さぼりすぎましたね
シャドウとベアトリクスの決戦。
その隅で、場違いなほど沸き立っている女性がいた。
「その刹那、シャドウ様はベアトリクスの猛攻を紙一重でいなし、闇夜に射す月光のごとき鋭さと静けさをもって刃を返した。そして泣きボクロの可愛い可憐なエルフの美少女へと、あの余裕に満ちた声音で告げたのだ。『お嬢さん、ケガは――』……ッ、最高です……! シャドウ様……!」
七陰第二席ベータは、気でも触れたかのように一心不乱にメモ帳へなにかを書き込んでいた。
目は爛々と輝き、筆は止まらない。戦場の隅とは思えない熱量である。
「ベータ様」
突然かけられた声に、ベータは舌打ちしかけた感情を寸前で飲み込む。
視線を向けた先には、黒衣を着た人物が畏まった様子で佇んでいた。
ベータは意識の半分を――いや、二割をその人物に、八割を今なお戦うシャドウへ割きながら報告を受ける。
「何?」
「ローズ・オリアナは予定通りアルファ様先導のもと、王都外縁に到達しました。そのままニュー様に引き継ぎ、アレクサンドリアへ移動を開始しています。アルファ様は不測の事態に備え、王都に残られるとのことです」
「そう。分かったわ。あなたたちは引き続き――」
――どん。
「ッ!?」
空気が、震えた。
決して目立った衝撃があったわけではない。
だが確実に、異様な魔力がこの場の全てを押し潰すように駆け抜けた。
ベータは弾かれたように顔を上げ、魔力の放たれた方向を振り向く。
ミツゴシ商会の方向――先ほどまでシャドウとベアトリクスが戦っていた場所を起点に、異常な魔力が噴き上がっていた。
それは、これまでベータが見てきたどの魔力とも違う。
ただ強いだけ、ただ多いだけでは説明のつかない異常な感覚。それは、もっとも原始的で、もっとも普遍的な生物として当たり前に理解してしまえる“何か”。
「……これは」
――こんな魔力、感じたことがない。
肌が粟立つ。
全身を冷たい刃でなぞられたような怖気が一気に広がり、指先の温度が抜けていく。へたり込みそうになる衝動をベータは奥歯を噛んでねじ伏せた。
この場に一人きりなら、きっと膝をついていたことだろう。
ベータは思い出した。
それは、生物にとって最も根源的な感情。
強くなるにつれ、いつの間にか薄れていったモノ。
その感情の名は。
恐怖。
「ベータ様……これは……」
部下の声が震えていた。
無理もない。ベータですら膝をつきそうな魔力だ。こうして立っているだけで賞賛に値する。
「……なんなのよ」
思わず漏れた独白は、すぐに七陰としての声に塗り替えられる。
「総員、警戒態勢」
ベータは魔力の噴き上がる方角から目を離さないまま、鋭く告げた。
「これよりプランBに移行します」
「は、はい!」
「ローズ・オリアナの退避を最優先。集結した魔剣士たちはそれとなく妨害しなさい。正面からぶつかる必要はないわ。主様の戦場に近づけさせないで」
「了解しました!」
矢継ぎ早に放たれる指示に、部下たちは少しずつ落ち着きを取り戻していく。
命令がある限り、人は動ける。ベータはそれを知っている。
冷静さを装いながら、ベータは思考を巡らせる。
――当初の想定を完全に超えている。
そもそも王都でこれほどの力を見せる必要はないはずだ。今までのガーデンの調査からしても、ベアトリクスがここまで痕跡を残すような戦いをするとは思えない。
何かあるのか。全霊を賭してでも、シャドウ様と戦う理由が。
それでも。
シャドウ様は負けない。
その確信だけは、揺るがない。
――そのはずだ。
■
――回帰。
それは魔力による芸術だった。
あまりに繊細、あまりに緻密。
常軌を逸した修練によってのみ至れる魔力制御の極みは、万人に憧憬を抱かせるに十分な力。
血管の一つ一つ、細胞の一欠片に至るまで魔力による強化を施す絶技は、一歩間違えれば内側から爆ぜる狂気の御業。
