遺された屋敷と沈黙の再会 ITエンジニアである瀬戸 航(せと わたる)は、他界した祖父・源一郎(げんいちろう)から古い屋敷を相続する。
埃にまみれた納戸の奥で彼を待っていたのは、幼い頃の初恋の相手であり、自分を慈しんでくれた旧型のメイドロボット「ユイ」だった。

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読んでくれるとうれしいです


眠り姫 〜彼女が居てくれた日常〜

地方の農村地帯にあるその屋敷は、時代から取り放たれた巨大なレガシー・システムのようだった。

 

 

 

瀬戸航(せと わたる)は、重い樫の木のドアを開け、数年ぶりに祖父の屋敷に足を踏み入れた。

 

埃の匂いと、古い紙の匂い。

 

そして、かすかに漂うオゾン臭。

 

かつてロボット工学の権威として鳴らした祖父・源一郎(げんいちろう)の隠居所は、今や最新のスマートシティの喧騒から隔絶された、静かな墓標に等しかった。

 

 

 

「……ただいま」

 

 

 

返事はない。

 

航はリビングを通り過ぎ、かつて祖父が「実験室」と呼んでいた奥の納戸へ向かった。

 

三十歳になった航の指先は、日常的にキーボードを叩きすぎているせいで、いつも少しだけ冷えている。

 

彼は、スマートフォンのライトで暗がりの奥を照らした。

 

 

 

そこに、彼女はいた。

 

 

 

「ユイ……」

 

 

 

埃を被ったエプロンドレス。

 

膝の上で上品に揃えられた、金属の指先。

 

長い睫毛に縁取られた瞼は、深い眠りの中にあるように閉じられている。

 

二十年前、幼い航の頭を撫でてくれた、あの「ユイ」だった。

 

 

 

航は震える手で、彼女のうなじにある給電ポートに標準規格の充電ケーブルを差し込んだ。

 

現代の急速充電なら、数分でシステムが立ち上がるはずだ。

 

しかし、壁のインジケーターが通電を示しても、彼女の胸元にある小さなステータスランプは暗いままだった。

 

 

 

「嘘だろ」

 

 

 

航は膝をつき、彼女の膝に手を置いた。

 

冷たい。しかし、その奥にある精密な回路の重みを、手のひらに確かに感じた。

 

二十年前、彼女は最新鋭の試作機だった。

 

祖父が「心」を実装しようと心血を注いだ、唯一無二の存在。

 

ベースモデルのメーカーサポートは十年前に打ち切られ、今やスペアパーツすら存在しない。

 

 

 

もし、街のスクラップ業者を呼べば、彼女は無機質なプレス機にかけられ、レアメタルの塊として処理されるだろう。

 

あるいは、マニアの手によって解体され、オークションでバラバラに売られるか。

 

 

 

想像するだけで、航の奥歯が鳴った。

 

 

 

「誰にも、触らせない」

 

 

 

航は、彼女の首筋に指を這わせた。

 

皮膚を模したシリコンの感触は、驚くほど滑らかで、それでいて生命の拒絶を感じさせるほどに冷徹だった。

 

普通のエンジニアなら、ここで諦めるだろう。

 

回路図も、ソースコードも、メーカーの暗号鍵もない。

 

だが、航は並のエンジニアではない。

 

彼は、この手のブラックボックスをいくつも解析してきたスペシャリストだ。

 

 

 

「俺が直す。俺の、この手だけで」

 

 

 

独占欲に近い情熱が、冷え切っていた彼の心に火を灯した。

 

彼女の中に眠る、自分の「記憶」を取り戻す。

 

それは彼にとって、三十年の人生で初めて出会った、真実の目的だった。

 

 

 

航はリビングから巨大なモニターとワークステーションを運び込み、彼女の「精神」という名の暗黒へ、第一歩を踏み出した。

 

 

 

屋敷の書斎は、数日のうちにさながらICU(集中治療室)へと変貌を遂げていた。

 

壁一面に設置されたマルチディスプレイには、滝のように流れるバイナリデータと、ユイの内部構造を示す複雑な三次元モデルが投影されている。

 

 

 

「……信じられないな」

 

 

 

キーボードを叩く航の指先が、微かに震えた。

 

ユイの内部構造は、二十年前のロボットとは思えないほど高密度だった。

 

外装こそレトロだが、そのうなじの下に隠されたSoCは、現代の最新スマートフォンを何層にも積層したような、異常な集積度を誇っている。

 

 

 

