輪廻の檻 ―異世界で再会した幼馴染は、俺を知らない敵だった― 作:あすらりえる
夜のアルベール医院に残っている助手はリーファ一人だった。
日中の診察を終えた他の助手たちは、既に帰路に就いている。リーファは未だ目覚めぬジュノアの様子を確認すると、沸かした湯で彼女の身体を丁寧に拭った。
「リーファちゃん、そろそろ今日の仕事は終わりにしていいよ。あとは私が診ておくよ」
アルベールが声を掛けた。
「先生こそですよ。アウロラの森から帰ってきて間もないのに働きすぎです」
「耳が痛いな。反論できない。とはいえ、リーファちゃん。君は君で働きすぎだよ」
「先生が色々教えてくれるからじゃないですか。あと、先生。森に行く前より楽しそうです」
「おっと、すまない。私のせいだったか」
アルベールはリーファの言葉に苦笑した。
アウロラの森から戻ったアルベールは、自身の知識と経験を助手たちへ積極的に伝えていた。あの森でリアムから得られた知見は何物にも代えがたかったから。あとで他の助手が見返すことも出来るように書き記してさえいた。
疲弊した心を洗う森の風景と、エルフの少女の歌。ルカンの毒を分析する過程で、アウロラの森行きを依頼したゼファーへの感謝は尽きなかった。
目の前の桃髪の少女には、種族の異なる翠髪の弟子ができたことを話していた。魔力を持て余し、その適性に悩んでいた少女が師事してきたと聞き、リーファはどこか羨ましそうにその話に耳を傾けていた。
「その子、リュカちゃんですか。いいなぁ。私も自分が何の魔法が得意かなんて分からないのに……」
村育ちのリーファには戦闘経験などあるはずもなかった。その事実に近頃は歯痒さを覚えることが増えていた。
「存外、自分に適した魔法を知らずに生きていくことはできる。私たちは騎士や冒険者ではないからね。焦る必要はないさ」
リーファが話を続ける中で気になったのは、彼が王都で購入していた品だった。
小さな木箱に収められた、薄緑色の石を芯に据えた小ぶりなペンダント。医療品の調達に余念のない彼が、珍しく宝玉を手に取っていたことが目を引いた。用途を尋ねてみると、それはいずれ森を出てリグリアを訪れるだろうリュカのために用意したものだという。再会した時、彼女の回復魔法が別れ際よりも上達していれば、師弟関係の締めくくりに贈るつもりらしかった。
「さて、私はそろそろ個人的な研究を始めるとするよ」
アルベールも仕事を切り上げるようだ。
「先生、もう目の下に隈が出ていますよ。何の研究か知りませんが、ほどほどになさってください。本当に……」
無駄とは思いつつも、助手の一人として苦言を呈さずにはいられなかった。
「今夜こそ早めに休んでください」
「分かってるさ。もう少しだけ」
もう少しだけ。森から戻って以降、頻繁に聞く言葉だとリーファは思った。
ルカンの毒の脅威が去った今、彼に焦燥は見られない。声は常に穏やかで、どこか余裕があった。ただ、真摯に医療知識の研鑽に没頭しているように見えた。
自身の経験や回復魔法では治せなかった異形の毒への対処法。それを彼が確立すれば、やがて医院の者たちにも共有されるのだろう。
「今の先生は何だか、楽しそうですね」
アルベールは少し考えてから答えた。
「否定はしないかな。未知を知ることは楽しい。そのための時間がようやくできたという感じだね。翠玉の涙を取りに行く前は正直余裕がなかった。今は落ち着いて考えられるから、次に似たようなことがあっても活かせるよう備えておかないとね」
リーファは頷いた。ジュノアの容態が安定し、騎士団への解毒薬も行き渡った今、彼には急ぐ必要のない貴重な時間が流れている。それを邪魔する気はなかった。しかし、リーファは微かな引っかかりを覚えた。
神出鬼没な異形の魔物を、どうやって調べるというのだろうか。
建国に携わった者の血筋といえど、一介の町医者に過ぎない。答えは出なかったが、リーファはアルベールの言葉に従い、今日の仕事を終わらせることにした。
「今日はもう失礼します、先生」
「ああ、お疲れさま。リーファちゃんもありがとう。森に行っている間、ちゃんと医院を守ってくれて」