「悪魔憑きとは、英雄に連なる存在」
ヴァイオレットの瞳がシャドウを射抜く。
「その血に宿る力は、身の丈に合わない急速な魔力の成長と性質の変化を与える」
純白の魔力がベアトリクスの身体を這うように、美しい螺旋を刻む。
「それはいずれ制御可能な範囲を超え、限界を迎えた体は腐り堕ちる。それが悪魔憑き。そして、暴走する魔力の制御に成功した者たちを覚醒者と言う」
髪は黄金に靡き、常ならざる魔性を漂わせる。
「悪魔憑きの源流とは何か。知っているだろう」
「もちろん」
「千年前、魔人ディアボロスを打ち倒した三人の英雄。彼女たちの血を引く者、それが悪魔憑き。つまり、悪魔憑きとは英雄の子孫にほかならない。
――では、英雄とはなんだ? なぜ、三英雄は魔人ディアボロスを打ち倒すことができたのか。
なぜ、千年経ってなお、悪魔憑きを引き起こすほどの異常な魔力を宿せるのか」
痛いほどの静寂が耳を突く。
深く、重い魔力が王都の喧騒すら跳ね除けていた。
回帰の最終段階において、跳ね上がった魔力は一時、ベアトリクスの制御を外れる。
――魔力の波動が駆け抜けた。
鐘の音のような凄まじい轟音が王都に木霊する。
風は吹かない。衝撃も放たない。ただ、知らしめるのみ。
英雄はここに再誕したのだと。
「こんな人目の多い場所で使うつもりはなかった。これは、悪魔憑きの真価そのものだから。……でも、確かめたくなった」
シャドウはこの日初めて、戯れではなく、警戒をもって剣を構えた。
「――行くよ」
ベアトリクスが一歩、足を踏み出す。
何者をも恐れぬその一歩は、まるで無人の野を行くがごとく。
シャドウが視界の端に靡く金色を捉えた瞬間、左腕が宙を舞った。
彼は反応できなかったのだ。ベアトリクスの動きに。
「……ッ!」
即座に腕を再生させながら考える。
――単純な速度の上昇……だけじゃない。
単に速度が上がっただけならば対処できる。彼にはそれだけの力があった。そもそも、魔力の爆発を利用した高速移動は本来、シャドウの得手でもある。
しかし、ベアトリクスの見せたそれは全く違う。いや、原理としては同じく魔力の爆発を利用した高速移動だ。にもかかわらず、決定的に違う点が存在する。彼女の動きには、本来あるべき過程が存在しない。
――加速と減速。
どんなに速かろうが、そこには必ず初速と終速の概念がある。いきなり最高速に到達することなどありえない。
もし、そんなことがあり得たのだとすれば、戦いの前提そのものが崩壊する。
間合いの内側から、加速という過程を飛ばして斬撃が届く。それすなわち、人の反応が介在する余地のない一撃。
意味するところは――不可避。
「闊歩」
回帰中の上昇した魔力と身体強度が可能とする彼女の歩法は、最初の一歩で最高速に至り、次の一歩で完全停止を実現する。
それが生み出すものは、究極の緩急。
瞬間移動のような動きに、シャドウは対応できなかったのだ。
金色が揺れる。
宙を舞った左腕が地面に落ちるより早く、次撃が来た。
次の瞬間、シャドウの肩口が切り裂かれる。
だが、先ほどに比べればずっと浅い。
「……僅か二撃で」
ベアトリクスは感嘆の声を漏らした。
過去、ここまで早く“闊歩”に対応してみせた敵は存在しない。
三度、金色が舞う。
喉笛を断ち切るように放たれた軌跡を、シャドウは半歩沈み込むように身を落とし、刃の腹を紙一重で滑らせた。
頬に一筋、赤い線だけが残る。
次の一撃。
シャドウは後退しなかった。踏み込みの終点へ剣を置くように差し込み、甲高い火花を散らして軌道を逸らす。
「見えてる?」
「いや、直前まで見定めたが見えなかった。だが、来ると分かっていれば対処は容易い」
ベアトリクスの口元が、わずかに吊り上がる。
五撃目。
最速の踏み込みを以って、シャドウに迫る。
キィン――ッ!!
