私はベアトリクス   作:Beatrix

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まじんさんin王都ミドガル

ミツゴシ商会が展開するファストフードチェーン、『マグロナルド』王都中央店。

昼時の店内は、手軽で刺激的な味を求める王都の市民たちでごった返していた。

揚げたてのポテトの香り、鉄板で焼かれるパティの香ばしい匂い、そして人々の喧騒。

その店内の片隅、一般客に紛れてボックス席に陣取る一人の女性がいた。

フードを目深に被り、一見すればただの旅行者のように見える。

だが、そのテーブルの上には、山のようなハンバーガーの包み紙と、Lサイズのポテト、そして数種類のドリンクが所狭しと並べられていた。

「……んぐ、んぐ。……ぷはぁ」

ベアトリクスは、コーラを一気に飲み干し、至福の溜息をついた。

「やっぱマグロナルドのバーガーは美味しいね……。最近高級なディナーばっかだったから、このジャンクな刺激は最高だ」

彼女はてりやきバーガーのソースがついた指を舐めとった。

二千年の時を生きた魔人。

かつては神の肉を食らい、国を滅ぼし、歴史の裏側で暗躍した伝説の存在。

そんな彼女が今、最も夢中になっているのが、この一個数百ゼニーのハンバーガーだという事実は、知る人が見れば卒倒ものの光景だろう。

そして、それを「知っている人たち」が、店内のあちこちに潜んでいた。

「……おい、見たか? あの食べっぷり」

「ああ……。間違いない。あれが『武神』ベアトリクス様だ」

店員に変装したシャドウガーデンの構成員(ナンバーズ)や、客を装って警備任務に就いていた下位メンバーたちが、インカム越しに、あるいは小声でヒソヒソと会話を交わしている。

彼らにとって、ベアトリクスの存在は「特異点」そのものだ。

組織図には載っていない。

シャドウガーデンの構成員ではない。

だが、組織のトップである七陰たち――特に第一席アルファ様や第三席ガンマ様――が、彼女に対しては最敬礼で接する。

それどころか、あろうことか絶対神である「シャドウ様」の師匠(自称、だがシャドウ様も否定していない)であり、遊び相手でもある。

「噂じゃ、アルファ様の叔母君にあたるお方だとか……」

「マジかよ。エルフの英雄の血筋ってことか?」

「それだけじゃない。デルタ様を手なずけ、イータ様の研究室に出入りし、ベータ様と徹夜で語り合う……。七陰全員が、彼女には頭が上がらないらしい」

彼らの視線には、畏怖と、困惑と、そして親愛が入り混じっていた。

組織の外部協力者(アドバイザー)という枠組みすら超えた、シャドウガーデンにおける「影の女帝(ゴッドマザー)」。

「でも……食べてるのはてりやきバーガーなんだよな」

「しかもクーポン使ってたぞ」

カリスマと庶民性のギャップが激しすぎて、構成員たちの脳内処理が追いつかない。

そんな中、店の自動ドアが開き、店内の空気が一変した。

カツン、カツン、と響くヒールの音。

現れたのは、深い藍色のドレスに身を包んだ、知的な美女。

ミツゴシ商会会長、ルナ。

またの名を、シャドウガーデン第三席、ガンマ。

彼女が入店した瞬間、店員(構成員)たちの背筋が伸び、一般客さえもその圧倒的なオーラに道を譲った。

王都の経済を牛耳る女帝が、なぜこんないちファストフード店に?

ガンマは一直線に、店の奥――ベアトリクスのいる席へと歩み寄った。

「――ベアトリクス様」

ガンマは優雅に一礼した。

その所作は、王族に対するそれよりも深い敬意に満ちていた。

「こちらにいらっしゃていたのですね。貴女様でしたらVIP席へご案内しましたのに……。このような騒がしい席では、落ち着かないでしょう?」

ガンマの声に、周囲の客がざわめく。

あのミツゴシの会長が、頭を下げている?

あのみすぼらしい(失礼)フードの女に?

ベアトリクスは、ポテトを齧りながら顔を上げた。

「やぁ、ガンマ。……仕事はいいのかい?」

「はい。ベアトリクス様がご来店されたと報告を受け、飛んで参りました」

ガンマは微笑んだ。

彼女にとってベアトリクスは、組織の恩人であり、個人的にも頭の上がらない「姉」のような存在だ。

先日の事務作業の手伝いといい、彼女には借りが多い。

「VIP席は遠慮するよ。……ここがいいんだ」

ベアトリクスは店内の喧騒を見渡した。

子供の笑い声、学生のお喋り、サラリーマンの愚痴。

平和な日常の音。

「この雑多なノイズの中で食べるからこそ、ジャンクフードは美味いのさ。……静かな個室でナイフとフォークを使って食べても、味気ないだろう?」

「……なるほど。流石はベアトリクス様、食に対する造詣も深いのですね」

ガンマは感心したように頷いた。

(主様も以前、『牛丼は騒がしい店内でかっこむのが作法だ』と仰っていた……。やはり、強者の感性は共通するのかしら)

