“魔王が倒されたあとの世界”を書いた男 ~名もなき兵と百年史~   作:こじまたり

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第9話 焼けたページ

 反乱の夜から、そう間を置かずにそれはやって来た。

 

 ある朝、記録局の廊下にいつもと違う靴音が響いた。

 

 軍靴とも、役人の革靴とも少し違う、硬く乾いた音。

 石畳に爪先だけを叩きつけるような歩き方。

 

 ヨルンが顔を上げると、灰色の外套をまとった男たちが三人、局長室の方へと真っ直ぐに歩いていくのが見えた。

 

 外套の襟には、小さな徽章が光っている。

 王国紋章のまわりを囲む、棘の輪。

 

 ――監察局。

 

 戦時中には、軍の中の裏切り者や士気の低下を監視していた部署だ。

 戦後、彼らの仕事が終わったわけではないことをヨルンは知っていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 午前中いっぱいは、記録局全体が落ち着かなかった。

 

 局長室からは押し殺したような声が漏れ聞こえ、やがて、全員を集めるよう命じる声が響いた。

 

 記録官たちは広間に集められ、灰色の外套の男が一歩前に出た。

 

 痩せた顔に眼鏡。

 表情は薄く、声も低い。

 

「王都南部における騒乱を受けて、陛下および議会は“扇動的な記録”の蔓延を憂慮しておられる」

 

 男は紙を一枚取り出し、淡々と読み上げた。

 

「今後、王立記録局においては、

 公的記録に携わる者の私的メモや覚え書きも含め、

 “誤解を招き、治安を損なうおそれのある記録物”を調査し、

 不適切なものについては速やかに処理することが定められた」

 

 ざわめきが広がる。

 

 「私的メモ」という言葉に、

 何人かが思わず胸の内ポケットや机の引き出しの方向へ目を動かした。

 

 男は、表情ひとつ変えずに続ける。

 

「安心したまえ。

 これは、皆さんを罰するためのものではない。

 

 ただ、王国の公式記録に携わる者として、

 混乱を招く可能性のある文は然るべき形で整理しておく必要がある、ということだ」

 

 誰もが、そんな言い回しは散々聞いてきた。

 

 「然るべき形」が何を意味するのかを、想像できないほど愚かではない。

 

◇ ◇ ◇

 

 昼過ぎ、ヨルンの机にも監察局の男がやって来た。

 

 先ほど広間で口を開いた眼鏡の男とは別の人物だが、同じ灰色の外套をまとっている。

 

「ヨルン・エルネスト記録官補、だな」

 

「は」

 

 ヨルンは立ち上がり、軽く頭を下げた。

 男は机の上を一瞥する。

 

「まず、公的記録から」

 

 戦死者名簿。

 戦犯裁判の記録。

 復興事業の配分帳簿。

 

 それらを一通りめくり、男は特に何も言わない。

 ここに書かれているのは、すべて上の承認を得た「正しい」記録だ。

 

 やがて、男の視線が机の引き出しに向かった。

 

「鍵を」

 

 ヨルンは腰の鍵束を取り出し、引き出しを開けた。

 

 一番上の段には、よく使う紙やペン、予備のインク。

 男はそれらを軽く退け、下の段に手を伸ばす。

 

 そこには革表紙のノートが数冊、重ねて置かれていた。

 

 ヨルンの「個人日誌」。

 

 戦死者名簿の合間に書いた小さな感想。

 魔族収容区で聞いた本音。

 戦犯裁判の傍聴席で聞いた、兵士たちの呟き。

 復興事業の裏帳簿の写し。

 反乱の夜、自分が剣を振るったこと。

 

 紙の上に、彼の「表には出せない」記憶が積もっている。

 男はノートを一冊手に取り、ぱらぱらと捲った。

 

 文字を読み飛ばしているようでいて、ところどころで止まる。

 

『魔族収容区の朝は、人間の貧民街の朝とよく似ている――』

 

『戦犯裁判は、公平かつ厳正であろうとする意志と、

 立場の差による不公平とが、同じ紙の上に並んでいる――』

 

『復興事業の契約書の端に、紹介料の記載を見つけた――』

 

