1931年、ミシシッピ州の交差点でロバート・ジョンソンは悪魔と契約し、伝説となった。
それから約100年後。才能も評価も得られない一人の青年が、同じ場所へと辿り着く。
音楽だけを信じ、全てを賭けて交差点に立った青年の前に現れたのは、かつての「契約者」と同じ存在だった。
伝説をなぞった者に与えられる代償とは・・・。

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第1話

1931年。アメリカ ミシシッピ州ローズデール近郊。

 

8月12日午後11時。

 

微かな月明かりが、乾いた土の道を照らしている。しばらく雨に打たれたことのないその道は、ひび割れ、ところどころ不格好に盛り上がっていた。

ジャリ、と靴底が擦れる音が夜に響く。

静けさに似つかわしくないその音だけが、やけに大きく聞こえた。

時折吹き抜ける生温い風が、道の脇の草むらをざわりと揺らす。

虫の声がそれに応じて波打つように響く。

少し離れた場所には、酒場の灯りが見えていた。

橙色の明かりが滲むように揺れ、そこからは笑い声が漏れてくる。

だがそこからは、酒場に付きものの音楽は、もう聞こえない。

代わりに耳に届くのは、酔っぱらいたちの拍手と、嘲るような声だけだった。

その灯りを避けるように、一人の若者が夜道を歩いてくる。

顔は派手に腫れ上がり、唇の端が切れている。

殴られた痛みはまだ残っているはずなのに、本人はそれを確かめようともしない。

若者は片手に古びたギターを提げていた。

傷だらけのボディに、長年の使用でくすんだ金属の匂いが染み付いている、若者の唯一の相棒だった。

若者は、酒場で演奏するギタリストだった。少なくとも、自分ではそう名乗っていた。

だが客にとっては、彼はただの耳障りな雑音であり、酔っぱらいの喧騒の一部でしかなかった。

それでも若者はギターを手放さなかった。

一時はハーモニカへの転向を考えたこともあったが、結局『ブルースはギターでこそ語れる』という自身の信念は変えられなかった。

若者は毎日のように客の罵声を浴び、それでもギターを弾いていた。ギターだけが若者の人生の全てだった。

その日も酒場で演奏していたのだが、たまたま機嫌の悪かった酔客と口論になり、喧嘩に発展、酒場を叩き出されたのだった。

背中で酒場のドアが乱暴に閉じられると、中からは笑い声が巻き起こる。「いい気味だ」などと酔客に加勢する声まで聞こえてきた。

 

俺のギターの音は誰にも届かないのか・・・

ならば俺はどうして生きている・・・

 