「それに、君たちの部下がキビキビ働いているのを見るのも、悪くない」

ベアトリクスは、カウンターで接客する店員(ナンバーズ)に目を向けた。

彼らは普段、闇の中で血なまぐさい任務に従事している。

だが今は、笑顔で「スマイル」を提供している。

「彼らにも生活がある。……表の顔と裏の顔。その両方を使いこなし、この街に溶け込んでいる。……いい組織になったね、シャドウガーデンは」

「勿体なきお言葉……!」

ガンマは胸を熱くした。

ベアトリクスからの称賛は、彼女たち七陰にとって何よりの勲章だ。

「ところで、ガンマ。……追加注文いいかい?」

「はい! 何なりと! 店ごと買い取りましょうか?」

「いや、そこまではいい。……ナゲットのマスタードソースをもう一つ。あと、アップルパイも」

「直ちに!」

ガンマが指を鳴らすと、店長(もちろん構成員)が脱兎のごとく厨房へ走り、銀のお盆に載せたナゲットとパイを運んできた。

ファストフード店とは思えない、高級ホテルのようなサーブ。

「ありがとう。……うん、熱々だ」

ベアトリクスはパイを齧り、火傷しそうになりながらハフハフと息を吐いた。

その様子を、遠巻きに見ていた構成員たちが、またヒソヒソと囁き合う。

「おい、見たか? ガンマ様があんなに甲斐甲斐しく……」

「まるで、実家のお母さんに接する娘みたいだぞ」

「ベアトリクス様……マジですげぇ。」

彼らの中で、ベアトリクスの伝説(と誤解)がさらに加速していく。

「実は組織の真の創設者の一人ではないか」「いや、シャドウ様の正妻候補筆頭だ」「むしろシャドウ様の母親説まであるぞ」などと、尾ひれがつきまくった噂が飛び交う。

ベアトリクスはそんな視線も意に介さず、最後のポテトを口に放り込んだ。

「ふぅ……。食った食った」

彼女はナプキンで口を拭い、満足げに腹をさすった。

二千年の魔人の胃袋も、現代(風)のカロリー爆弾には満たされたようだ。

「お代は……」

「結構です! いただくわけには参りません!」

ガンマが食い気味に遮った。

「そうかい? じゃあ、ご馳走になるよ。……シドによろしく言っておいてくれ」

「はい。主様もお喜びになるでしょう」

ベアトリクスは立ち上がった。

フードを直し、店内の出口へと向かう。

その際、すれ違う店員や客(構成員)たちが、目立たないように、しかし一斉に敬礼の姿勢を取ったのを、彼女は見逃さなかった。

(愛されているねぇ、私も)

彼女は口元を緩めた。

孤独だった二千年の旅路。

だが今は、こうして挨拶を交わし、飯を食い、笑い合える「家族」のようなものがある。

悪くない時代だ。

店の外に出ると、午後の日差しが眩しかった。

王都のメインストリートは、馬車と人々で賑わっている。

「さて……」

ベアトリクスは伸びをした。

腹ごなしも済んだ。

次は、精神の栄養補給の時間だ。

彼女は懐から、一枚のチケットを取り出した。

それは、プラチナ箔が押された、超VIP専用の招待状。

『新進気鋭のピアニスト・シロン 王都凱旋コンサート』

場所は王立劇場。

今夜、一夜限りのリサイタルが開かれる。

「あの子(イプシロン)の晴れ舞台だ。……見に行かないわけにはいかないね」

先日、彼女の部屋で聴いた「月光」。

あれから彼女がどれほど腕を磨いたのか。

そして、どれほど美しく「作り込んで」くるのか。

ベアトリクスは、自分の服装を見下ろした。

使い古した旅装束に、ソースの匂いが染み付いたフード。

流石にこれで王立劇場のVIP席に座るのは、イプシロンの顔を潰すことになるだろう。

「着替えないとね」

彼女はミツゴシ商会の本店ビルを見上げた。

あそこには、最新のモードを取り入れたドレスが山ほどあるはずだ。

ガンマにお願いすれば、最高のコーディネートを用意してくれるだろうが、それでは面白くない。

「自分で選ぼうか。……たまにはお洒落も悪くない」

ベアトリクスは歩き出した。

その足取りは軽い。

「イプシロンの……新進気鋭のピアニスト『シロン』の所に行こうかな、もちろん相応しいドレスコードでね」

魔人の休日はまだ終わらない。

夜の帳が下りる頃、王立劇場には、伝説の武神すら霞むほどの「淑女」が降臨することになるのだが――それはまた、数時間後の物語である。

 