『昨夜の“小規模な暴動”は、その言葉一つには収まらない熱と叫びに満ちていた――』

 

 男は無表情のままページを閉じた。

 

「よく書く男だな」

 

 その声には、感心とも嘲笑ともつかない響きがあった。

 

「これらは、公的記録ではない。そういう認識でよろしいか」

 

「……は。あくまで個人の覚え書きです」

 

「だが、内容は“公的記録では扱わない事柄”についてだ」

 

 男は、ノートを指で軽く叩いた。

 

「魔族に同情的な記述。

 裁判や復興事業に対する批判。

 王都の騒乱に関する詳細な描写。

 

 これらが、もし何かの拍子に外に出れば、

 “誤解を招き、治安を損なうおそれ”がある」

 

「誤解、というより……」

 

 ヨルンは言いかけて、言葉を飲み込んだ。

 

 真実。

 

 そう言い切れるほど、自分の記録が全てを見ているわけではない。

 けれど、「別の側面」であることだけは確かだった。

 

 男は、それ以上追及することなく淡々と言った。

 

「これらは、局内の決まりに基づき、処分する」

 

「処分……とは」

 

「焼却だ」

 

 男は事務的に答える。

 

「心配するな。これは罰ではない。

 君が“危険な思想の持ち主”であると断定されたわけでもない。

 ただ、“誤解される可能性のある紙片”を減らすだけだ。

 君には今後も、王国のために正しい記録を書いてもらう必要があるからな」

 

 それは、慰めの言葉ではなく、静かな脅しのように聞こえた。

 

◇ ◇ ◇

 

 記録局の地下には、小さな炉があった。

 

 冬には書記官たちの手を温めるために使われるが、もうひとつ、書類を処分するための役目も持っている。

 

 古くなった控え。

 誤字脱字の多い草稿。

 記録する価値がないと判断された紙切れ。

 

 それらは束ねられ、時折この炉で燃やされる。

 

 今日、その役目を果たすのはヨルン自身のノートだった。

 

 灰色の外套の男が、無造作にノートを二冊、炉の前のテーブルに置く。

 

「署名を」

 

 そこには、「不要記録物焼却台帳」と記された帳簿があった。

 

 日付。

 件数。

 担当者。

 

 ヨルンの名を書く欄が、空白で待っている。

 

 震えないように気をつけながらペンを取る。

 自分の名前を、ゆっくりと書く。

 

「立ち会ってもらう」

 

 男はノートを束ね、炉の扉を開けた。

 

 黒くすすけた鉄の口が、静かに開いている。

 中には、既にこぶし大の木炭が赤く燃えていた。

 

 ノートの革表紙が、その炎に近づけられる。

 一瞬、紙とインクの匂いが熱に溶けて立ちのぼった。

 

 ヨルンは、手を伸ばせば届く距離で自分の書いた文字が炎に呑まれていくのを見ていた。

 

 ページが捲れる。

 インクで黒くなった行が、赤い縁取りをされる。

 

 文字が、意味を持つ形からただの黒い線に変わり、やがて灰色の塊になっていく。

 

 あの朝の、魔族収容区の風景。

 あの法廷の、震える声。

 あの復興契約書の端に書かれていた赤い字。

 あの夜の、炎と叫びと血の匂い。

 

 それらが、紙の上から、世界から、ひとつずつ剥がされていく。

 

「ここに書かれていたことは、この世から消えるんだ」

 

 喉の奥で、誰かが囁いた気がした。

 自分自身の声だったのかもしれない。

 

 男は、ただそれを見届ける。

 彼にとって、この作業は「危険物の処理」以上の意味を持たないのだろう。

 

 炉の中で、最後のページが丸まり、火の粉となって消えた。

 

 扉が閉じられる。

 鉄の音が、地下室に鈍く響いた。

 

◇ ◇ ◇

 

 その晩、ヨルンは一人で自室の床板を持ち上げていた。

 

 ベッドの足元、擦り切れた絨毯の下。

 木の節目に沿って指先でなぞると、ひときわ緩い板が一枚ある。

 

 ぎし、と音を立てながらそれを外す。

 暗い隙間から、布に包まれた何かが顔を出した。

 

