ドクターの自室は、妙に整いすぎていた。
元々整理整頓が行き届いている部屋ではあるが、今日に限っては生活の気配そのものが薄められているようで、机の上から余計な物はすべて片付けられ、壁際へと寄せられたその机の代わりに、中央には場にそぐわない簡素なテーブルが置かれていた。その上にはノイルホーンがかき集めてきた酒と軽食が並べられているが、どれも見慣れたものばかりで、特別な日のために用意されたというよりは、ただ“それらしい形”を整えるために置かれているだけのようにも見える。
「……ま、こんなもんだろ」
ノイルホーンは視線をテーブルの上に落とす。
酒も、つまみも、並べ方も、どれも間違っていないはずなのに、どうにも“足りていない”という感覚だけが残る。
それが何なのかは分からない。
分からないが──本来ここにあるべき何かを、自分は最初から用意し損ねている気がしていた。
「もうちょい派手にした方がよかったか……いや、でもな」
誰に向けたわけでもない独り言のような言葉を続けかけて、途中でやめる。
派手さが似合う面子ではないし、何よりこの場の目的を考えれば、下手に装飾する方が不自然だということくらい、彼自身が一番分かっている。
「……まあいいか。俺たちだしな」
結局そう締めくくり、どこか無理やりに納得したように頷いてから、彼はドクターの方へと軽く顎をしゃくった。
「ほら、座れよ。主役が立ってると落ち着かねぇ」
いつも通りの軽口のつもりだったはずだが、その言い回しにはわずかな硬さが混じっており、場を和ませようとする意図と、それが上手くいっていない自覚とが微妙に噛み合っていない。
全員がそれぞれ席につく。
レンジャーは自然と壁際に位置取り、周囲を見渡せる場所に静かに腰を下ろす。その動きにはいつもと変わらぬ落ち着きがあり、少なくとも表面上はこの場の空気に影響を受けていないようにも見えるが、だからこそ逆に、その“変わらなさ”が際立っていた。
ヤトウは椅子に浅く腰掛け、背筋を必要以上に伸ばしたまま、まるで任務前の待機姿勢のような状態で固まっている。視線は定まらず、テーブルの上と他のメンバーの間をわずかに行き来しているが、どこか一点に落ち着くことはない。
ドゥリンは椅子に座るなり、ほとんど反射的に机へ頬をつけ、「……眠い」と小さく呟いた。
「寝るなっての」
ノイルホーンが軽く頭を叩くと、ドゥリンは「んー……」と気の抜けた返事をしたが、それ以上やり取りが広がることはなく、せっかく生まれかけたわずかな軽さも、そのまま空気の中に溶けて消えていった。
短い沈黙が落ちる。
だがそれは一瞬で終わるようなものではなく、誰も次の言葉を差し出さないことで、じわじわと長さを増していく種類の沈黙だった。
やがてノイルホーンが、耐えきれなくなったようにわざとらしく咳払いを一つ落とし、テーブルの上のグラスへと手を伸ばす。
「……じゃあ、その」
グラスを持ち上げる。
中の液体がわずかに揺れ、光を歪ませる。
「えーと……」
言葉が続かない。
何かを言うべきだという意識だけが先行して、肝心の中身がまるで浮かんでこない。送別会である以上、言うべき言葉の候補はいくらでもあるはずなのに、いざこの場で口にしようとすると、そのどれもが妙に的外れに思えてしまい、結果として何も選べなくなる。
「……こういうの、なんて言うんだっけな」
半ば冗談のように呟きながら、無意識に視線を泳がせる。誰かが代わりに言ってくれるのではないか、そんな淡い期待が含まれていたのかもしれない。
しかし──誰も、何も言わなかった。
ヤトウはグラスに手をかけたまま、持ち上げるべきかどうかの判断を保留したまま静止しており、周囲の動きを確認するように一瞬だけ視線を巡らせるが、基準となる“正しい振る舞い”が見つからない以上、自分から動くことができない。
レンジャーはすでにグラスを手にしているものの、それを掲げるでもなく、ただ静かに持っているだけで、誰かがこの場の流れを決定するのを待っているようにも見えた。
ドゥリンは机に頬をつけたまま、指先でグラスの縁をなぞっており、その度に小さな硬い音が規則的に鳴る。その単調な音だけが、やけに耳についた。
「……まあいいか」
ノイルホーンが、結局諦めたように言う。
「難しいことは抜きだ。飲もうぜ」
その言葉はあまりにも簡素で、場に見合ったものとは言い難かったが、それでも“何もない状態”よりはましだった。