二つの剣が真正面から噛み合い、火花が爆ぜる。
衝突の一点を中心に空気が震え、周囲の建物の窓ガラスが砕け散った。
「捉えた」
「さすが」
両者は笑みを浮かべていた。
まだ見ぬ好敵手と刃を交える歓喜。
強者だけに許された笑みだった。
鍔迫り合いのまま、互いの剣が軋む。
押し切るでもなく、退くでもなく、わずかな力の流れを探り合う一瞬――その均衡を、先に破ったのはシャドウだった。
返す刃が、稲妻のようにベアトリクスの胴を薙ぐ。
捉えた。
そう確信できる軌道だった。
だが。
ベアトリクスは一瞥すらくれない。代わりに、シャドウの一撃は“何か”に弾かれた。
「――これは」
赤い液体――血液がシャドウの一撃を跳ね除けたのだ。
衝突と同時に血が爆ぜ、散弾のような無数のつぶてとなってシャドウへと降り注ぐ。
シャドウは最小限の動きでそれらを回避し、叩き落とし、間合いを切るように後ろへ下がった。
だが追撃は終わらない。つぶてから枝分かれした幾筋もの血の槍が、波濤のように迫り来る。
「魔女の秘術か」
――自らの肉体の全てを極限まで強化することによって成せる
それこそが回帰。
もたらすものは二つある。
“英雄の肉体”と“魔女の力”。
「これを躱すのか。本当にすごい。でも――」
ベアトリクスが指先を軽く払う。
血は意思を持った群れのように集まり、歪に伸び、尖り、槍へと変わった。
遅れて聞こえるのは、雨音ではない。
無数の血の槍が、叩きつけられる音だった。
「――その程度では、あの子を任せられない!」
シャドウは一歩も退かない。
降り注ぐ刃の雨を、最小の動きで躱し、叩き落とす。
剣が閃くたび、血の槍は途中で砕け、赤い飛沫となって舞い散った。
だが――近づけない。
踏み込もうとした瞬間、空白だったはずの間合いに新たな槍が生まれる。
避けた先へ、打ち払った軌道の外へ、シャドウの動きを塞ぐように突き刺さる。
「……すごい攻撃だ」
シャドウは冷静に観察していた。
降る槍の密度。立ち上がる位置。生まれる順序。――全てに相手の“意志”がある。
そして、次の瞬間。
微動だにしていなかったはずのベアトリクスの気配が、ふっと薄れる。
赤い雨の帳の中で、金色が掻き消えた。
――来る。
ほんの僅かな体重移動で血の槍を躱しながら振り返る。
キィン――ッ!!
衝突音が弾け、火花が雨粒の中で散る。
シャドウの剣が、ベアトリクスの一撃を受け止めていた。
「……っ」
手応えは重い。だが揺らがない。
先ほどまで翻弄されていたベアトリクスの動きに、今は余裕をもって対応する。
シャドウの最も恐れるべき点は、その成長速度にあった。
ベアトリクスは至近距離で笑った。
息が触れるほど近くで、囁くように告げる。
「言ったはずだよ、シャドウ。君の全てを魅せろと」
シャドウが反撃に転じるより早く、ベアトリクスが飛び退いた。
赤い雨が隙を潰すように滑り込む。
無数の血の槍が落ち、立ち上がり、逃げ道を塞ぐ。――先ほどの焼き直し。
そのはずだった。
だが、シャドウの足は止まらない。
コツン。
一歩踏み出した。
すさまじい数の槍が殺到する。
全方位から迫るそれはまさに回避不能の絶死の牢獄。
シャドウは無造作にただ薙ぐように剣で受け流した。
コツン。
今度は剣すら使わない。
歩を進めるシャドウをまるで避けるように血の雨が通り過ぎる。
コツン。
次の一歩、その姿はベアトリクスの目の前にあった。
もはや、血の嵐は眼中にない。
そんな態度。
「お見事」
ベアトリクスの首元に迫る剣。
しかし、ベアトリクスは構えることすらしない。
代わりに極小の血のつぶてが剣を受け止めていた。
――未だ届かない。
武神ベアトリクス。その力の深みはシャドウをして測りきれない。
「……ん?」
ふと、視界の端が妙に“赤い”ことに気づく。
避け、打ち払い、砕いたはずの血の槍――その残骸が、消えていない。
血の飛沫は宙で細い糸となり、糸は槍の輪郭を取り戻し、いつの間にか周囲を覆いつくしていた。
路地の壁から壁へ。屋根の縁から縁へ。地面から空へ。
無数の赤い線が、蜘蛛の巣のように戦場を覆っていた。
「ほう」
シャドウが息を吐いた瞬間、ベアトリクスの姿が消える。
彼の視線が追い、頭上の赤い足場にベアトリクスを捉えた、その刹那。
彼女はさらに跳ぶ。
赤い足場から足場へ。
空間そのものを横断するかのような動き。
キィン――ッ!!