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リーファが去り、アルベールは独りになった。そして彼は医院に隣接する自宅の地下室へと降りていく。
サメとハイエナを合成したような異形の魔物ルカンの死骸。出発前、氷に閉ざされていたそれは今、剥き出しになっていた。
(……
魔力を乱す毒は既になく、もう動くことのない肉塊に過ぎない。アウロラの森で見た薔荊蛇とは何もかも異なるが、複数の動植物が接合された存在であるという点は共通している。
(また来ると言っていたが、今頃、どこで何をしているのやら)
ふと、ルカンの死骸を置いていった設楽のことが脳裏をよぎったが、すぐに思考の隅へ追いやった。何者なのかは判然としないが、聞いたところでまた煙に巻かれるだけだろう。
それよりも今は医者として、次なる異形の魔物の出現に備えることが先決だ。
慎重にルカンの毒を検分する中で、ある違和感に気づき、アルベールは手を止めた。頭部と胴体の継ぎ目に黒ずんだ塊があり、関節の骨の内側から両側を繋ぎ止めている。
凍結による変色ではない。最初からそこに存在していたもののようだ。
「泥……なのか、これは?この泥が異なる動植物を融合させたのか?……一体、どんな原理なんだ?」
その答えは得られない。だが、既存の知識にはない
アルベールの真理を求める研究は続き、夜は更けていく。
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海里はここ数日を、冒険者用の宿で休息に充てていた。ふと、静けさに戸惑いを覚える。
「こんなに静かな夜は、いつ以来だろう」
この平穏に、かえって馴染めない自分がいる。
不安ではなく止まり方を見失ったという感覚だ。目の前の出来事に対処すべく走り続けてきた人間が、急に足を止めた時に生じる妙な落ち着かなさがあった。
思えば、転生以来、海里はずっと何かを追い、抗い続けてきた。今夜はそれが何もない。いや、正確には、一時的に思考を止めているに過ぎない。
ルカンの毒の問題は解決し、アウロラの森で出会った者たちは、それぞれの責務を果たすべく異なる場所へと旅立っていった。
(リュカはこの時間でも、里の復興に励んでいるのだろうか)
次いで、ジュノアのことを思う。未だ眠りの中にある彼女が目覚めた時、何から話そうかと考えた。伝えたいことは幾つもあった。
そして、最後に鏡花のことを考えた。元の世界で共に過ごし、死に別れた三澄鏡花は、陽だまりのような女性で、不条理に抗う強さを持っていた。
だが、今この世界にいる彼女は虚魂に身体を乗っ取られている可能性がある。リアムの言葉が真実ならば、彼女を救う手段は殺害すること以外にない。
転生者である自分を調査対象としていた鏡花が、このまま沈黙を守るとは思えなかった。彼女はゼイロンの報告を既に受けているだろう。望まざる衝突は十分に予想できる。
転生者であることを知る者が意図せず増え始めていた。リーファ、ジュノア、リュカのように、素性を受け入れ、理解してくれる者たちがいた。
その信頼の輪を広げ、ゼファーやラルフ、レンやリズにも打ち明けるべきではないか。彼らならば理解してくれるかもしれない。
海里は異世界に転生してもう独りではない。目の前のことに対処するためだけに剣を振るう段階は終わった。
最後の瞬間まで気高くあったルクスに恥じないように。この世界で関わった人々が悲しみに暮れることのないよう戦おう。そう決意を固めた。
(今は……眠ろう)
海里は目を閉じ、眠りに落ちる。王都の夜はただ更けていく。
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海里とアルベールは、歩んできた道も経験も異なるが、人々を救おうとする意志だけは共通している。
夜が明ければ、世界はまた動き出す。望むと望まざるとにかかわらず、その波は必ずやってくる。今夜の静けさは、ただの凪に過ぎない。
その歩みがどこへ至るのか、今はまだ誰も知らない。
二章完