グラス同士が触れ合う。
乾いた、小さな音。
乾杯と呼ぶには頼りなく、ただ形式だけをなぞったような接触。
それぞれが一口、酒を飲む。
味を楽しむというよりは、口を動かすための行為に近い。
その後に続くべき言葉は、やはり出てこない。
誰かが何かを言えば、それに続けることはできるはずなのに、その最初の一言が、どうしても生まれない。
ノイルホーンが箸に手を伸ばし、適当に一品をつまみながら、無理やり話題を探すように口を開いた。
「……味、どうだ」
あまりにも無難で、あまりにもどうでもいい問いだった。
言った直後に自分でもそれを自覚したのか、「まあ、いつもと同じか」と先に自分で答えを置いてしまい、軽く笑って誤魔化す。
「俺が持ってきたやつだしな、特別うまいもんでもねぇけど」
一瞬だけ間が空く。
「……悪くない」
レンジャーが短く答える。
それ以上は続かない。
会話は、そこで途切れる。
ヤトウはそのやり取りを聞きながら、何か言うべきかどうかを考え、わずかに口を開きかけて──結局、閉じた。
自分の中に、確かに何か言葉になりそうなものがあることは分かる。
だがそれが何なのか、どういう形で出すべきなのかが分からないまま、輪郭だけが曖昧に揺れている。
ドゥリンが小さく欠伸をする。
「……静か」
ぼそりと、誰にともなく言う。
「いつも、こんなだっけ」
その問いに、誰も答えない。
答えられないというよりも、答えを出してしまうと何かが決定的に変わってしまう気がして、口を開くこと自体を避けているようだった。
再び沈黙が落ちる。
今度は先ほどよりも長く、そして重い。
外からはロドスの機械音が微かに聞こえてくる。
船はいつも通り動いている。
この部屋だけが、その流れから切り離されたように、時間の進み方を変えていた。
ノイルホーンがグラスを指先で揺らす。
氷がぶつかり合い、乾いた音を立てる。
「……なあ」
ぽつりと零れる声。
何かを言おうとして、言葉を探し、見つからずに止まる。
「……なんでもない」
結局、それで終わる。
誰もそれを追及しない。
ただ、また一口、酒を飲む。
“送別会”という形だけがそこにあり、
中身はまだどこにも定まらないまま、
誰もが何かを言いかけては飲み込み、
何も決められないまま、時間だけが静かに積み重なっていった。
グラスの中の氷が、かすかに音を立てた。
それは、部屋の中で最初に“空気を壊した音”だったのかもしれない。
ノイルホーンが手酌で注いだ酒は、いつの間にか半分以上減っている。最初の乾杯こそ形式的に済ませたものの、その後は誰も話題を広げようとせず、ただ手持ち無沙汰を紛らわせるように、少しずつ口をつけていただけだった。
だが、アルコールはそういう飲み方でも、確実に効いてくる。
沈黙を薄く溶かし、思考の輪郭を曖昧にし、そして──抑えていたものの“境界”を、ゆっくりと侵食していく。
「……なあ」
最初に口を開いたのは、やはりノイルホーンだった。
だがその声は、先ほどまでのぎこちなさとは違って、少しだけ“踏み込んだ”温度を帯びている。
「その……あれだ。さっきの話だけどよ」
言葉を選んでいる。
いや、選ぼうとして、うまく選べていない。
彼はグラスを軽く揺らしながら、視線をあなたに向ける。
「ロドス出るっての、もう……決定なんだよな」
確認だ。
分かっていることを、あえて口に出す確認。
あなたは短く頷いた。
その動作は、相変わらず簡潔で、揺るがない。
「……そうか」
ノイルホーンはそれ以上続けようとして、言葉を失った。
引き止めるべきか。
背中を押すべきか。
何も言わないべきか。
そのどれもが中途半端に思えて、結局どれも選べない。
代わりに彼は、グラスの中身を一気に飲み干した。
喉を通る液体の感触に、わずかに顔をしかめる。
「……なんつーか、理由くらいは聞いてもいいのか?」
その言い方は軽くしようとしているのに、どうしても軽くならない。
あなたは少しだけ視線を落とした。
「……前にも言った通りだ。ここにいると、私は私でいられない」
その答えは、簡潔で、整っていて、そして──
あまりにも“整理されすぎていた”。
ノイルホーンは眉をひそめる。
「いや……それは聞いたけどよ」
言いながら、頭を掻く。
苛立ちではない。整理できないことへの戸惑いだ。
「それって、結局どういう意味なんだ?