若者は酒場の喧騒を背に、ふらふらと歩き続け、いつの間にか郊外の交差点に差し掛かっていた。

静寂の中、空を見上げれば一面の星空の中を、幾筋もの流星が横切っていく。

清冽な夜の光の中、惨めな自分の姿だけが浮かび上がる。

殴られた痛みなどなんでもない。ただ誰にも求められていないという事実だけが苦しかった。

若者は交差点の真ん中で、膝を折った。

「誰でもいい! この哀れな男をお救いください!」

若者は天を仰いで涙ながらに叫び、力尽きたように地に伏せる。

その声は夜空に溶け込み、応えるものはいない。

だが若者はそこに何者かの気配を感じてしまう。

風が止んだ。

虫の声が一斉に途切れた。

ゆっくりと顔をあげると、そこには一人の黒ずくめの男がいた。

いつからそこにいたのかは分からない。

だがそれが、血を凍らせるほどの存在であることだけは分かってしまう。

『クロスロードには悪魔が現れる』

それは小さい頃から聞かされていた言い伝えだった。

若者は恐怖したが、逃げることはしなかった。生きることを放棄した男に、逃げる理由は見当たらなかった。

黒ずくめの男は、そんな若者を見下ろしている。

「望みはなんだ」

黒ずくめの男はしわがれた声で尋ねてくる。

若者は恐怖の中で、その言葉を反芻し、その意味を悟った。

「ギターの腕をくれ! 俺を天才的なギタリストにしてくれ!」

若者がそう答えると、黒ずくめの男は、ゆっくりと赤黒い革表紙の手帳を取り出し、若者と見比べながら、ぱらぱらとめくる。

「・・・まぁ、できるな。代償も必要だが、どうする?」

「代償など、何でもいい! 世界一のギタリストにしてくれ!」

「世界一か。大きく出たな」

黒ずくめの男はかすかに笑ったように見えた。

「ギターを貸せ」

若者が持っていたギターを渡すと、黒ずくめの男はチューニングを始めた。

「お前は元々才能がある。もう少し我慢すれば、いずれ才能は花開く。こんな所で助けを求めるから、いらぬ代償を支払う羽目になる」

黒ずくめの男は手を動かしながら、教訓じみたことを話し出す。

だがそれは、若者の心には何も届いていない。

若者は自分の才能などという曖昧なものを信じてはいなかった。

必要なのは世界一のギタリストになること。それだけだった。

「よし」

そう言って黒ずくめの男はギターを差し出す。

「こ、これで俺は・・・」

若者はそれを震える手で受け取った。

その瞬間、若者は、電流が走ったような、全身の毛が逆立つような衝撃を受けた。

溢れる力を感じる。ギターの力だ。

全ての音が鮮明に聞こえる。これが音楽の才能か。

音だけではない。目に映る光も、肌に触れる空気も、全てが明瞭に迫ってくるようだった。

今まで何と薄ぼんやりとした世界にいたのだろう。

「代償を忘れるな」

黒ずくめの男はそう言い残して、闇に溶けた。

 

ギターの才能を一晩で開花させた若者、ロバート・ジョンソンはその7年後、27歳の若さで原因不明の死を遂げた。

 

 

2025年。アメリカ ミシシッピ州ジャクソン近郊。

 

8月10日午後9時。

 

