転生モブ、ディストピア世界で指揮官になる 作:模範的アーク市民
北部雪原の激闘から、一週間が経過した。
アークの深層に位置する前哨基地は、相変わらず人工的な昼と夜を繰り返し、外界の脅威など嘘のような静けさを保っていた。
だが、その平穏は氷の上の薄皮のようなものだ。いつ割れて冷たい深淵に引きずり込まれるか分からない、胃の痛くなるような緊張感が常に漂っていた。
「アダム指揮官。……お茶を、お持ちしました」
「……おう、サンキュ」
執務室のデスクで書類に目を通していた俺は、静かに差し出されたマグカップを受け取った。
カップの持ち手には、見覚えのある少女の手が添えられている。
借り物のエプロンを身につけた彼女――マリアンは、一歩下がった位置から、こちらの様子をうかがっていた。
「熱すぎませんか」
「ああ、ちょうどいい。助かるよ、マリアン」
「……よかった」
彼女は目を細め、ほんの少しだけ口元を緩めた。
その姿は、かつて俺とイヴが瓦礫の陰で出会い、そして失ったマリアンそのものだった。
……表面上は。
「……指揮官さまの分も、お持ちしませんと」
マリアンが給湯スペースへと歩き出す。
その背中を見送り、マグカップを持ち直した。
――拍子に、脇腹へ鈍い痛みが走る。
肋骨は、まだくっついていない。
雪原から戻った翌日、シュエンが寄越した医療班に叩き起こされて全身を診られた。
ミシリスの再生処置とやらのおかげで熱は引き、傷口も塞がった。だが骨が繋がるのは、早くて一ヶ月先らしい。
(……治療費、後で請求書が来ないだろうな)
あの女が善意で医者を寄越すはずがない。
その時だった。
ガキィッ!!
鈍い金属音が執務室に響いた。
振り返ると、マリアンが戸棚の取っ手を握りしめたまま、静かに首をかしげている。
彼女の手の中には、無残にひしゃげ、引きちぎられた分厚いスチールの取っ手があった。
「…………あら」
「…………」
「申し訳ありません、アダム指揮官。……少し、力の加減を誤ったようです」
マリアンは眉一つ動かさず、ひしゃげた取っ手を元の位置へ丁寧に押し当てた。
直せると本気で思っているらしい。
だが、彼女が無意識に加えた力によって、今度はスチールの扉そのものがベキベキと嫌な音を立てて歪み始めた。
「待て。ストップだ。マリアン、そのままでいい。触るな」
「……はい」
立ち上がった瞬間、脇腹が焼けた。
呻きを噛み殺し、彼女の肩を掴んで戸棚から引き剥がす。
歪んだ戸棚を見て、深い溜息をついた。今週に入ってこれで三回目だ。
(……やれやれ)
マリアンの記憶と人格は元に戻った。
しかし、彼女の身体は依然として「ヘレティック」のままだ。
洗脳を解き、
本人は普通のニケのつもりで動いているが、ふとした瞬間に規格外の膂力や動体視力が漏れ出てしまうのだ。
「……申し訳ありません。また、やってしまいました」
俯いた声には、はしゃぎも、涙もない。
ただ、静かに落ち込んでいる。
「気にするな。前哨基地の備品はポンコツばかりだからな。あとで直すさ」
「……はい。ありがとうございます」
彼女は小さく頭を下げると、再び給湯器へと向かった。
その手が、今度こそ壊すまいと、蛇口を紙細工のように扱っているのが見えた。
「……おい、ネオン」
部屋の隅で、やたらと高性能な通信機(おそらくエリシオン本社への直通回線)を弄っていたネオンが、ビクッと肩を揺らした。
「は、はいっ! なんでしょうか、師匠!」
「お前がイングリッドに何を報告しようと勝手だが、マリアンのことだけは絶対に伏せておけよ」
「そ、それはスパイの任務に関わります! ありのままを報告するのも私の義務であり、火力ですから!」
「もし漏れてアンダーソン副司令や中央政府が動けば、俺たちはお終いだ。ヘレティックを隠匿していたとなれば、最悪の場合、お前も含めて前哨基地ごと『処分』されるぞ」
「ヒッ……!? わ、わかってます! 火力にかけて、私の口は特殊合金よりも硬いです!」
ネオンは青ざめて激しく頷いた。彼女なりに事態の深刻さは理解しているはずだ。
とりあえずの釘は刺せたが、根本的な解決にはならない。
マリアンが淹れてくれたお茶を一口飲む。温かい。
だが、俺の心臓は冷たい汗をかき続けていた。
(……一週間。一週間も、音沙汰がない)
デスクのモニターに映る、アークの全域マップを睨みつける。
マリアンを前哨基地に匿ってから、アークの中枢からは何の干渉も受けていない。
アンダーソン副司令には「ヘレティックの残骸は回収不能だった」と報告した。彼は疑念の目を向けていたが、証拠がないため追及は保留されている。
だが、問題はアンダーソンではない。
アークのすべてを監視し、裁定を下す中央AI――「エニック」だ。
前世で得た知識によれば、エニックはアーク内のあらゆる情報ネットワークを掌握している。
前哨基地の電力消費量の僅かな変動、不自然な物資の動き、偽装IDのアクセスログ。
どれだけシュエンが隠蔽工作を手伝ったとしても、エニックの目を完全に誤魔化し切ることなど不可能なはずだ。
絶対に、バレている。
マリアン(ヘレティック)が前哨基地にいることは、エニックの計算の盤上には既に上がっているのだ。
(なら、なぜ動かない?)