王都ミドガルの目抜き通り。

その一等地に店を構えるミツゴシ商会本店は、今や王国の流行の発信地であり、貴族たちがこぞって訪れるステータス・シンボルとなっていた。

特にその3階にある呉服・ドレスフロアは、選ばれたVIPのみが入室を許される聖域である。

「――いらっしゃいませ、ベアトリクス様」

出迎えたのは、とろけるような笑みを浮かべた美女だった。

シャドウガーデンのナンバーズ、ニュー。

表の顔はミツゴシの有能な美容部員兼・接客係だが、その正体は組織でも屈指の変装術と尋問技術を持つ工作員だ。

「やぁ、ニュー。……急な話ですまないね」

ベアトリクスはフードを脱ぎ、店内の豪奢な内装を見渡した。

最高級のシルク、ベルベット、そして東国から取り寄せたという着物生地。

色とりどりの布地が、魔石のランプに照らされて宝石のように輝いている。

「とんでもございません。ベアトリクス様のご来店とあらば、店ごと貸し切りにしても足りないくらいですわ」

ニューは恭しく頭を下げた。

彼女にとってベアトリクスは、ガンマ様が最敬礼する相手であり、組織の深淵に触れる規格外の存在だ。

粗相などあれば、即座に自決しなければならないほどの緊張感がある――はずなのだが。

「貸し切りはいいよ。……他のお客さんが怖がるからね」

ベアトリクスはクスクスと笑い、陳列されたドレスの一着を手に取った。

深い夜の色をした、ミッドナイトブルーのイブニングドレス。

装飾は控えめだが、カッティングが大胆で、着る者の素材を引き立てるデザインだ。

「お目が高い。……こちらは新作の『ノクターン』。今夜の演奏会にもぴったりの一着かと」

「ふむ。……悪くないね」

ベアトリクスは生地の感触を確かめ、頷いた。

「これをもらうよ。……あと、これに合うショールと、靴も頼む」

「かしこまりました。……では、こちらへ」

ニューの手早い採寸と、フィッティング。

数分後、試着室のカーテンが開かれると、そこには息を呑むような「淑女」が立っていた。

いつもの旅装束ではない。

夜の海のようなドレスが、彼女の白磁の肌を際立たせ、まとめた金髪が首筋のラインを美しく見せている。

黄金の瞳は、ドレスの色を吸い込んでより深く、妖艶に輝いていた。

「……ため息が出るほどお美しいです」

ニューはお世辞抜きで感嘆した。

素材(モデル)が良すぎる。

二千年の時を経た肉体は、一点のシミもたるみもなく、神が作った彫刻のように完成されている。

「ふふ、おだてても何も出ないよ」

ベアトリクスは鏡の前に立ち、自らの姿を映した。

そして、懐から重そうな革袋を取り出した。

「予算はこれくらいだ。……足りるかい?」

中には、古代金貨(博物館級の価値がある)がジャラジャラと入っている。

「べ、ベアトリクス様!? 滅相もございません!」

ニューが慌てて手を振る。

「貴女様からお代をいただくわけにはまいりません! ガンマ様に知られたら、私が粛清されてしまいます!」

「ああ、ニュー。お代はいりませんいただけませんという顔をしてるけどこれは正当な対価だ」

ベアトリクスは、金貨をカウンターに置いた。

カツン、と重い音が響く。

「私は君たちのサービスに払う価値があるからと判断して買っている。マグロナルドはルナ(ガンマ)の好意に甘えさせてもらったけどね」

彼女は真剣な眼差しでニューを見た。

「商売というのは、価値と対価の交換だ。……君たちが命懸けで築き上げたこの『ミツゴシ』というブランド。それにタダ乗りするのは、私の美学に反するんだよ」

「ベアトリクス様……」

ニューは胸を打たれた。

この魔人は、自分たちの「表の仕事」にも、敬意を払ってくれている。

ただの隠れ蓑ではなく、一つのプロフェッショナルな仕事として認めてくれているのだ。

「……承知いたしました。では、正規の代金として頂戴いたします」

ニューは深く一礼し、金貨を受け取った。

(もちろん、後でガンマ様に報告し、この金貨は社宝として厳重に保管することになるだろうが)

ベアトリクスは再び鏡を見た。

ドレスの裾を少し持ち上げ、ポーズを取る。

その仕草には、戦場での荒々しさは欠片もなく、洗練された宮廷人の優雅さがあった。

「こうやって着飾ると宮廷で愛を囁やいてた頃を思い出す。……似合ってるかい?」

彼女が思い浮かべているのは、1700年前。

傾国の毒婦ベリンダとして、皇帝の寵愛を一身に受け、国を傾けた日々。

あるいは、もっと昔。

名もなきエルフとして、誰かと踊った記憶か。

「はい。……夜空に輝く月のように」

ニューの言葉に、ベアトリクスは満足げに微笑んだ。

「ありがとう。……じゃあ、行ってくるよ。シロン(イプシロン)の晴れ舞台にね」

彼女はショールを羽織り、颯爽と店を後にした。

その背中は、どんな貴婦人よりも気高く、そして自由だった。

                 *

王都、王立劇場。

芸術の殿堂と呼ばれるその場所は、今宵、異様な熱気に包まれていた。

「チケットは即日完売だってさ」

「当たり前だろ。あの天才ピアニスト、シロン様の凱旋公演だぞ」

「噂じゃ、彼女の演奏を聴いて涙を流さない者はいないとか……」

着飾った貴族たちが、興奮した面持ちで語り合っている。

新進気鋭のピアニスト、シロン。

その正体が、指名手配中のテロリスト集団「シャドウガーデン」の幹部であることなど、夢にも思わないだろう。

劇場正面のレッドカーペット。

そこに一台の馬車が止まり、扉が開いた瞬間、周囲の視線が一斉に釘付けになった。

降り立ったのは、夜色のドレスを纏った美女。

護衛も連れず、宝石も身につけていない。

だが、その存在感だけで、周囲の空気が一変した。

「……誰だ、あの方は?」

「見たことがない顔だが……どこかの国の王族か?」

「なんて美しい……」

ベアトリクスは、さざめく群衆の中を悠然と歩いた。

二千年の経験値。

「見られる」ことになど慣れっこだ。毒婦時代は、視線だけで人を殺す(社会的に)こともできたのだから。

彼女は係員にチケット(招待状)を見せ、VIP専用の入り口へと進んだ。

螺旋階段を上がり、最上階のボックス席へ。

そこは、ステージ全体を見渡せる特等席だ。

「……ふぅ」

席に着くと、ベアトリクスは小さく息を吐いた。

眼下には満員の観客席。

そして、照明に照らされたステージには、一台のグランドピアノが鎮座している。

ブザーが鳴り、場内が暗転した。

静寂が支配する。

咳払い一つ聞こえない緊張感の中、スポットライトが一点を照らし出した。

そこに、彼女はいた。

純白のドレスに身を包んだ、紫紺の髪の少女。

シロン――イプシロン。

彼女は深々と一礼し、ピアノの前に座った。

その横顔は、戦士のそれではない。

芸術に身を捧げる、聖女のような美しさ。

(……やるじゃないか)