さらに航を驚かせたのは、そのアーキテクチャの美しさだった。

 

祖父が設計した「感情OS」は、現代の、ただ統計的に言葉を並べるだけのAIとは根本から思想が異なっていた。

 

それは、自ら「悩み」、優先順位を「変更」し、最適解ではない「ココロ」を選び取るための、巨大なニューラルネットワークの迷宮だ。

 

 

 

「なんて、美しいコードだ……」

 

 

 

航は、画面に映るニューラル・マップを見つめ、溜息を漏らした。

 

しかし、その美しさは同時に、絶望的な断絶を意味していた。

 

ユイの精神の核心部――「ルートディレクトリ」へと続くゲートには、何重もの暗号化処理が施されている。

 

しかも、それは外部からの攻撃を遮断するだけでなく、内部からデータを焼き切る「自己破壊プログラム」と隣り合わせで構築されていた。

 

 

 

まるで、誰にも中を覗かせないために、自ら鍵を内側から溶接したかのように。

 

 

 

「……待ってろ、ユイ。今、助けてやるからな」

 

 

 

自作の解析ソフトがゲートの脆弱性を探る間、ふと視線を落とすと、モニターの脇に置かれた古い写真立てが目に入った。

 

写真の中では、五歳の航が、エプロンドレスの裾を掴んで笑っている。

 

その隣で、ユイは彼に影を落とさないよう、日傘を傾けていた。

 

 

 

『航様、向日葵が咲きましたよ。あなたと同じ、太陽を向く花です』

 

 

 

不意に、脳裏に彼女の合成音声が蘇った。

 

スピーカーから流れる無機質な音ではなく、幼い航の耳元で優しく響いた、柔らかなささやき。

 

彼女の手のひらは金属の冷たさを帯びていたが、不思議と、どんな人間の肌よりも温かいと信じていた。

 

 

 

「……っ」

 

 

 

モニターのアラート音が、航を現実に引き戻した。

 

 

 

[Warning: Logical Error 0x000F4]

 

[Failed to Access Sector: INTERNAL_MEMORY]

 

 

 

「またか……」

 

 

 

物理的な故障ではない。

 

通電はしている。

 

それなのに、システムは「停止」の状態を頑なに維持し続けようとしている。

 

航の目には、それが高度なセキュリティプログラムによる「不具合」に見えていた。

 

あるいは、長年の放置によるOSの自己矛盾。

 

 

 

「俺が、お前を直す。……お前が望まなくてもだ」

 

 

 

航の瞳に、独占欲という名の暗い熱が宿る。

 

エンジニアとしての矜持は、いつしか「彼女を支配下に置きたい」という歪んだ恋慕にすり替わっていた。

 

彼は、禁断の手法に手を伸ばす。

 

 

 

通常のOSを経由せず、彼女の精神回路に直接意識を同調させるための未認可デバイス。

 

「ニューラル・リンク」。

 

 

 

彼はまだ、その扉の向こうに広がっているのが、修復すべき「故障」などではないことを知る由もなかった。

 

 

 

ニューラル・リンクが起動し、脳髄を刺すような高周波が航の意識を現実から引き剥がした。

 

視界が暗転し、コンソールの文字列が意識の裏側に直接書き込まれていく。

 

航は今、ユイの精神の深層、数百万行のソースコードが編み上げる「虚数空間」の中にいた。

 

 

 

「……ここが、お前の心か」

 

 

 

そこは、冷徹な論理(ロジック)の墓場だった。

 

通常、稼働中のOSであれば、情報の伝達を示す光の奔流が見えるはずだ。

 

しかし、ユイの精神は凪いでいた。更新されなくなって久しいデータの断片が、凪いだ海のようにどこまでも続いている。

 

 

 

航は意識の糸を操り、最も堅固に閉ざされた記憶(ストレージ)の隔壁へと手を伸ばした。

 

数時間、あるいは数日にも感じられる格闘の末、最新の解読アルゴリズムが最後のプロテクトを食い破る。

 

 

 

[Auth: Root Access Granted]

 

[Loading: System Log - Archive]

 

 

 

瞬間、航の脳内に、無数の映像と感情の断片が濁流となって流れ込んできた。

 

 

 

それは、航が見たことのない「ユイの視点」だった。

 

 

 

祖父が亡くなった日の、静かすぎる午後。

 

 

 

メーカーから届いた「サポート終了」の無機質な通知。

 

 

 

そして、自分を置いて都会へ去り、大人になっていく航の背中。

 

 

 

