迷子、夕立、思わぬ事故。
びしょ濡れで途方に暮れた先で出会ったのは、ちょっと不器用で優しい大人だった。
ひと夏の小さな冒険の話。
夏の日の冒険
あれは小学校中学年の夏休みが明けてすぐのことだっただろうか、
当時の私は、両親に誕生日に買ってもらった自転車を気に入り、毎日のように乗り回していた。
その日も6時間目が終わると学校を一目散に飛び出して、家まで走ってきて息を切らせながら
母に自転車の鍵をせがんだ。
ランドセルを放り出し、門限を守ることを口酸っぱく言う母に、生返事をして
自転車にまたがり家を飛び出した。
・・・
秋分の日が大分先であったため、日はまだ長かった。
今日はうんと遠くまで行こう、と心に決めた私は、自転車のペダルを思いきり踏み込んだ。
だらだらと続く長い坂を登りきるころには、汗が全身ににじんでいて、シャツがはりついて気持ち悪い。
近くに1アールほどの小さな公園があった。
そこで休むことにし、自転車を押して入った。
公園にあった蛇口をひねり、水をがぶがぶ飲む。
はじめはぬるい水しか出てこなかったが、やがてひんやりとした水が出てくる。
食道を下る冷えた水の感覚が伝わってくる。
公園は見晴らしがよかった。都心部に林立する高層ビル群、丘の上に所狭しと並ぶ家々、時々土煙をあげる河川沿いの田畑、
はるか遠くの山々の稜線が目に入ってきた。
その田畑の向こうに、東急線の10両編成の列車が駅に入り止まる様子が視界に飛び込んできた。
昔から電車が好きだった私は、その光景に目を奪われた。
あそこに行ってみよう。
・・・
川沿いの遊歩道に出るまでは、長く、なだらかな下り坂が続いた。
ペダルを漕がなくても自転車は勝手にぐんぐん加速していく。
風をビュービュー切る音が耳に入ってくる。
汗ばんだシャツの中にも風が入ってきては、シャツを風船のごとく膨らませ縮んでは、
熱を帯び火照っていた体を程よく冷ましていく。
川沿いの道に出るころには、先ほどまでカンカン照りだった太陽も、急に張り出してきた
分厚い雲に姿を隠してしまい、 辺りの気温がいくぶん下がったように感じられた。
・・・
公園で見当を付けた方角に自転車を漕ぎ進めていく。
畑にはすでに収穫を終え力なく垂れ下がる茎葉ばかりだった。
実をつけていたとしても、強い日照りでやけどをしたり数日前に関東を襲った台風の強風で傷だらけになったりして、今にも千切れて地に落ちそうになりながらぶらさがっている。
どの道売り物にならないだろう。
物寂しく、どこか空恐ろしい光景だった。
なるべく目に入らないように、右手に流れる川の景色を見ることに努めた。
・・・
1時間30分ほど自転車を漕ぎ続けた。
いくら進んでも現れない目的地にしびれを切らし引き返すことにした。
喉も乾き始めていたため公園を探すことにした。
近くにあっただだっ広い公園に自転車を滑り込ませ地図を見ると、
現在地の赤い点からはるか右下の方に路線が描かれ「至○○駅」とあった。
目的地であった電車駅の高架下をとうに通り過ぎてしまっていた。
高速道路の橋梁と重なっていたため、気付けなかった。
公園にあった時計を見上げる。周囲の畑の土埃のせいで薄汚れてしまっていた文字盤を確認すると門限まで1時間ほどしかなくなっていた。
自転車を無我夢中で漕いできたため、時間感覚を失ってしまっていた。
蛇口を探したが、その公園の水道はちょうど修理中で使えなかった。
ちくしょう、なんてついてないんだ。
思わず足元の砂を蹴り上げる。
ならば、と自動販売機で水を購入しようとし、ポケットをごそごそ探すとくすんだ100円玉が見つかった。
公園内の自動販売機に目をやると、水は110円だった。
10円だけ足りなかった。
唇をかみしめた私は、ベンチに力なく腰を下ろした。