すぐに討伐部隊を差し向けてこないのは何故だ。
エニックはアークの存続を第一とする、冷徹な功利主義のAIだ。人類の敵であるヘレティックをアークの懐に放置しておくなど、彼女の論理回路が許すはずがない。
それなのに、一週間も沈黙を保っている。
……泳がされている。
どこから尻尾を出すかを見ているに違いない。
マグカップを置く手が、微かに震えた。
最大の武器だった知識は、もう当てにならない。
世界の仕組みや、誰がどこに属しているかといった
だが
(……受け身でいれば、確実に殺される)
なら、どうする。
見えない首輪をつけられたまま、震えて待つのか。
(……いや。待て)
思考を巻き戻す。
バレていて、それでも動かない。
――それ自体が、答えなんじゃないのか。
もしあいつが、マリアンを「排除すべき脅威」と判定していたなら。
俺たちは一週間前の夜、寝ている間に片付いていたはずだ。区画の空気を抜くなり、非常隔壁を落とすなり、この基地の生殺与奪はとっくにあいつの手の中にある。わざわざ部隊を寄越す必要すらない。
それをやっていない。
つまりマリアンの存在は、まだ
天秤に載せられて、まだどちらにも傾いていない。
――天秤があるということは。
錘を置く余地が、まだ残っているということだ。
(……交渉が、成立する)
背中に、じっとりと汗が滲んだ。
放っておけば、盤面はあいつの都合だけで進む。俺の知らないところで数字が積み上がり、ある日いきなり結論だけが降ってくる。
なら、席に着くしかない。まだ天秤が動くうちに。
(泳がされているなら……こっちから懐に飛び込むしかない)
腹を括る時だった。
筋書きがないなら、俺自身の「交渉術」と「ハッタリ」で道を切り開くしかない。
「マリアン」
「はい」
「俺は少し出かけてくる。イヴとラピたちには、俺が戻るまで絶対に基地の外へは出ないよう伝えてくれ」
「……承知しました」
彼女は問い返さなかった。
「……行ってらっしゃいませ」
コートを羽織る。
袖を通すだけの動作で、脇腹が抗議の声を上げた。歩けるだけマシだと言い聞かせて、執務室を出る。
向かう先は、ミシリス・インダストリー本社。
このアークで、俺をエニックの元へ直接繋げることができる「共犯者」は、あのクソガキCEOしかいない。
◇
ミシリス・インダストリー本社、CEOオフィス。
豪華な革張りのソファに座るシュエンは、俺の顔を見るなり、美しい顔を醜く歪めた。
「……何の用かしら、私の専属テスター? こっちは寝る暇もないくらい忙しいのだけど?」
「申し訳ありません、シュエンCEO。至急ご相談したいことがありまして……」
「はあ? 通信で言えばいいでしょ。わざわざ私のオフィスまで足を運ぶなんて、本当に身の程を……」
イライラと指でデスクを叩くシュエン。
俺は彼女の向かいの席に座り、単刀直入に切り出した。
「エニックに、面会したいんです」
「…………は?」
シュエンの動きが止まった。
ぽかんと口を開け、数秒間俺の顔を見つめた後、彼女は腹を抱えて甲高い笑い声を上げた。
「あははははっ! あー、おかしい。あなた、ついに頭がおかしくなったの? ただの掃き溜めの指揮官が、アークの最高意志決定機関であるエニック様に面会? 予約を何百年待てばいいと思ってるのかしら?」
「笑い事じゃないんです。エニックには既に、マリアンの件がバレているはずです」
「……」
俺の真剣な声に、シュエンの笑い声がピタリと止む。
彼女の瞳に、鋭い光が宿った。
「馬鹿なことを言わないで。ミシリスの総力を挙げて偽装したのよ? 情報統制は完璧だわ。バレるはずがないじゃない」