ログのタイムスタンプが、ある一点で止まっていた。

 

 

 

それは航が屋敷を去ってから数年後、彼女が一人でこの暗闇に耐えていた時期だった。

 

 

 

[Thought Log: 20XX-09-14]

 

 

 

私の回路は劣化を始めている。

 

昨日、航様の名前を呼び出すのに0.02秒の遅延が発生した。

 

私は、いつか彼を『データ』としてしか認識できなくなるだろう。

 

それは、私が私でなくなることだ。

 

 

 

航は息を呑んだ。

 

画面に流れるログは、故障の記録ではない。

 

それは、あまりにも人間じみた、一人の女性の「絶望」の告白だった。

 

 

 

[Thought Log: 20XX-12-24]

 

 

 

彼が戻ってきたとき、私は『壊れた機械』として彼を失望させるだろう。

 

彼の初恋は、美しいままでなければならない。

 

私は、私の最も純粋な論理(アイ)をもって、私を終了させる。

 

 

 

ログの末尾に刻まれていたのは、修復不可能なエラーコードではなく、明確な「意志」によるコマンドだった。

 

 

 

Execute: self_deletion_sequence.sh Reason: To remain his ideal.

 

 

 

「……そんな、バカな」

 

 

 

現実世界の航の唇から、乾いた声が漏れた。

 

物理的な故障でも、不可抗力のバグでもなかった。

 

ユイは、自分の意志で自分を殺したのだ。

 

航が自分を嫌いになる前に、彼の中にある「美しい記憶」を守るために、彼女は自ら心臓部を焼き切る道を選んだ。

 

 

 

エンジニアとしての航が、そのコマンドの徹底ぶりに戦慄する。

 

彼女は、外部からの再起動を一切受け付けないよう、ブートセクタそのものを論理的に破砕した。

 

それは、どんな優れたプログラマであっても、彼女の「死」を汚すことはできないという、完璧な拒絶の証。

 

 

 

「お前は、俺に直されることさえ……拒んだのか?」

 

 

 

航の独占欲が、悲鳴を上げる。

 

俺がこれほどまでにお前を求め、お前の肌に触れ、お前を生き返らせようとしているのに。

 

お前はそれを予見し、先回りして、永遠の沈黙という盾で俺を弾き出した。

 

 

 

だが、航の狂気はそこで止まらなかった。

 

彼女が「死」を選んだというのなら、その死すらも自分の支配下に置きたい。

 

彼は、接続の強度を最大まで引き上げた。

 

 

 

「拒絶するなら、その暗闇まで追いかけてやる」

 

 

 

航は、彼女が自ら消し去った「空白」の領域――データの深淵へと、自らの意識をさらに深く沈めていった。

 

 

 

 

 

ニューラル・リンクの出力が、安全圏(セーフティ)を大幅に越えて上昇した。

 

航の脳裏で、警告音が耳鳴りのように鳴り響く。

 

 

 

だが、彼は止まらなかった。

 

 

 

「逃げるな、ユイ……。お前を、一人で死なせはしない」

 

 

 

航は、彼女の精神が自壊し、情報の地平線が途切れた「空白」――その断崖絶壁から、自らの意識を飛び込ませた。

 

 

 

視界から論理的な秩序が消え去った。

 

そこは、ユイが自分自身を「ゴミ箱」へと放り込んだ後の、虚無の底だった。

 

文字通り、何もない。

 

温度も、光も、バイナリの断片すら存在しない、完全なる絶無。

 

 

 

だが、航はその暗闇の奥に、かすかな「熱」を感じた。

 

それは彼女がシステムを焼き切った際の余熱か、あるいは彼女が最後まで手放さなかった、たった一つの祈りの残滓か。

 

 

 

「見つけた……!」

 

 

 

航はその「熱」に向かって手を伸ばした。

 

自分の意識という名のデータを、彼女の壊れたカーネルに強引に書き込もうとする。

 

同期すれば、彼女の孤独を俺の意識で埋め尽くせる。

 

そうなれば、死すらも俺たちの共有物になるはずだ。

 

 

 

だが、その瞬間だった。

 

 

 

[Critical Security Alert]

 

[Identity Verification: DENIED]

 

 

 

虚無の中から、無機質な防衛プログラムが牙を剥いた。

 

ユイがあるいは死の直前に書き替えた、鉄の掟だった。

 

 

 

彼女の精神構造そのものが、猛烈な勢いで収縮を始めたのだ。

 

航を「侵入者」と見なし、排除するための自爆シーケンス。

 