その時、西の方角から遠雷が聞こえ、そして冷たい風が吹いてきた。
上着が欲しくなるくらいあたりは急に肌寒くなってきた。
嵐が来るに違いなかった。
門限を守らないと母に怒られてしまうと考え、自転車に鍵を急いで挿し込み、再びペダルを必死に漕ぎ出した。
・・・
もうとうに刻限は過ぎてしまっただろう。
川沿いの曲がりくねった道を馬鹿正直に進んでも埒が明かないと思い、
畑の合間を縫うように通るまっすぐな農道を突っ切ることにした。
そのうち、ぽつぽつと顔に水滴が当たり始め、あたりも分厚く張った黒い雲で真っ暗になってしまった。
兎にも角にも、急がねばならないと思い、農道を突き進んだ。
路面があっという間に黒くなり、ところどころに水たまりができ始めていた。
ハンドルを握る手はさらに固くなり、白くなっていた。
全身にぶつかっては流れて行く水に体温を奪われ、体が冷え切っていた。
その時だった。
ただでさえ滝のごとく降り注ぐ雨で視界が悪かったのに、必死にペダルを漕いでいたことがさらに視野を狭くしてしまっていた。
前から迫りくる白い軽トラックに気付けなかった。
クラクションが鳴ってから、ようやくハンドルを切ることが出来た私は、農道わきの土手に自転車ごと落ちてしまい
背中が泥だらけになってしまった。
背中と腰を強く打ち付けてしまい、じんじんと痛んだ。
膝にも血がにじんでいた。
歯を強く食いしばり、必死に車体を起こそうとしたが、泥に足を取られ転んでしまい、今度は全身が泥だらけになってしまった。
喉の奥に熱いものがこみあげるのをこらえ車体を起こし、農道の上に自転車を押し上げようとした。
見上げると、その斜面は私の背丈の2倍ほどあった。
途方に暮れ立ち往生していると、頭上から
「大丈夫か!?」
と声が聞こえてきた。
見ると先ほどの軽トラックを運転していたキャップを被った農家が心配して降りてきてくれたようだった。
ちょうどそこは彼の農園だったため、農園の入り口まで自転車を押すことを手伝ってもらった。
冷え切った私の体を鑑みてか彼は私を家に連れて行ってくれた。
・・・
軽トラックの荷台に自転車を手際よく載せると、彼は私にタオルを押し付けながら運転を始めた。
車内にはフロントガラスに激しく雨が打ち付けられる音と、昭和歌謡が流れていた。
私はタオルを座席に敷いて、今までの経緯をぽつりぽつりと話し始めた。
彼は真っ先に私に携帯電話を渡し、親に連絡するように促した。
電話がつながると母の声が聞こえて、肩の力が抜けたような感覚に陥り、急に今までこらえてきた涙で視界がぼやけた。
ちょうど私の家の近辺でも土砂降りになり始めたようだった。
無事なことを伝えると、農家の彼は携帯電話を私から受け取り、彼が私を家まで送り届ける旨を伝えていた。
家に着いて、玄関先でぶるぶる震える私を見て、彼はシャワーを浴びることを勧めた。
最初は私も遠慮がちに愛想笑いを浮かべて大丈夫です、と言っていたが、彼が、それでも風邪をひいたらいけないから、としつこく勧めてくるので
最後は私が折れてシャワーを浴びることにした。
シャワーを浴び浴室から出ると、替えの服を用意してくれていた。
「下着だけ乾燥機にかけておいたから、俺の古い服だけど我慢してくれな」
実際身に着けてみると小学校中学年の私にはぶかぶかで、すぐに落ちてしまいそうだったが、先ほどの泥だけの服よりも
はるかに暖かく、着心地が良かった。
いつの間にか外の雨風は幾分か弱くなったようだ。
・・・
再び軽トラックに乗り込む。
「アレルギーとかないか?」
彼は私にオレンジ味の炭酸飲料を手渡し、再び運転を始める。
家の場所を説明すると、彼は目を見開いて
「そんなに遠くから来たのか!?」
と、言った。
彼は私を責めようとはしなかった。