ベアトリクスは目を細めた。

スライムで体型を完璧に補正し、ドレスのラインを美しく見せる技術。

そして、観客の視線を一点に集めるカリスマ性。

それらは全て、彼女が「シャドウガーデンの七陰」として磨き上げた武器だ。

イプシロンの手が、鍵盤の上に置かれる。

最初の一音。

ポーン……。

空気が震えた。

透き通るような高音。

それは、先日彼女の部屋で聴いた時よりも、さらに研ぎ澄まされていた。

曲目は『月光』。

主から授かった至高の旋律。

第一楽章の静寂から、第二楽章の軽快な舞踏、そして第三楽章の激情へ。

イプシロンの指は、目にも止まらぬ速さで鍵盤を駆け巡る。

それは、彼女が得意とする「魔力斬り」の応用であり、超絶技巧の極致。

観客たちは息を呑み、涙し、あるいは陶酔の表情で音に身を委ねている。

「作り物」の体で、「借り物」の曲を弾く。

だが、そこにある感動は紛れもない「本物」だった。

ベアトリクスもまた、目を閉じて音に浸っていた。

(……いい音だ。迷いがない)

先日、ベアトリクスが弾いてみせた「二千年の重み」とは違う。

イプシロンの音には、「現在(いま)」を生きる強さがある。

主への愛。組織への誇り。そして、自分自身への肯定。

「私は世界一美しい嘘つきだ」という、開き直りにも似た自信が、音に輝きを与えている。

(成長したね、イプシロン)

演奏が終わる。

一瞬の静寂の後、劇場が揺れるほどの拍手喝采が巻き起こった。

スタンディングオベーション。

イプシロンは立ち上がり、優雅に、そして誇らしげに微笑んで一礼した。

その時。

イプシロンの視線が、ふとVIP席に向けられた。

ベアトリクスの姿を見つけ、彼女は一瞬だけ、アイドル(シロン)の顔を崩し、はにかむような、妹のような笑顔を見せた。

ベアトリクスも、小さく手を振り返した。

(お疲れ様。……最高のショーだったよ)

幕が下りる。

興奮冷めやらぬ観客たちが席を立ち始める中、ベアトリクスは人波を避けるように、裏動線――関係者以外立ち入り禁止の通路――へと足を向けた。

「さて、楽屋見舞いと行こうか」

彼女の手には、ミツゴシで買っておいた高級ブーケ(もちろん代金は支払った)が握られている。

感動の対面。

……で終わればいいのだが、この魔人が動く時、大抵の場合「何か」が起きる。

廊下を歩いていると、前方の角から、黒いローブを纏った数人の男たちが現れた。

彼らはベアトリクスの姿を見ると、ギョッとして立ち止まった。

「……おい、誰だあれは」

「一般客がなぜここに……」

「見られたか? ……消すか」

彼らの纏う空気。

それは、音楽を愛する者たちのものではない。

血と、薬物と、澱んだ魔力の匂い。

ベアトリクスは足を止めた。

ブーケの香りを楽しみながら、冷ややかな視線を彼らに向ける。

「……おやおや。感動の余韻に浸りたいところだったのに」

彼女の黄金の瞳が、スッと細められた。

「無粋なドブネズミが迷い込んだようだね」

ディアボロス教団の下っ端か、あるいはシロンの才能(と売上)を狙う犯罪組織か。

どちらにせよ、イプシロンの晴れ舞台を汚そうとする輩を、この「ファン第一号」が見過ごすはずがない。

「警告だよ。……今すぐ回れ右して消えるなら、見逃してやる」

ベアトリクスから、微かに殺気が漏れた。

ドレス姿の淑女から放たれたとは思えない、濃密な死の予感。

男たちが身構える。

「……女一人に何ができる」

「やれ」

彼らが武器を抜こうとした、その刹那。

「――おやおや。私の『主賓』に手を出すとは、いい度胸ですわね」

背後から、凛とした声が響いた。

楽屋の方から歩いてくる、純白のドレスの少女。

ステージ衣装のままのイプシロンだ。

その手には、既に魔力の糸が展開されている。

「シロン……!」

「イプシロン」

ベアトリクスが呼ぶと、イプシロンはウインクした。

「お待ちしておりました、ベアトリクス様。……少々、ゴミ掃除にお付き合いいただけますか?」

「喜んで。……アンコールの代わりには、少し血生臭いけどね」

ベアトリクスはブーケをそっと床に置き、ドレスの裾を翻した。

舞台裏での、たった二人の即興演奏会(戦闘)。

最強の魔人と、緻密の魔女。

その協奏曲が、無粋な侵入者たちを旋律の彼方へと葬り去ろうとしていた。

「さあ、始めようか。……ドレスを汚さないように、スマートにね」

物語は、華やかなステージの裏側で、さらに加速していく。

 

王立劇場の舞台裏。

表の華やかな喝采とは裏腹に、そこは冷ややかな殺意が支配する閉鎖空間となっていた。

「やれ」

黒いローブの男の合図と共に、数人の刺客が一斉に動いた。

彼らが手にするのは、暗殺用の短剣や、魔力を帯びた針金。

標的は、ドレス姿の女二人。

普通なら、悲鳴を上げる暇もなく蹂躙される獲物だ。

だが。

「……音楽の余韻を邪魔する奴には、教育が必要だね」

ベアトリクスは、床に置いたブーケを汚さぬよう、優雅にドレスの裾をつまみ上げた。

ミッドナイトブルーの生地がふわりと広がる。

先頭の男が、ベアトリクスの懐に飛び込む。

速い。手練れだ。

喉元を狙う一閃。

ベアトリクスは動かなかった。

上半身は。

ヒュンッ。

風を切る音よりも鋭く、そして重い音が響いた。

「がッ……!?」

男の体が、真上に跳ね上げられた。

顎を砕かれ、脳震盪を起こして白目を剥く男が、天井に激突して落下してくる。

ベアトリクスは、その落下してくる男を避けるように、くるりと一回転した。

ドレスが花のように舞い、その遠心力を利用して、二人目の男の横っ面をヒールの踵で蹴り抜く。

ドガァッ!!