俺たちが何かしてたってことか? それとも……」
言葉が詰まる。
“俺たちが悪いのか? ”
その一言が、どうしても出てこない。
あなたは首を横に振る。
「違う。誰が悪いわけでもない。ただ、ここにいる限り、私は“ドクター”であることを求められる」
「それの何が悪いんだよ」
今度は、少し強くなった。
ノイルホーン自身も気づいている。
声が荒くなっていることに。
「お前はドクターだろ。実際に、そうやってやってきたじゃねえか」
「それが問題なんだ」
即答だった。
その言い方は、あまりにも正確で、あまりにも滑らかだった。
まるで長い時間をかけて整理された結論のようで──その分だけ、“今この場の感情”からは遠かった。
「私は“そうやってやれてしまう”。
だからこそ、誰も疑わない。私自身も、疑わなくなる」
あなたは淡々と続ける。
「だが、それは本来の私ではない可能性がある。記憶がない以上、私は“今ここにある役割”に最適化されただけの存在かもしれない」
「……は?」
ノイルホーンは、理解が追いつかずに眉をひそめる。
「最適化って……なんだそれ」
「環境に合わせて形を変える、という意味だ。ロドスにいる限り、私は“ロドスにとって都合のいいドクター”であり続ける」
その言葉に、部屋の空気がわずかに軋んだ。
レンジャーが、静かにグラスを傾ける。
ヤトウは視線を落としたまま、動かない。
ドゥリンだけが、ぼんやりとあなたを見ている。
ノイルホーンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……それってさ」
言葉を探す。
だが今度は、探す前に出てしまった。
「俺たちが、お前をそうさせてたってことか?」
空気が、止まった。
あなたは少しだけ間を置いてから答える。
「結果的には、そうなる」
その一言が、静かに落ちる。
ノイルホーンは笑った。
乾いた笑いだった。
「はは……そりゃ、なんつーか……」
言葉が続かない。
笑いもすぐに消える。
「納得いかねえな」
ぽつりと、そうこぼした。
怒っているわけではない。
だが、納得もできない。
その中途半端な感情が、彼の中で膨らんでいく。
一方で、ヤトウがゆっくりと口を開いた。
「……ドクター」
その声は、静かだった。
だが、どこか揺れている。
「……ドクター」
ヤトウが、ようやく口を開く。
だが、それきり言葉が続かない。
視線はテーブルの一点に落ちたまま、わずかに指先が動く。
何かを言おうとして、やめたのが分かる動きだった。
数秒の沈黙のあと──
「……もう、決めたんですか」
短い問い。
それ以上は続けない。
あなたは首を縦に振る。
「そうだ」
「……そう、ですか」
ヤトウはそれ以上言わなかった。
言えなかった、の方が正しい。
任務ではない。
命令でもない。
ならば、それにどう応じればいいのか。
彼女の中には、判断基準が存在しなかった。
止めるべきか。
従うべきか。
見送るべきか。
どれも“正解”に思えず、どれも“間違い”に思える。
その曖昧さが、彼女の思考を止めていた。
ドゥリンが、小さくグラスを持ち上げる。
「……むずかしい話、だねえ」
間延びした声。
だが、その目はどこか冴えている。
「でもさ、ドクター」
彼女は首を傾ける。
「それで、自分に戻れるの?」
単純な問いだった。
だが、その単純さが、やけに鋭い。
あなたは一瞬、言葉を止めた。
「……分からない」
正直な答えだった。
ドゥリンは少しだけ目を細める。
「そっか」
それだけ言って、酒を一口飲む。
「じゃあさ、戻れなかったらどうするの?」
その問いに、あなたは答えなかった。
答えられなかったのか、
それとも──考えていなかったのか。
沈黙が、また落ちる。
だが今度の沈黙は、最初のものとは違っていた。
重さがある。
感情が混ざっている。
ノイルホーンが再び酒を注ぐ。
手元が、少しだけ雑になっている。
誰も、もう“何も考えていないふり”はできなかった。
そしてその時点で、この送別会はもう──