いくらか得意げになった私は、ここまでの冒険譚を自慢げに語りだした。
彼は運転しながらうんうんとうなずいて聞いている。
不意に彼は遠くを見るような目をして
「俺にも、実は孫が居たんだ。10年前に交通事故で亡くなっちまってね……だからぼっちゃんを見てると孫を思い出すんだ」
「孫も自転車が好きだった、元気いっぱいで素直で優しい子だったんだ……」
彼の孫はちょうど今日のような嵐の日に亡くなったそうだ。
「あの子はお母さんを遺していっちまった……お母さんはずっと自分を恨んでたよ、なんであんな日に行かせちゃったんだろうって、
だからぼっちゃんもお母さんに心配をかけたり悲しませるような無茶な真似はあんまりしちゃぁいけないよ」
鼻高々に語っていた自分自身が急に幼く見えて、思わずうつむいてしまった。
そんな私の様子を察してか
「ところで最近の小学生の間で流行ってる歌とかって何だい?」
と聞かれた。
その後家への道のりで、彼は「上を向いて歩こう」はいい歌だとか話をいろいろと振ってくれた。
私は相槌を打ちつつ、頭の中では彼の言葉が繰り返されていた。
「お母さんに心配をかけるような真似はしちゃぁいけないよ」
・・・
私の家に着くころにはすっかり雨も上がっていた。
空にはすでに月が出ていた。
母は家まで私を送り届けてくれた彼に頭を下げるばかりで、母に倣って私も頭を下げる。
母は彼にお金を押し付けようとするが、彼はただの親切心ですからと、固辞した。
彼を見送り、軽トラックが角を曲がり見えなくなるまで母と私は頭を下げ続けた。
・・・
「お湯入れといたから、温まっちゃいなさい」
そういわれ私は浴室に入り、体を雑に洗い浴槽に浸かる。
やはり先ほどの彼の言葉を頭の中で反芻する。
・・・
浴槽から出て真っ先に母に謝る。
「ごめんなさい」
きつく叱られることを想像して、目を強くつむる。
しかし、母の声は予想に反して優しかった。
「ほんとに心配したんだから、私はあなたが一番大事なの、だから次からは無茶しちゃだめよ」
彼と同じ言葉だった。
「それに」
と続ける。
「もう痛い目は散々見てるでしょ」
と洗濯機を見る。
泥だらけで、血もにじんだズボンを見て頬を緩ませる。
「ガーゼ巻いちゃうからこっちに来なさい」
・・・
あれから数日、土曜日に私は農家の彼に貸してもらった服を返しに、彼の家に母の運転する車で向かった。
彼の前で母が再びぺこぺこしだし、服を差し出す。
彼は、それはもう大丈夫だからといって服を私にくれた。
「あがっていきなさい、野菜が一杯採れたんだ」
・・・
母はどうしてもお礼がしたいというので、私と母で野菜の収穫作業を手伝うことにした。
9月に入ってからも相変わらず太陽が強い日差しを放ち続けていた。
農園に入ると草いきれと青臭さが鼻孔を突く。
ピーマン、きゅうり、ナス、トマト、収穫ばさみを手に持ち籠を腰にかけ、彼は手際よくぷつぷつと茎から取り収穫していく。
私も見様見真似でぶつっ、ぶつっと収穫を進める。
籠が一杯になるころには農作業のはじめには高い位置にあった太陽も落ちかけていた。
母と私は改めてお礼を言う。
農家の彼は農作業小屋に行くと、ビニール袋にさっき収穫した野菜をいっぱいに詰めて持たせてくれた。
「もってけどろぼう」
彼は気さくに言った。
母は申し訳なさそうにお礼を言う。
「いいってことよ」
・・・
あの後も私は縁があってか、毎年の収穫の時期に自転車で農家の彼を手伝いに行き、野菜をもらった。
その後は私が中学生、高校生、大学生、社会人となるにつれて、忙しくなってしまい手伝うことも減り疎遠になってしまった。
先日、彼の訃報が届いた。
老衰だったそうだ。
葬式に招待された。
棺にはあの時もらった彼の古着を入れようと、決めた。