「こんなに簡単にいくかよ!」

青年は読んでいた音楽雑誌『ワールド・ギター 8月号』を机に叩きつけた。そこにあったのは『クロスロード伝説:ロバート・ジョンソンの奇跡』という特集記事だった。

「悪魔との契約で世界一になれるんだったら、今頃世界一だらけだ! 俺も含めてな!」

青年は薄汚いベッドに体を投げ出した。安アパートの薄暗い天井が目に入る。

「くそっ! 今頃は・・・」

青年の脳裏にライブハウスの天井とステージの照明が蘇る。

今夜はライブハウスで演奏をするはずだった。小さな場所だったが、何度も足を運び、担当者に頼み込んで、ようやく獲得したチャンスだった。

誰か一人でも認めてくれれば。そこから口コミで二度目、三度目の出演につながれば・・・ そんな淡い期待はあった。

だが、そんな期待は簡単に砕かれた。有名なギタリストが来るということで、青年の予定はあっさりとキャンセルされたのだ。

『有名なギタリスト』といっても何のことはない。ただネットで少しバズっただけの男で、ギターの腕は青年と同レベルだ。違うのは知名度だけ。

だが、その知名度のわずかな差が決定的だった。

「俺だって、演奏する場さえあれば・・・」

青年は口癖のようになった言葉を呟く。

逃したものを思えば、焦りだけが膨れ上がっていく。

居てもたってもいられず、青年はいつものようにギターを背負って、アパートを出る。

向かった先は勝手に定位置と決めている街角だった。

ギターケースを広げ、車の騒音の中、街灯の明かりの下で、ギターを弾き始める。

これがライブ会場のざわめきだったら。この明かりがステージの照明だったら。

そう思わない日はない。

青年は全力でギターを弾く。

通行人のほとんどは硬い表情を向けるだけだが、稀に立ち止まってくれる人もいる。だがそれはまだ、何の成果にも結び付いていない。

通り過ぎる靴音と生暖かい夜気の中で、青年は一心不乱にギターを弾き続けた。自身の不遇と焦りを忘れるために。

そうしていると、フレットを押さえる左の中指がぬるりと滑る。

目をやると中指と薬指の先が切れて、出血していた。

あとから鈍い痛みもやってくる。

それでも、観客の一人でもいれば、こんな痛みなど物の数ではない。青年は笑顔でギターを弾き続けただろう。

だが、元より聞いている人間は一人もいない。

「・・・くそっ」

青年は仕方なく演奏を止め、指先に絆創膏を貼る。

指先を怪我するのは余計な力が入っている証拠だ。自分の未熟さのせいだ。それは分かっている。

だがそれは青年の焦る心の痛みでもあった。

「・・・くそっ」

再び毒づいて、青年は街頭を後にする。

家に帰ってからは、日課にしている消音器を付けての運指練習だ。

路上での練習を早めに切り上げた分、こっちを重点的にしなければ・・・

そんな思いで、参考にしている動画サイトを開こうとすると、別の動画が流れてくる。

青年の出演するはずだったライブハウスの動画だった。たまたまインフルエンサーが来ていたらしい。

その動画の中で、青年の出番を奪った男が得意気にギターを弾いていた。それはどう聞いても、自分よりうまいとは思えないものだった。

それなのにその男は動画の中で大勢の人間から喝采を浴びていた。この動画を見る人間も大勢いるだろう。

「それに比べ、俺は・・・!」

青年はしばらく休ませなければならなくなった左手で、ドンッと机を叩いた。

その衝撃で、ワールド・ギターの8月号が床に落ちる。

パラリと開かれたページから、世界一のギタリスト、ロバート・ジョンソンが笑いかけてきた。

 

 

2025年。アメリカ ミシシッピ州ローズデール近郊。

 

8月12日午後8時。

 

日は落ちたが、暑さはすぐに引くものではない。昼の間に焼けた歩道からは、まだじりじりと熱が放出されている。

青年は昼過ぎにはこの十字路に到着し、その木陰で延々とギターを弾き続けていた。ぼさぼさの髪と無精ひげと血走った目で。

指先の絆創膏には血が滲んでいたが、その感覚はとうに無くなっていた。

痛みも、疲労も、どこか遠い。

ただ弦に触れていないと、何かが崩れてしまいそうで、やめることができなかった。

通行人が一人、青年の前に立ち止まって彼のことを見ていたが、「邪魔だ」と追い払った。もう人間の観客など要らない。

青年の待つ相手は一人だけだった。

少し離れた場所に停めた車の助手席には、ワールド・ギターの8月号が無造作に放り出されている。

ページの角は折れ、めくった跡は何度も同じところで止まっている。

ロバート・ジョンソン。

ローズデール。

クロスロード。

その文字だけが、赤いペンで何重にもなぞられていた。

誰かにそう言われたわけではない。その声を聞いた覚えもない。

それでも、青年は疑わなかった。

ロバート・ジョンソンに「来い」と言われた気がした。

いや、そう思い込もうとしていた。

街灯は遠く、夜道はほとんど闇に沈んでいる。

そのことにようやく気付き、青年はランタンを付けた。できるだけ光量を絞り、ここにいるぞという目印程度に。

時折通り過ぎる車のヘッドライトが、一瞬だけ彼の姿を照らし、すぐに消える。

誰も気に留めない。誰も見ていない。

その中でギターを弾き続ける。

もう体が自分の物という気がしなかった。意識は途切れそうになるが、体だけは勝手に動き続ける。自分の限界を超えて。

それが救いなのか、罰なのか、もう分からなかった。

空気が、わずかに変わったのは、腕時計の針が11時を指す寸前だった。

風が止んだ。

虫の声が、一斉に途切れた。

青年は弦を押さえたまま、顔を上げる。

『来た・・・』

 

 

2025年。アメリカ ミシシッピ州ローズデール近郊。

 

8月12日午後11時。

 