ただの「見送り」ではいられなくなっていた。
グラスが、机に叩きつけられた。
乾いた音ではなかった。
中途半端に残っていた酒が跳ねて、木目に濡れた染みを広げる。
「……ふざけんなよ」
ノイルホーンだった。
低い声だった。だが、それは押し殺したものではない。
押さえきれずに“漏れた”声だった。
彼は顔を伏せたまま、拳を握りしめている。関節が白くなるほどに。
「さっきから聞いてりゃよ……なんだよ、それ」
ゆっくりと顔を上げる。
その目は、もう誤魔化せていなかった。
「“自分が自分でいられない”だの、“最適化されてる”だの……」
言葉を繰り返しながら、笑う。
だが、それは笑いではない。
どうしようもない苛立ちを誤魔化すための、歪んだ呼気だ。
「綺麗にまとめすぎなんだよ、お前は」
その一言が、重く落ちた。
あなたは何も言わない。
ノイルホーンは立ち上がった。
椅子が後ろに擦れて、大きな音を立てる。
「俺たちが何だって? 都合よく使ってただけか? お前のこと」
一歩、近づく。
「違うだろ」
もう一歩。
「一緒に戦ってきたじゃねえかよ」
さらに一歩。
距離が、詰まる。
「命張って、馬鹿みたいに突っ込んで、何回も死にかけて──それで今さら、“環境に合わせてただけでした”で終わりか?」
その言葉は、怒りだった。
だが同時に、それは──否定だった。
そうであってほしくない、という。
あなたは静かに答える。
「……それを否定するつもりはない」
「じゃあ何でだよ!」
机を叩く音。
今度は明確な衝撃だった。
「なんで、そういう全部を無かったことみたいに言うんだよ!」
呼吸が荒くなる。
酒のせいではない。
溜め込んでいたものが、一気に噴き出している。
「俺はな……!」
言いかけて、言葉が詰まる。
何を言えばいいのか分からない。
怒っているのに、何に対して怒っているのか、自分でも整理できていない。
それでも、止まらない。
ノイルホーンは、あなたの胸ぐらを掴んだ。
布が軋む音が、やけに大きく響いた。
「お前のこと、友達だと思ってたんだよ」
その言葉は、怒鳴り声ではなかった。
むしろ、低く、押し潰されたような声だった。
「気さくに話せて、無茶言っても笑ってくれて……そういうの、全部」
握る手に力が入る。
「それも“役割”だったのかよ」
あなたは、目を逸らさなかった。
「……違う」
短い否定。
だが、その短さが、逆に届かない。
「違わねえだろうが!」
引き寄せる。
衝突寸前まで距離が縮まる。
「お前がそうやって“整理”するなら、全部そうなるだろうが!」
拳が、わずかに震える。
殴るか、殴らないか。
その境界で、止まっている。
その瞬間──
「……やめろ」
低い声が入った。
レンジャーだった。
椅子から立ち上がることもなく、ただ一言。
だが、その一言で空気が変わる。
ノイルホーンの動きが、わずかに止まった。
レンジャーは視線だけを向ける。
「それ以上は、お前が後悔する」
静かだが、重い。
長く生きてきた者の、重み。
ノイルホーンは歯を食いしばる。
数秒の沈黙の後──
乱暴に手を離した。
あなたの服が、しわになって残る。
「……っくそ」
吐き捨てるように呟き、顔を逸らす。
その背後で、
「……っ、ぅ……」
嗚咽が、漏れた。
ドゥリンだった。
最初は小さく、押し殺すような音だった。
だが、それはすぐに抑えきれなくなる。
「やだ……やだよぉ……」
子供のような声。
涙が止まらない。
「なんで……なんで行くの……」
グラスを持ったまま、手が震えている。
中身がこぼれても、もう気にしていない。
「やだよぉ……ドクター……」
誰も言えなかった言葉を、彼女だけが迷いなく口にする。
理屈も、立場も、未来も関係なく──ただ“今”の感情だけで。
それが、誰よりもまっすぐだった。
部屋の空気が、さらに歪む。
ヤトウは動けなかった。
ずっと座ったまま、視線を落としている。
手が膝の上で、静かに握られている。
白くなるほどに。
(どうすればいい)
思考が、回らない。
止めるべきか。
