけられた誰か。
ヨルンは、剣を兵の一人に返し、自分の手を見た。
指先には、薄く血がついている。
誰の血かは分からない。
深く息を吸い込むと、焦げた木材と人と、鉄のような匂いが肺に満ちた。
戦場の匂いに、よく似ていた。
◇ ◇ ◇
翌朝には、王都は「いつもの顔」を取り戻しつつあった。
焼けた倉庫の前には早々に板囲いがされ、「近日中に復旧予定」と書かれた札がぶら下がる。
倒れていた遺体は、夜明け前のうちに運び出された。
残されたのは、石畳の黒い染みと、割れた瓶の欠片だけ。
人々は、その脇を避けるようにして歩きながらも、やがては何事もなかったかのように日々の用事に戻っていく。
ヨルンは、記録局の机の前に座っていた。
目の前には、いつものように二枚の紙がある。
一枚は、「王都治安報告書」に添付するための昨夜の騒乱の記録。
もう一枚は、自分のノート。
ヨルンは、まず前者にペンを置いた。
『王都南部倉庫街にて、
税務官および配給所職員に対する不満を発端とする小規模な暴動が一件発生。
参加者数およそ数十名。
治安隊および警備隊の迅速な出動により、同日深夜までに鎮圧。
死亡者数数名、負傷者十数名(兵側・市民側双方含む)。
被害状況、倉庫一棟の部分焼失、看板等数点に破損。
本件を受け、今後、税務官による対応の改善および、
兵士による巡回の強化が検討されている。』
淡々とした文。
数字と事実だけを並べた文章。
「小規模な暴動」。
紙の上では、それで十分なのかもしれない。
次に、ノートの方にペンを走らせた。
『昨夜、王都南部にて騒乱あり。
倉庫街の前で、税の取り立てと配給の不正、
それに長く積もった不満が一度に噴き出したような夜だった。
私は記録官としてその場に立ち会うつもりだった。
しかし、目の前で若い魔族の男が殴られているのを見て、
地面に落ちていた剣を拾った。
私は再び“兵士”になった。
腕を斬られた男の悲鳴と、自分の腕を伝った血の感触は、
今も手のひらに残っている気がする。
あの夜の叫びは、あの場にいた者の耳には、
決して“小規模”などではなかった。
怒鳴り声。
泣き声。
「俺たちの金を返せ」と叫ぶ声。
「もう奪うな」と泣く声。
「魔族なんか殺せ」と怒鳴る声。
それらは紙の上に並べるには多すぎて、公式記録には収まりきらない。
だから、報告書にはこう書く。
“王都南部にて小規模な暴動が一件発生したが、速やかに鎮圧された”と。
その言葉が、あの夜の熱と叫びと血の匂いを、
どこまで削り取ってしまうのかを、
私は知っている』
書き終えると、ヨルンはペンを置き、指先を見た。
昨夜ついた血は、もう洗い落としてある。
だが、紙にインクが滲むたびに、別の何かが指先からじわりと染み出してくるような気がした。
彼はノートを閉じ、机の引き出しの奥にしまった。
外では、夏の陽射しが石畳を照らしている。
昨夜の炎とは違う色の光が、
今日も王都の上に降り注いでいた。
◇ ◇ ◇
──【王都治安報告書・戦後三年夏期分より抜粋】
王都南部倉庫街において、小規模な暴動が一件発生したが、
治安隊および警備隊の迅速な出動により、速やかに鎮圧された。
当該事案は、税務官の職務執行に対する一部市民の不満に端を発したものと見られるが、
今後の適切な啓蒙活動および巡回強化により、
同様の事案の再発は十分に防止し得ると考えられる。
──【ヨルン個人日誌より抜粋】
昨夜の出来事は、報告書の中で「小規模な暴動」と呼ばれた。
あの場で剣を振り上げ、石を投げ、泣き叫び、うずくまり、
血を流し、血を見て震えていた者たちにとって、
それは決して“小規模”などではなかった。
紙の上の一行が削り取った叫びの厚みを、
その場にいた者だけが覚えている。
そして、私もまた、その一行を書いた者として、
その削り取られたものの重さを、忘れてはならないと思う。