~ルイズ~
ワルドの顔が、ゆっくりと近づいてくる。
逃げなければ、と思うのに体は動かない。指先ひとつ動かせないまま、私はただ彼を見上げていた。胸の奥にうっすらとした違和感があるのに、それを言葉にすることも、抵抗することもできない。まるで意識だけが薄い霧の中に沈められているみたいだった。
唇が触れる――
その直前。
背後のステンドグラスに、影が走った。
次の瞬間、色と光が弾けた。教会の静寂を、鋭い破裂音が真っ二つに引き裂く。空気が震え、砕けたガラスが光を散らしながら聖堂の中へ雪のように降り注いだ。
何が起きたのか分からない。思考が追いつかないまま、私はただ天井を見上げていた。色とりどりの欠片がゆっくりと落ちてくる。赤。青。金。砕けた光が空中で瞬きながら舞い、まるで宝石の雨みたいだった。
その光の中心に――人影があった。
空から落ちてくる、小さな影。ふわりと広がる髪。
青い。
その色を見た瞬間、胸が大きく跳ねた。
サヤカ。
ドォン!!
次の瞬間、彼女は教会の花道の中央に着地していた。石床に靴底が叩きつけられ、重い衝撃音が聖堂に響く。割れたガラスの欠片が彼女の周囲で跳ね、まだ空中を漂う色の破片が背後の光を受けてきらめいていた。
「助けを呼ぶんだったら、初めから一人で突っ走らないでよ。」
呆れたような声だった。
「なんだ君は!?」
隣のワルドが狼狽した声を上げる。
「誰って、そこのルイズの使い魔ですよ。主人のSOSに只今参上ってとこかな」
「使い魔?きみがか」
ワルドはサヤカの姿を上から下までゆっくりと眺めた。今の彼女は変身していない。どこからどう見ても、ただの華奢な少女だ。青い髪の、少し気の強そうな女の子。それ以上でもそれ以下でもない。
「申し訳ないが、こんな無礼な使い魔はルイズには似合わない」
「無礼なのは、どっちか、な!」
そう言った瞬間だった。
視界が一瞬だけぶれた。
次の瞬間、私はサヤカの腕の中にいた。
「っ! 早い」
ワルドが思わず声を漏らす。さっきまで目の前に立っていたはずのサヤカはもうそこにいない。彼女は私を抱きかかえたまま、いつの間にか数歩後ろへと移動していた。
「サヤカ!」
声を上げたとき、気づいた。体が動く。さっきまであんなに重かった体が嘘みたいに自由になっていた。
「ルイズに何か魔法をかけてたみたいだけど。いったい何のつもりかな?」
「貴様、いったい何をした」
ワルドの声が低くなる。
「何って、呪いを解いただけだよ。相手の意識を希薄にさせて自由に操る魔法ってとこかな。魔女の口づけみたいなものだし、解除なんて簡単だよ」
ワルドが信じられないものを見る目でサヤカを見た。
「これはどういうことかなワルド殿」
背後から落ち着いた声がする。
「……」
「ヴァリエール嬢の様子を見るに、彼女が言っていることは真実のようだが」
ウェールズ様の声だった。
ここからではワルドの表情は見えない。だが、背中越しに漂ってくる空気が変わったのが分かった。冷たい。さっきまでの穏やかな空気が嘘みたいに、張り詰めたものへ変わっている。
彼はいったい何を考えて――
「はあ」
大きなため息が、静かな聖堂に響いた。
「あと少しのところだったんだがね」
顔を上げたワルドの目は、氷のように冷たかった。
「ワルド殿、あなたは――」
ウェールズ様の言葉は、最後まで続かなかった。
ザシュ……
鈍い音がした。
次の瞬間には、ワルドの腕の陰から伸びた剣がウェールズ様の胸を貫いていた。
「あ、がはっ!」
「とりあえず、目的の一つは達成させてもらうよ」
「ウェールズ殿下!」
剣が引き抜かれる。血が石床に落ち、ウェールズ様の体がその場に崩れ落ちた。膝をつき、胸を押さえながら苦しそうに息を吐く。
ワルドはその姿を一瞥すると、しゃがみ込んで殿下の胸元を探った。そして封書を取り出す。
「さすがにこの数の兵士の相手は分が悪いからね。手紙と殿下。二つの目的を達成しただけで良しとしよう」
そう言うと杖を振る。体がふわりと宙に浮き、割れたステンドグラスの縁へと音もなく降り立った。背後には夜の森が広がっている。
「ルイズ。今回はダメだったが、次こそは君を手に入れてみせる。」
それだけ言うと、ワルドの姿は闇の中へ溶けるように消えていった。聖堂には、砕けたステンドグラスの欠片と、血の匂いだけが残されていた。