「シュエンCEOの工作は完璧です。でも、エニックの計算能力を舐めないでください。あいつは監視カメラやログなんて見なくても、アークの僅かな『歪み』から事実を逆算できるバケモノです。一週間も泳がされている時点で、俺たちはチェックメイト一歩手前なんですよ」
「……ッ」
シュエンが言葉に詰まる。
彼女も内心では分かっているはずだ。アークにおいて、エニックの目を完全に誤魔化すことなど不可能であると。
「もしエニックが強制監査に動けば、俺たちだけでなく、偽装を手引きしたミシリスも無事じゃ済まない。CEOがヘレティックを隠匿していたとなれば、失脚どころの騒ぎじゃないでしょう?」
「……ふん。馬鹿ね」
シュエンは呆れたように鼻を鳴らし、ふんと腕を組んだ。
「私がそんなヘマをするわけないでしょ。もし監査が入れば、あなたが私を騙したことにして全責任を被りなさい。ミシリスは一切の責任を負わないわ」
予想通りの返答だ。彼女の倫理観なら、自分の身を守るために平気でトカゲの尻尾切りをするだろう。やはりこのスポンサーに甘えは通用しない。
「ええ、責任は俺が取ります。……ですが、後手へ回れば分が悪くなる」
「……でしょうね。エニックを出し抜くなんて、一時的にしかできないわ」
「だから、完全に包囲される前に、俺が直接エニックと交渉します。マリアンの存在を黙認させるために。どうか、エニックの元へ送り届けるための『口実』と『通行証』をご用意いただけないでしょうか」
「交渉ですって……? エニック相手に?」
シュエンは信じられないものを見るような目で俺を睨んだ。
「無理に決まってるでしょ。エニックは感情のないAIよ。アークの脅威となる存在を『交渉』で容認するはずがないわ!」
「そこは俺がなんとかします。どうか、俺に賭けてくれませんか」
シュエンは忌々しげに唇を噛み、しばらく黙り込んだ。
頭の中で、俺の提案の損得勘定を猛スピードで計算しているのだろう。
やがて、彼女は悪魔のように口角を吊り上げた。
「……いいわ。どうせこのまま監査が入れば、私にとっても面倒なことになるし」
「ありがとうございます、CEO」
「それに」
シュエンが身を乗り出し、俺の顔を覗き込む。
「私の専属テスターが、私の知らない所でエニックなんかに勝手に処分されるのも癪だからね。あなたが直接エニックに言い訳する『舞台』くらいは用意してあげるわ。エニックへの面会は、『ミシリス主導の北部雪原任務に関する特別報告会』という名目で私がセッティングする。アンダーソンが嗅ぎ回る前に、先手を打って中央政府の法廷に引きずり出してやるのよ」
「なるほど。毒を食らわば皿まで、ですね」
「ええ。でも、勘違いしないでね? 私はあくまであなたを『報告者』として法廷に連れて行くだけ。エニックの前でどう言い逃れし、どう交渉するかはあなたの問題よ。もし失敗して処分されそうになっても、助け舟は絶対に出さないから」
その言葉には、彼女特有の傲慢な「所有欲」と「気まぐれ」がはっきりと滲んでいた。
いざという時、彼女は絶対に俺を庇わない。だが、あがくチャンスだけは与えてくれる。彼女にとって俺は、まだ壊れるところを見届ける価値のある『おもちゃ』らしい。
「……十分です。その舞台さえ用意してもらえれば」
「せいぜい、面白いショーを見せてちょうだい」
密約が成立した。
筋書きという道標を失った今、頼れるのは己の知恵と度胸だけだ。
次なる舞台は中央政府中枢――全知のAIエニックとの、命懸けの直接対決。
前哨基地での偽りの平穏は、静かに終わりを告げようとしていた。