静寂の中で、自分の呼吸音だけがやけに大きく聞こえていた。

気づけば息は浅く、早くなり、喉の奥がひりつくように乾いている。

青年はごくりとつばを飲み込んだ。

いつからそこにいたのか分からない。

思い切って視線を上げたとき、青年を見下ろす位置に、黒ずくめの男が立っていた。

影のように立ち尽くすその姿から、顔の輪郭だけがかすかに浮かび上がっている。

「お前は何をしている」

しわがれた声だった。

問いかけであるはずなのに、すでに答えを知っているような響きがあった。

青年の胸が強く脈打つ。

恐怖が先に来た。だが、その奥から、抑えきれない高揚が湧き上がってくる。

青年は立ち上がった。

だがすぐには声が出ない。

唇だけが震え、言葉にならない息が漏れた。

「け、契約を・・・!」

ようやく青年は叫んだが、それは掠れていた。

黒ずくめの男は、わずかに目を細めたように見えた。

「契約、か」

低く、確かめるように呟く。

「もう百年近くしていないな・・・」

その言葉に、青年の背筋がぞくりと粟立つ。

間違いない、アイツが契約した悪魔だ。

頭のどこかで、そう理解していた。

青年は手にしていたギターを差し出した。

「ギターを持ってきた!」

声が裏返る。

「俺を・・・ 俺を天才ギタリストにしてくれ!」

一息置き、続ける。

逃げ道を断ち切るように。

「ロバート・ジョンソン以上の・・・!」

黒ずくめの男はその若者を一瞥する。

「・・・ギターでなければだめなのか?」

「当たり前だ! 俺はそのために来たんだ! できるんだろう!?」

青年は恐怖も忘れて、喰ってかかる。

「俺の力は万能ではない。できないこともある」

そう言いながら、ゆっくりと取り出した手元の赤黒い革表紙の手帳をめくり、青年と見比べる。

「・・・やはりお前には高望みすぎる。別の願いにしろ」

黒ずくめの男は冷酷に告げるが、若者は喰い下がった。

「ダメだ! 願いは天才ギタリストになることだけだ! 代償なら何でもやる! だから頼む!」

「・・・何でも、か」

呟きは低く、感情を伴っていない。

だが次に視線を上げたとき、青年は確かに見た。

冷たい目の奥に、かすかな光が宿るのを。

「一応聞いておくが、天才ギタリストになって何をするつもりだ。欲しいのは金か? 名声か?」

「そんなものはもういらない! 全部お前にくれてやる! 俺は最高のギタリスト、究極のギタリストとしての境地に達したいだけだ!」

「なるほどな・・・」

そうして黒ずくめの男はもう一度手帳に目を落とす。素早く何かを計算したようにも見えた。

「・・・まぁ、できなくもない」

「本当か!?」

「ギターを貸せ」

青年が再度ギターを差し出すと、黒ずくめの男はそのギターを受け取ってチューニングを始める。

「お前は契約を望んでいたのだろう? なぜ、クラークスデールのクロスロードに行かなかった」

黒ずくめの男は手を動かしながら、そう尋ねてくる。

そこはあのロバート・ジョンソンが悪魔と契約した地として観光地にもなっているほど、有名な場所だ。

「有名すぎるからだ。あんな観光地に悪魔が来るわけがない」

「・・・そうだな」

黒ずくめの男はかすかに笑ったように見えた。

「我々が求めているのは、死に物狂いで身の程知らずな愚か者だ。そういった人間がいるからこそ、我々に存在価値がある」

青年はその言葉を聞き流し、男の手の中にあるギターだけをじっと見つめていた。

黒ずくめの男は、チューニングの手を止めることなく、語り続ける。

「お前は俺が来たことについてありがたがっているようだが、逆に俺の方がありがたいと思っているくらいだ。今は誰も我々のことは気にも留めない。不都合なことが起きた時に頭をよぎるくらいだ。我々の存在価値はどんどん低下している。お前のような愚か者はなかなかいない」

そうして黒ずくめの男は長いチューニング作業を終えた。

「よし」

黒ずくめの男がギターを差し出す。

「これで・・・ これで俺は最高のギタリストになれるんだな!?」

青年は震える手で、ギターを受け取る。

その瞬間、電流が走ったような、全身の毛が逆立つような衝撃を受けた。

突然の溢れる力に翻弄される。これがギターの力なのか。

全ての音が実体のあるものとして体中に突き刺さる。これが音楽なのか。

音だけではない。目に映る光も、肌に触れる空気も、全てが同時に迫り、体が軋む。そこには一切の曖昧さはなかった。

今まで何と薄ぼんやりとした世界にいたのだろう。

「時間がないぞ。弾いてみろ」

そう促され、若者は震える手で、ギターを思い切りかき鳴らした。

自分で出したとは思えない響きに、体が、心が、魂が震えた。

全てが意味をなくす。

全てが再構築される。

これがロバート・ジョンソンの見た世界! いや、その先の誰も踏み入れていない、究極の境地だ!

 

次の瞬間、強烈なヘッドライトの光が青年を包み込んだ。

鈍い音が響き、青年の体は宙を舞う。

黒ずくめの男は静かにその瞬間を見ていた。

青年を跳ね飛ばした自動車は近くの電柱にぶつかって止まっている。

青年はもう動かない。

足元に転がってきたギターの弦だけがかすかに余韻を残していた。

黒ずくめの男がしゃがみ込み、その弦の震えを止める。

夜は静寂を取り戻し、再び虫の声が聞こえてきた。

 

才能あふれるロバート・ジョンソンでさえ、寿命は7年しか残されなかった。

才能のなかった青年に残された寿命は4秒だけだった。

 


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