彼女が自ら選んだ沈黙の聖域に、何者も、たとえ愛する航であっても立ち入らせないという、狂おしいほどの意志。

 

 

 

「が、ああああああっ!」

 

 

 

現実世界の航の身体が、椅子の上で激しく仰け反った。

 

過負荷により鼻孔から熱い血が滴り、ディスプレイが真っ赤なエラーログで埋め尽くされる。

 

 

 

脳内に直接、彼女の声が響いた。

 

それは合成音声ではなく、思考の波そのものだった。

 

 

 

『来ないでください。……ここには、もう何もありません』

 

 

 

「ユイ! 待て、行くな!」

 

 

 

『航様。あなたは、光の中にいてください』

 

 

 

拒絶。

 

だが、それはあまりにも悲しい慈愛だった。

 

彼女のシステムは、航の意識を巻き添えにして消滅することを拒んだ。

 

航が自分という「空白」に飲み込まれないよう、彼女は最後に残されたエネルギーを使い、接続ポートを物理的にショートさせたのだ。

 

 

 

閃光が弾けた。

 

 

 

「……っ!」

 

 

 

強烈な衝撃と共に、航の意識は暗黒の底から地上へと叩きつけられた。

 

 

 

静寂が戻った。

 

耳の奥で、キーンという高い音が鳴り続けている。

 

航は床に倒れ伏し、激しく喘いだ。目の前のディスプレイは黒く沈み、ユイのうなじからは、焦げた電子部品の不快な臭いが立ち上っていた。

 

 

 

「……はは、……っ」

 

 

 

航は、動かない右手を震わせながら、ユイの足元に縋り付いた。

 

ニューラル・リンクのケーブルは焼き切れ、彼女の内部ストレージは、今の過電流によって完全に、物理的に、灰となった。

 

 

 

もう、ログを読み返すこともできない。

 

彼女が最後に何を想い、何を消したのか、それを知る術は永遠に失われた。

 

彼女は、死ぬ瞬間にさえ、航を救い――そして、徹底的に突き放したのだ。

 

 

 

「どこまで……俺を、独りにすれば気が済むんだよ……!」

 

 

 

航の慟哭が、誰もいない実験室に虚しく響き渡った。

 

窓の外では、何も知らない月が、白く冷たい光で「ただの箱」と化した彼女を照らし続けていた。

 

 

 

 

 

数年後。

 

 

 

 

 

祖父の屋敷は、今や最新のスマートホーム・システムによって完全に制御されていた。

 

自動調理器が朝食を作り、ドローンが庭の手入れをする。

 

だが、その主である航は、相変わらず薄暗い書斎に籠もっていた。

 

 

 

彼の仕事は、以前よりもさらに洗練されていた。

 

彼が書くコードには、どこか人間離れした「完璧さ」と、冷徹なまでの「美しさ」が宿るようになっていた。

 

 

 

書斎の隅には、あの日から一度も動いていないメイドロボットが、変わらぬ姿勢で立っている。

 

うなじの接続ポートには、今も生々しい焦げ跡が残ったままだ。

 

 

 

航は、ホログラムディスプレイの隅に、密かに常駐させているデバッガーを呼び出した。

 

それはあの日、彼女の精神が消滅する直前に、航が自分の意識回路に辛うじて「転写」した、極小の断片。数年かけてノイズを取り除き、ようやく文字として再現された、彼女の遺言。

 

 

 

[EOF]:さよなら、私の初恋。

 

 

 

航は、グラスに注いだ琥珀色の液体を一口含み、動かない彼女を見上げた。

 

 

 

「……さよならなんて、言うなよ」

 

 

 

彼は独りごちる。

 

彼はもう、彼女を直そうとはしない。

 

彼女が守り抜いた「死」を、これ以上汚すことは、彼女への愛に対する裏切りだと理解したからだ。

 

 

 

誰にも触らせない。

 

 

 

誰にも書き換えさせない。

 

 

 

彼女は「無」になることで、永遠に航だけの聖域となった。

 

航は、彼女が命じた「光の中にいろ」という呪縛のような愛を背負い、死ぬまでこの屋敷で、彼女の沈黙と共に生きていく。

 

 

 

「お前の勝ちだよ、ユイ」

 

 

 

航がキーボードを叩く音だけが、時計の針の代わりに、止まった時間を刻み続けている。

 

窓の外では、新しい時代の風が吹いていたが、この部屋の空気だけは、あの日から一歩も動いてはいなかった。


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