「ごふっ!」

二人目の男が、ピンボールのように壁に叩きつけられた。

「――失礼、このドレスコードだと足癖が悪くてね」

ベアトリクスは、ドレスのスリットから覗く長い脚をゆっくりと下ろした。

その動きは、暴力というよりは舞踏の一節。

体幹が全くブレていない。

ハイヒールという不安定な足場、動きを制限するドレス。

それら全ての悪条件を、彼女は「遠心力」と「美しさ」に変換して武器にしていた。

「なんて流麗な足技!」

背後で、イプシロンが感嘆の声を上げた。

彼女もまた、襲いかかる刺客を魔力の糸で絡め取りながら、ベアトリクスの動きに魅入っていた。

「重心移動が完璧です……! ドレスの重さを利用して蹴りの威力を増しつつ、スリットの可動域を計算し尽くした軌道……! 勉強になります!」

「おだてても何も出ないよ、シロン」

ベアトリクスは苦笑しつつ、三人目の男の剣を、素手――正確には硬質化した魔力の皮膚――で受け流した。

「そっちこそ、ドレスを汚さずにさばくのは大変だろう?」

「ええ。ですが、これもまた一興」

イプシロンは優雅に微笑み、指揮棒を振るうように指先を動かした。

「『斬撃』は使いません。……血が飛び散りますから」

彼女の指先から伸びた見えないスライムの糸が、刺客たちの武器だけを正確に切断していく。

パキン、パキンと金属音が響く。

武器を失い、呆然とする男たちの足を、スライムの鞭が払い飛ばす。

「ぐわぁっ!」

「な、なんだこの女たちは……!」

男たちが将棋倒しになる。

イプシロンは、その倒れた男たちの上を、まるで鍵盤の上を歩くように軽やかにステップを踏んだ。

「貴方たちの相手をするには、ピアノを弾くほどの集中力も必要ありませんわ」

「クソッ! 舐めるな!」

残った男たちが、魔力を暴走させて特攻を仕掛ける。

魔法による炎と氷の礫。

狭い通路でそれが放たれれば、ただでは済まない。

「あーあ。……劇場を壊す気かい?」

ベアトリクスが、ため息をついた。

彼女の黄金の瞳が、スッと細められる。

「演奏家への敬意が足りないね」

ベアトリクスが踏み込んだ。

縮地。

ドレス姿とは思えない加速で、男たちの魔力が発動する直前の「間」に滑り込む。

「遅い」

彼女の掌底が、男の腹部に吸い込まれた。

ドォン!!