送り出すべきか。
命令はない。基準もない。
判断ができない。
ドクターは「任務ではない」と言った。
つまりこれは、従うべき命令ではない。
ならば、自分は何をすべきなのか。
何を言えばいいのか。
分からない。
分からないのに──
涙だけが、落ちる。
音もなく。
自分でも気づかないうちに。
「……っ」
声が、出ない。
言葉が、形にならない。
ただ一つだけ、確かなことがある。
(行ってほしくない)
それだけだ。
それだけなのに、それすら言えない。
ヤトウは唇を噛んだ。
血の味が広がる。
それでも、声は出なかった。
レンジャーは、その様子を静かに見ていた。
何も言わない。
止めることも、促すこともない。
ただ、見ている。
だがその目は、決して穏やかではなかった。
(……やれやれ)
内心で、苦く呟く。
若者に任せると決めた。
だが、それで済む話ではないことも分かっている。
自分もまた、この場に“縛られている”一人だ。
ドクターに、絆された一人だ。
だからこそ──
今は、何も言わない。
言えば、崩れるのは自分かもしれない。
部屋の中は、完全に崩壊していた。
怒り。
涙。
言えない感情。
どれもが混ざり合い、どうしようもない形で渦巻いている。
そしてその中心に、あなたがいる。
それでもあなたは──
静かに立っていた。
その姿が、誰よりも残酷だった。
誰も、すぐには動けなかった。
さっきまでの激しさが嘘のように、部屋は静まり返っている。
だがそれは落ち着いた静寂ではない。
すべてを吐き出した後に残る、空っぽの静けさだった。
ノイルホーンは顔を逸らしたまま、肩で息をしている。
拳はまだ震えているが、もう振り上げる力は残っていない。
ドゥリンは泣き疲れたのか、しゃくり上げながら俯いている。
声は小さくなっているのに、涙だけは止まらない。
ヤトウは、動かない。
涙の跡だけが頬に残っているが、それを拭うことすら忘れているようだった。
レンジャーだけが、静かにグラスを置いた。
小さな音が、やけに遠くまで響く。
「……もう十分だろう」
低い声だった。
誰かを責めるでもなく、諭すでもなく、ただ事実を置くような言い方。
「言うべきことは、言った」
その言葉に、誰も反論しなかった。
できなかった、の方が近い。
もう、これ以上出せるものがないと分かっているからだ。
レンジャーはゆっくりと立ち上がる。
年齢を感じさせる動作だが、その立ち姿は揺らがない。
「……ドクター」
初めて、真っ直ぐにあなたを見る。
その視線には、これまで抑えていたものが、確かに含まれていた。
「若い連中が見苦しいところを見せたな」
わずかに口元を緩める。
それは冗談の形をしていたが、笑いにはならない。
「だが……まあ、無理もない」
一拍、置く。
言葉を選んでいるのではない。
言葉にしすぎないように、抑えている。
「お前さんがどういう道を選ぼうと、それを止める権利は、わしらにはない」
静かに、しかし確かに言い切る。
「戦場でもそうだったろう。最終的に決めるのは、いつもお前さん自身だ」
その言葉は、肯定だった。
だが同時に──
完全な受容ではなかった。
「……だがな」
少しだけ、声が低くなる。
「納得しているわけではない」
若い頃なら、殴ってでも止めていたかもしれない。
だが今は、それが正解でないことを知っている。
「理解はする。だが、納得はしない。これは、そういう類の話だ」
レンジャーは目を細める。
「それでも行くというのなら──行け」
突き放すようでいて、違う。
背中を押すでも、引き止めるでもない。
ただ、“送り出す”という形。
「その代わり、忘れるな」
言葉が、少しだけ重くなる。
「お前さんがここに残したものは、勝手に消えたりはせん」
視線が、ノイルホーンへ。
ドゥリンへ。
ヤトウへ。
「こういう形で、残り続ける」
あなたは、何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
レンジャーはそれ以上何も言わず、ゆっくりと椅子に戻った。