上から斬撃が落ちる。
火花が散り、シャドウの剣が受け止めた。だが同時に、背後からも血の匂いが迫る。
横から。
下から。
屋根の縁を蹴って、今度は斜めから。
シャドウは受け、流し、弾く。
それでも――追いつかない。
剣を振るえば血が飛散し、新しい足場が生まれる。
避ければ、避けた地点が次の足場になる。
この血の網そのものが、ベアトリクスの動きを加速させる舞台装置と化していた。
「きりがないな」
シャドウは一歩、踏み込む。
血の嵐はもはや彼を阻む要因たりえない。
刃が閃き、ベアトリクスの軌道を捉える。
――届いた。そう確信できる一撃。
「惜しい」
しかし、ベアトリクスは視線すらくれない。またしても血のつぶてが刃先を受け止めた。
防御と反撃が同時に成立する。その理不尽を前に、シャドウは踏み込みの勢いを殺しきれず、刹那の隙を晒す。
ベアトリクスは突進の勢いのまま剣を振るった。
「……ッ!」
シャドウは咄嗟に身を引き、斬撃に合わせて衝撃を逃がす。
それでも抑えきれない“重さ”が骨の奥まで貫き、次の瞬間、体が宙に浮いた。
景色が高速で過ぎ去る。
王都の川に架かる橋が迫った。
避ける暇などない。
衝突。木と石が悲鳴を上げ、欄干が砕け散る。
シャドウの身体はそのまま橋を突き破り、水面へ叩き込まれた。
盛大な水しぶき。
川面が真横に割れ、水柱が弾け、橋の残骸が粉々に舞った。
――攻防が加速する。
反撃に転じるシャドウの刃を、ベアトリクスは見ようともしない。
代わりに血のつぶてが防ぐ。
血のつぶてを断つほどの一撃を与えれば、今度は直接防がれる。
攻防が意味をなさない。
一方的な理不尽の押し付け。
圧倒的な数の暴力はシャドウをして、完全な防勢を取らざるを得ないほどだった。
「……なるほど」
血の槍が迫る。
縦横無尽、変幻自在。全方位から押し寄せる血の嵐。
無数に広がる血の槍を足場に、異次元の軌道で襲い来るベアトリクス。
予測不能、対処不能、防ぐことなどなお不能。
いや、防ぐという発想すら愚かと嘲笑うほどの力。
英雄の身体能力と魔力。
そして女神の試練でアウロラが見せた以上の血の操作。
絶対的格の違い。これが、これこそが悪魔憑きの真の力。
抵抗などできない。
そう、普通なら。
――この男は普通とは対極の存在だった。
剣が閃いた。
シャドウがベアトリクスを捉える。その頬には一筋の傷が刻まれていた。
血の雨が止まり、しばし二人は見つめ合う。
「一見予測不能に思えるけど、足場が必要な以上、軌道は限られる。動きもよく見たら直線的だ。慣れてしまえば簡単な話さ」
シャドウが少年のような声で告げる。
「それが本当の君?」
「どうだろうね」
至高に見えた攻防が数瞬後にはさらに速度を上げる。
肌の上を滑らせるかのような究極の回避はひとつ撃ち合う毎に精度を増す。
ベアトリクスを圧倒的な動だとするのなら、シャドウは圧倒的な静。
一つ一つ、ゆっくりと、しかし確実に、積み上げるようにベアトリクスに追いすがる。
「……本当にすごい。すごいよ。シャドウ」
空中に飛び上がったシャドウに追随したベアトリクスはそのまま下から押し上げるように剣を合わせた。
「私は君に魅せられている! だから――」
鍔迫り合う二人。
その周囲で血の槍が螺旋を描いて周回し、空へ駆け上がる赤い階段を形作っていた。
シャドウは感じていた。
ベアトリクスの剣、その切っ先の一点に、異様な魔力が集中しているのを。
ギリギリと刃を押し合わせた場所で火花が散り、ゆっくりと彼女の剣がシャドウの剣を食い破ろうとする音が響く。
亀裂が走り、断ち切られる寸前――シャドウは咄嗟に身を躱した。
同時に振り抜かれたベアトリクスの一振りは、空に一筋の線を描く。
――空が割れた。
雲間から差し込む光は、まるでスポットライトのようにシャドウとベアトリクスを照らす。
まるで、世界でただ二人だけを祝福するかのように。
ベアトリクスは血の螺旋階段に足を降ろし、叫ぶ。
「――私に証明してみせろ! 君こそが闇を切り裂く月光なのだと!」
刹那、血の螺旋が爆ぜた。
上空に散った赤い軌跡が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、複雑な文様を描いて脈動する。
「行くよ! シャドウ!!」
美しく脈動する赤を上書きするかのように純白の光が王都を染め上げる。
まるで神が世界に装飾を施したかのような壮麗な光景に、人々は見上げることしかできない。
同時に青紫の光が迸った。
上空で対峙する二人。
この瞬間、世界は二人の舞台となる。
許された色は二つ。青紫と純白だけ。
「今宵、世界は再び知る」
「アイ」
極限まで高まった魔力が美しく弧を描き、螺旋とともに収束する。
「英雄の軌跡を」
「アム」
極限の魔力制御と古代の術理の融合からなるベアトリクスの奥義は、奇しくもシャドウと同じ形をしていた。
――今宵、二つの火花がはじけ飛ぶ。
「――極光」
「――アトミック」
そこには晴天だけが広がっていた。
ちょっと長いかな?