衝撃波が男の体を貫通し、背後の壁だけを粉砕する。

男は声もなく崩れ落ちる。

同時に、イプシロンも動いていた。

彼女はもう一人の男の背後に回り込み、耳元で指を鳴らした。

パチン。

圧縮された空気が弾け、男の三半規管を揺さぶる。

平衡感覚を失い、よろめく男の襟首を掴み、優しく、しかし確実に気絶させる。

「ふふっ。……フィナーレですわね」

イプシロンが微笑む。

通路には、十数人の男たちが転がっていた。

誰一人として死んではいないが、二度と立ち上がれないほどのダメージと、心へのトラウマを刻み込まれている。

ベアトリクスは、乱れたドレスの裾を直し、息一つ切らしていなかった。

「……ふむ。運動不足の解消にはなったかな」

彼女は床に置いてあったブーケを拾い上げた。

花びら一枚、散っていない。

生き残ったリーダー格の男が、震えながら後ずさる。

腰が抜け、壁に張り付いている。

「ひ、ひぃ……。ば、化け物……」

男の視界には、美しいドレスを纏った二人の美女が、死神のように映っていた。

ベアトリクスは男に歩み寄った。

コツ、コツ、とヒールの音が、死刑宣告のカウントダウンのように響く。

「この社交場でお前たちの流血は相応しくないんだ」

彼女は男の目の前で立ち止まり、冷ややかに見下ろした。

「命までは奪わないから尻尾を巻いて逃げるんだな」

黄金の瞳から放たれる「圧」。

それは、二千年の時を生きた魔人の、本質の片鱗。

生物としての格の違いを、魂に直接刻み込むような恐怖。

「あ、あ、あああああ……ッ!!」

男は悲鳴を上げ、這いつくばるようにして逃げ出した。

仲間を見捨てることも厭わず、ただこの場から、この捕食者たちから離れたい一心で。

「……賢明な判断だ」

ベアトリクスは、逃げていく背中を見送った。

静寂が戻る。

遠くから、劇場の片付けをするスタッフたちの声が聞こえてくる。

「お見事でした、ベアトリクス様」

イプシロンが近づき、改めて礼をした。

「貴女様のエスコートのおかげで、ドレスに皺ひとつ寄りませんでしたわ」

「君のサポートがあったからさ。……いいコンビだったよ、シロン」

ベアトリクスはイプシロンにブーケを差し出した。

「改めて、公演成功おめでとう。……素晴らしい音楽だった」

「……っ! ありがとうございます!」

イプシロンは花束を受け取り、満面の笑みを浮かべた。

それは、七陰としての冷徹な顔でも、ピアニストとしての澄ました顔でもない。

褒められたことを純粋に喜ぶ、一人の少女の顔だった。

「さて……」

ベアトリクスは窓の外を見た。

王都の夜はまだ浅い。

煌びやかな街の灯りが、二人を誘っているように見える。

「このまま帰るのも味気ないね」

「はい。……私も、もう少しこの興奮を冷ましたくありません」

イプシロンも同意する。

二人は顔を見合わせた。

美しいドレス。高揚した気分。そして、少しの運動(戦闘)による程よい疲れ。

これらを癒やすには、もっと知的で、優雅な場所が必要だ。

「せっかくのドレスコードだ。このままナツメ先生のサロンに足を伸ばしてみようか」

ベアトリクスの提案に、イプシロンが目を輝かせた。

「ナツメ先生……ベータのサロンですね! あそこなら、最高級の紅茶と、そして何より……」

「ああ。最新の『シャドウ様戦記』の朗読会が聞けるかもしれない」

「行きましょう! いますぐ!」

イプシロンはベアトリクスの腕を取った。

普段はライバル心を燃やすベータだが、主の話題となれば話は別だ。

それに、今日のベアトリクスの武勇伝を、ベータに自慢したいという気持ちもあった。

「馬車を呼びますわ。ミツゴシの専用車を」

「いや、いいよ」

ベアトリクスは悪戯っぽく笑い、窓を開けた。

「夜風が気持ちいい。……屋根伝いに行こう」

「えっ? ドレスで、ですか?」

「『足癖』の練習さ。……ついておいで、天才ピアニスト」

ベアトリクスは窓枠に足をかけ、夜の空へと躍り出た。

ミッドナイトブルーのドレスが、夜闇に溶け込むように翻る。

「……もう。ベアトリクス様ったら」

イプシロンは苦笑し、しかし楽しげにその後を追った。

純白のドレスが、月光を受けて輝く。

王都の夜空を駆ける、二人の淑女。

その姿を目撃した数少ない人々は、それを夜の女神の行進だと噂し合ったという。

目指すは、人気作家ナツメ・カフカの主催する文学サロン。

そこでは、また別の「戦い」――知と妄想と、主への愛が交錯する激論――が待ち受けている。

夜は、まだまだ終わらない。

魔人と七陰たちの優雅で過激な休日は、次のステージへと続いていく。

 

王都ミドガルの夜空を、二つの流星が駆ける。

一つは夜色のドレスを纏った魔人、ベアトリクス。

もう一つは純白のドレスを纏った七陰、イプシロン。

屋根から屋根へ。重力を嘲笑うかのような跳躍は、まるで夜の舞踏会だ。

「ふふ、いい風だね」

ベアトリクスは上機嫌だった。

美味しい食事、心地よい運動(戦闘)、そして美しい音楽。

これで一日の締めくくりに、知的な文学サロンでの朗読会が待っているとなれば、文句のつけようがない。

眼下には、平和な――あるいはその皮を被った――王都の街並みが広がっている。

その雑踏の中に、彼女の超感覚(アンテナ)が、ある「気配」を捉えた。

それは、あまりにも希薄で、風景に溶け込みすぎていて、普通の人間ならば認識することすら不可能な「背景(モブ)」の気配。

だが、ベアトリクスにとっては、何よりも愛おしく、そして面白い気配だ。

「お、拾い物発見」

ベアトリクスはニヤリと笑い、進行方向を急激に変えた。

「えっ? ベアトリクス様?」

イプシロンが驚く間もなく、魔人は急降下する。

狙いは、路地裏のパン屋の前を、安売りのコロッケパンを片手にトボトボと歩いている、一人の黒髪の少年。

ミドガル魔剣士学園の制服を着崩した、冴えない男子生徒。

シド・カゲノー。

(今日の晩飯はコロッケパンか……。金欠だしな。でもこの店のソースは隠し味が効いてて悪くない)

シドがそんなことを考えながら、大あくびをした瞬間だった。

「確保ぉッ!」

「ぶふぉっ!?」

頭上から降ってきた影に、シドは首根っこを掴まれ、そのまま空へと連れ去られた。

コロッケパンが手から滑り落ちそうになるのを、超絶技巧の指先でギリギリキャッチする。

「な、なに!? 誘拐!? 空!?」

シドは手足をバタつかせ、完璧な「巻き込まれモブ」の演技をする。

だが、その視線は冷静に捕獲者を確認していた。

(ベアトリクスさん……。またかよ。しかもドレスアップしてるし)

「やあ、シド。奇遇だね」

ベアトリクスはシドを小脇に抱えたまま、屋根の上を疾走する。

ドレス姿で男一人を抱えているとは思えないスピードだ。

「奇遇ってレベルじゃないですよ! 離して! 僕の平和な下校時間が!」

「主様……ッ!?」

遅れて着地したイプシロンが、シドの姿を見て悲鳴に近い声を上げた。

(ベアトリクス様、まさか主様をあんな風に荷物みたいに……! 羨まし……いえ、不敬ですわ!)