再び、静寂。
だが今度の静けさは、さっきとは違う。
“終わった”後の静けさだった。
ノイルホーンが、小さく舌打ちをした。
「……ちくしょう」
力の抜けた声。
怒りも、もう続かない。
彼は頭を掻きながら、あなたを見ないまま言う。
「……行くならさ」
言葉を探す。
だが、もう飾る余裕はなかった。
「死ぬなよ」
それだけだった。
短くて、雑で、でも──
それが彼の限界だった。
ドゥリンが、しゃくり上げながら顔を上げる。
涙でぐしゃぐしゃになった顔のまま、あなたを見る。
「……ぜったい、戻ってきてよ」
子供のような声。
理屈も、前提もない。
ただの願い。
「約束、して……」
あなたは、少しだけ間を置いた。
そして、
「……努力はする」
そう言った後、ほんの一瞬だけ言葉が続きかけた。
──だが、それは形にならないまま消えた。
曖昧な答えだった。
だが、それ以上は言えない。
ドゥリンは、それでも何度も頷いた。
納得したわけではない。
ただ、それでも信じるしかないから。
ヤトウは、ゆっくりと立ち上がった。
動きはぎこちない。
まるで、何かを決めきれないまま体だけ動かしているようだった。
あなたの前に立つ。
視線は、少し下。
「……私は」
言葉が、途切れる。
何を言うべきか、最後まで分からない。
それでも──
ヤトウは、ゆっくりと立ち上がった。
動きに迷いがある。
それでも、止まらない。
あなたの前まで来て──足が止まる。
「……」
口を開く。
だが、声にならない。
一度だけ、強く息を吸って──
「……止めません」
それだけだった。
短く、はっきりと。
だが、その後に続くはずの言葉は出てこない。
視線が揺れる。
ほんの一瞬だけ、何かを言いかけて──
やめる。
「……」
沈黙。
だが今度は、逃げなかった。
わずかに顔を上げる。
「……でも」
かすかに、声が震える。
「……できれば」
そこで、言葉が詰まる。
喉の奥で止まる。
それでも、無理やり押し出す。
「……戻ってきて、ほしいです」
言い切ったあと、自分でも驚いたように目を伏せる。
ほんの一瞬だけ、肩の力が抜けた。
「……すみません」
小さく、それだけを残す。
なぜ謝るのか、自分でも分かっていない。
それでも、そう言うしかなかった。
あなたは、静かに首を振った。
「謝る必要はない」
その言葉に、ヤトウは何も返せなかった。
ただ、もう一度だけ、小さく頷いた。
そして──
あなたは、扉へ向かう。
今度は、誰も止めなかった。
止める力も、言葉も、もう残っていない。
扉に手をかける。
その瞬間、
「……ドクター」
ノイルホーンの声だった。
振り返る。
彼はまだ顔を逸らしたままだった。
「……またな」
その一言は、軽く言おうとして、失敗していた。
それでも、それが彼の“見送り”だった。
あなたは、小さく頷く。
「……ああ」
短い返事。
それで、十分だった。
扉が開く。
外の空気が、少しだけ流れ込む。
そして──
閉じる。
音は、小さかった。
だが、その音は確かに、何かを区切った。
残された部屋の中で、
誰も、しばらく動かなかった。
誰も、何も言わなかった。
テーブルの上には、まだいくつか手付かずのグラスが残っていた。
誰のものかも分からないそれらは、
もう持ち主に触れられることもなく、
ただそこに置かれている。
整えられすぎたこの部屋は、
最初から誰かがいなくなることを前提にしていたかのように、
何も語らず、何も残さない。
ただ──
「ここにいたはずの誰か」だけが、どうしても消えない。
本来この小説は、皆様のご意見を取り入れながら進めていく予定でした。
具体的には、「このキャラとのお別れが見たい」「曇らせ展開が見たい」といったご要望をもとに、私が執筆していく形を想定しておりました。
しかし、「要望があれば書きます」といった分かりづらい表現になってしまっていたこと、深く反省しております。
改めまして、もし「このキャラを描いてほしい」といったご要望がございましたら、ぜひ教えていただけますと幸いです。