 ヨルンは慎重にそれを取り出す。

 粗末な布を解くと、中から小さな冊子が現れた。

 

 通常のノートよりも一回り小さく、紙も薄い。

 

 そのページには、極端に細かい字でぎっしりと文字が詰め込まれていた。

 

 魔族収容区の視察の日から、戦犯裁判、復興事業、反乱の夜に至るまでの、

 重要な箇所だけを抜き出して書き写した「写本」。

 

 反乱の夜が過ぎた頃から、ヨルンは、いつかこうなるかもしれないと薄々感じていた。

 

 記録局の空気が変わったのだ。

 

 「慎重に書け」「余計なことは書くな」という目に見えない圧力が徐々に強くなっているのを肌で感じた。

 

 だから、その頃から彼は夜な夜な、自分の日誌の中から特に消されたくない箇所を選び、別の薄い紙に可能な限り小さな字で書き写していた。

 

 全てを残せたわけではない。

 

 反乱の夜の日記も、最初に書いた長いものは焼かれてしまった。

 写本には、その要約しかない。

 

 それでも、まったく何も残らないよりはましだ。

 

 ヨルンは、床下から取り出した小さな冊子をしばらく見つめた。

 

 こんなものを見つけられれば、自分がどう扱われるかは分かっている。

 だが、この薄い紙束を犠牲にしてまで守りたい「安全」が自分にはあるのか。

 

 彼は、床板の隙間をもう一度確かめた。

 ここにだけ隠しておくのは危うい。

 

 目を走らせ、部屋の隅に積まれた本の山に目を止める。

 

 厚くて退屈な税法解説書。

 誰も読みたがらない古い土地台帳。

 

 ヨルンは、その一冊を手に取り、表紙と背表紙の間に指を差し込んだ。

 布を慎重に剥がし、中の空洞を作る。

 

 そこに、小さな写本を滑り込ませ再び布を貼り直した。

 

 外から見れば、ただの黄ばんだ法令集だ。

 誰もわざわざ開いて読もうとはしないだろう。

 

 床板の下にはもう何も残さない。

 そこが見つかっても、見つかるのは空虚だけだ。

 

 ヨルンは、偽装された本を本棚の一角に戻した。

 地味で、目立たない場所に。

 

 自分の人生もまた、大きな歴史の棚の中ではきっとそんなふうに見えるのだろう。

 

◇ ◇ ◇

 

 ──【王立記録局 記録管理方針改定通達(抜粋)】

 

 近時、一部において、

 王国の治安維持および民心安定を損なうおそれのある文書が散見される。

 

 これを受け、王立記録局においては、

 公的記録に関わる者の作成した私的記録物についても、

 監察局の指導のもとに検査を行い、王国の方針に反し、

 または不必要な混乱や誤解を招く可能性のあるものを認めた場合、

 当該文書は速やかに処分することとする。

 

 なお、当措置は、

 王国の正しい歴史の記録と民の安寧を守るためのものであり、

 個々人の名誉を傷つける意図を持つものではない。

 

 王立記録局長

 

 

 

 ──【後世の発見記録・大陸王国百年史編纂室報告】

 

 王歴一二〇年、旧王立記録局の解体工事中、

 旧館南棟の床下および書庫の奥から複数の手稿束が発見された。

 

 それらの一部は焼損が激しく、内容の判読が困難であったが、

 残存した断片には、

 公式記録には存在しない魔族収容区視察の詳細、

 戦犯裁判における傍聴者の記録、

 復興事業にまつわる不正の示唆、

 王都南部暴動に関する当時の生々しい証言などが含まれていた。

 

 手稿の筆者名は明記されていないが、文体および記述内容から、

 戦後初期に記録局に所属していた一書記官のものと推定される。

 

 これらの文書はその性質上、

 当時の監察局による検閲の対象となり得るものであり、

 なぜ焼却を免れて床下や書物内部に隠されていたのかは不明である。

 

 いずれにせよ、これらの焼け残りのページは、

 「焼かれた歴史」にもなお、書き留めようとした者がいたことを示す、

 貴重な証拠であると言えるだろう。

 

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