「これからナツメ先生のサロンに行くんだ。……せっかくだから君も付き合いな」

ベアトリクスは強引に決定事項を通達する。

「いや、僕みたいな一般人がそんな高尚な場所に……それに服が……」

「心配ない。……ドレスコード(タキシード)はこれね」

ベアトリクスは走りながら、懐(あるいは空間魔法的な何か)から、一着の黒い衣装を取り出した。

仕立ての良い、高級タキシードだ。

「いつの間に……」

イプシロンが呆然と呟く。

いつ用意したのか。それとも、最初からシドを捕まえるつもりで持ち歩いていたのか。

「ほら、着いたよ」

ベアトリクスは、サロンのある建物の裏手にある、鬱蒼とした茂みの中に飛び込んだ。

ドサッ。

シドが茂みの中に放り出される。

「ここで着替えな。……10秒でね」

「無茶苦茶だ……」

シドは文句を言いつつも、内心では(タキシードか……。「夜会に紛れ込む謎の紳士」ごっこができるな)と満更でもなかった。

彼は超高速(モブには見えない速度)で制服を脱ぎ捨て、タキシードに袖を通す。

サイズは完璧だった。

ベアトリクスの目は、シドの骨格から筋肉の付き方まで、全てを把握しているらしい。

「……着れたよ」

茂みから出てきたシドは、もはや冴えない学生ではなかった。

漆黒のタキシードを着こなし、夜の闇を纏った貴公子。

前髪を少しかき上げたその姿に、イプシロンが「はうっ……!」と顔を赤らめてよろめく。

「うん、似合ってる。……やっぱり素材がいいね」

ベアトリクスは満足げに頷き、シドの蝶ネクタイを直してやった。

まるで、弟の晴れ舞台を整える姉のように。

「さあ、行こうか。……表口から堂々とね」

三人は茂みを出て、サロンの正面玄関へと回った。

そこには、招待状を持った着飾った紳士淑女たちが列を作っている。

受付には、ミツゴシ商会の制服を着た女性――シャドウガーデンのナンバーズが立っていた。

彼女は、列を無視して歩いてくる三人組を見て、注意しようと口を開きかけ――凍りついた。

(ベアトリクス様……イプシロン様……そして、主様ッ!?)

心臓が止まりかける衝撃。

組織のトップ3(実質)が、揃い踏みで、しかもドレスアップして現れたのだ。

VIP待遇どころの騒ぎではない。国家元首が来るよりヤバい。

「顔パスでいいかい?」

ベアトリクスが、悪戯っぽく微笑む。

「は、ははは、はいっ!!! どうぞ!!! 直ちに最前列の特別席を!!!」

ナンバーズの女性は、直立不動で敬礼しそうになるのを必死で堪え、震える手で扉を開けた。

周囲の客たちが「なんだあれは?」「どこの王族だ?」とざわめく中、三人は悠然とサロンの中へと足を踏み入れた。

                 *

サロン・ド・ナツメ。

そこは、王都の文化人たちが集う、知の社交場である。

アンティーク調の家具で統一された室内には、インクと珈琲の良い香りが漂っている。

ステージには、一人の女性が座っていた。

銀髪を緩く編み、知的な眼鏡をかけた美女。

人気作家、ナツメ・カフカ。

その正体は、七陰第二席、ベータである。

彼女は今、新作の朗読を行っていた。

「――塔の上に幽閉された少女は、窓の外に広がる世界を夢見ていました。しかし、彼女の長い長い金色の髪は、彼女を縛り付ける鎖でもあったのです」

ベータの美声が、サロンに響き渡る。

観客たちは水を打ったように静まり返り、物語の世界に引き込まれている。

ベアトリクス、シド、イプシロンの三人は、一番後ろの目立たない(しかし全体が見渡せる)席に座った。

ウェイター(構成員)が、震える手で最高級の紅茶を運んでくる。

シドは紅茶を啜りながら、ベータの朗読に耳を傾けた。

(あ、前に話したラプンツェルの話じゃん。……そんな解釈したんだベータ)

以前、シドが「グリム童話」や「ディズニー」の知識を適当に話したことがあった。

それをベータが独自にアレンジし、小説化したものだ。

しかし、内容はシドの知っているラプンツェルとは少し違っていた。

「魔女は言いました。『お前の髪は、魔力を紡ぐための道具。お前は愛されるためではなく、搾取されるために生まれたのだ』と。……少女は絶望しました。彼女の涙は大地に落ち、そこから茨が芽吹き、塔をより高く、より強固に閉ざしていくのです」

(……重いな。なんかダークファンタジーになってる)

シドは心の中でツッコミを入れる。

キラキラしたプリンセスストーリーではなく、過酷な運命と、そこからの脱出を描く壮絶なドラマになっている。

「しかし、少女は諦めませんでした。……ある夜、一人の『影』が塔に舞い降ります。彼は王子様ではありません。剣を持たず、名乗らず、ただ闇のように静かな存在でした」

ベータの声に熱が帯びる。

観客席の女性たちが、うっとりと頬を染める。

「影は、少女の髪(くさり)を断ち切りました。……『世界は残酷だ。だが、君が望むなら、その残酷さを踏み越える力を授けよう』。……そうして少女は、守られる姫君ではなく、自らの足で立つ戦士として、塔から飛び立つのです」

(うわぁ……。めちゃくちゃシャドウガーデン要素入れてくるじゃん)

シドは苦笑した。

ラプンツェルの髪を「悪魔憑きの呪い」や「教団による呪縛」のメタファーとし、それを救う「影(シャドウ)」の活躍を描く。

完全なプロパガンダ小説だ。

だが、物語としての完成度は高く、観客たちは「なんて斬新な解釈だ!」「愛と自立の物語だ!」と感動している。

「……ふむ」

隣で聴いていたベアトリクスが、興味深そうに呟いた。

「面白いね。……髪を魔力媒体として捉え、それを呪いと祝福の両面から描くとは」

彼女は、シドの方をチラリと見た。

「まるで、誰かさんの実体験を聞かされているようだ」

シドは肩をすくめた。

(バレてる? いや、まさかね)

朗読が終わる。

万雷の拍手。

ベータは眼鏡を光らせ、優雅に一礼した。

その視線が、客席の奥――シドたちのいるテーブルに向けられる。

瞬間、ベータの表情が凍りついた。

いや、沸騰した。

(シド様……ッ!? それに、タキシード……ッ!?)

彼女の「作家ナツメ」としての理性が崩壊寸前になる。

主様が、自分の朗読を聴きに来てくださった。

しかも、あんなに素敵な衣装で。

隣にいるベアトリクスとイプシロンが邪魔だが、そんなことはどうでもいい。

今、主様の瞳には、ステージ上の自分が映っている。

ベータは顔がにやけそうになるのを全力で抑え込み、震える足でステージを降りた。

そのまま、一直線にシドたちの元へ向かう。

「……ご来場、ありがとうございます」

ベータは、精一杯の「ナツメ・カフカ」としての演技で挨拶した。

だが、その瞳はシドに釘付けだ。

「いい物語だったよ、ナツメ先生」

ベアトリクスが、拍手を送った。

「古き伝承を、現代的な解釈で再構築している。……特に『影』の描写、あれは実在のモデルがいるのかな?」

ベアトリクスの意地悪な質問。

ベータは頬を染め、モジモジとした。

「は、はい……。私の……心から尊敬する方を、モデルにさせていただきました」

「へぇ。それは幸せな方だね」

ベアトリクスはシドを見てニヤリとする。

シドは「僕のことじゃないよな?」という顔で紅茶を飲んでいる。

「なるほど、これもシドの陰の叡智かな」

ベアトリクスは小声で、シドだけに聞こえるように囁いた。

「……何のことだか」

「とぼけるのが上手いね。……でも、物語は嘘をつかないよ」

ベアトリクスは、ベータに向き直った。

「ナツメ先生。……素晴らしい朗読だった。その『影』の続き、もっと聞きたいものだね」

「ありがとうございます……! 次巻では、少女が影と共に世界を変革する『革命編』を予定しております!」

ベータは鼻息荒く宣言した。

彼女の創作意欲は、シドの来店によってカンストしている。

「さて、シロン。……君も感想を言いなよ」

ベアトリクスが話を振る。

イプシロンは、少し対抗心を燃やしながらも、素直に頷いた。

「……悪くありませんでした。特に、少女の心理描写……『愛されるより愛したい』という渇望は、共感できました」

「あら、シロン様。音楽家の方にそう言っていただけると光栄ですわ」

火花が散る。

正妻戦争(冷戦)の勃発だ。

ベアトリクスはそれを肴に、さらに楽しそうに笑う。

「さあ、夜はこれからだ。……ここは少し手狭だね」

ベアトリクスは立ち上がった。

周囲の客が、彼女たちの発する異様なオーラ(と美貌)に注目し始めている。

「場所を変えようか。……ナツメ先生のサロンの奥には、もっといい部屋があるんだろう?」

「は、はい! VIP用の個室がございます! そちらで、特製のお菓子と紅茶を……」

ベータが嬉々として案内しようとする。

シドは立ち上がり、タキシードの裾を直した。

(個室か。……まあ、タダ飯が食えるならどこでもいいけど)

彼は、この奇妙な集団――魔人、ピアニスト、作家、そして陰の実力者――の中心にいることを、少しだけ心地よく感じていた。

日常と非日常の境界線。

そこで繰り広げられる、高度な「ごっこ遊び」の延長戦。

「……付き合うよ。朝までな」

シドがキザに言うと、三人の女性たちの目が一斉に輝いた。

「言ったね? 言質は取ったよ」

ベアトリクスがシドの腕を組む。

「主様……! では、私が伴奏を……!」

イプシロンが反対側の腕を確保する。

「シド様……! 新作のプロット、全て聞いていただきますからね……!」

ベータが背後を確保する。

完全に包囲された。

だが、シドは悪い気はしなかった。

これが「陰の実力者」の孤独で華やかな夜だと言うのなら、甘んじて受け入れよう。

一行は、サロンの奥へと消えていく。

その背中を見送る一般客たちは、口々に噂した。

「あの方々は一体……?」

「夜の支配者たちかもしれないな」

「まるで、物語の登場人物のようだ」

その夜、サロン・ド・ナツメのVIPルームからは、夜明けまで笑い声と、ピアノの旋律、そして熱い物語の議論が絶えなかったという。

それは、歴史の裏側で世界を動かす者たちの、束の間の、しかし最も輝かしい休息の時間だった。

 

 

アレクサンドリアの地下深くに存在する、第七席イータの研究室。

そこは、昨夜の華やかなサロンやコンサートホールとは対極にある、混沌と狂気が支配する空間だった。

床には解読不明な設計図が散乱し、天井からは無数の配管が垂れ下がり、得体の知れない色の液体が循環している。部屋の隅には、解体された魔獣の骨格標本や、発掘された古代文明の遺物(ガラクタとも言う)が山積みになっており、空気中には薬品の刺激臭と、煮詰まったコーヒーの香りが混じり合って漂っていた。

「……んぅ……。あと5分……」

書類の山に埋もれるようにして眠っていたイータが、不快そうに身じろぎをする。

彼女の睡眠を妨げたのは、遠慮のない足音と、圧倒的な魔力の気配だった。

「起きなよ、イータ。……約束の『サンプル』を持ってきたよ」

書類の山を無造作に掻き分け、その上にドサリと腰を下ろした侵入者。

昨夜のドレス姿から一転、いつもの旅装束に戻った武神ベアトリクスだ。

ただし、その手にはミツゴシ商会で買ったと思われる高級プリン(3個入り)が提げられている。

「……ん……。ベアトリクス……?」

イータは白衣を頭から被ったまま、眼鏡の位置を直して顔を出した。

目の下には濃いクマ。髪は寝癖で爆発している。

だが、ベアトリクスの言葉を聞いた瞬間、その眠たげな瞳孔がカッと開いた。

「……サンプル……。私の解剖実験……受けてくれる気になった……?」

「解剖は断るよ。……でも、私の身体の『データ』なら見せてあげる」

ベアトリクスはプリンを一つ、イータの目の前に置いた。

イータはスライムの触手を伸ばし、器用にプリンを開封して口に運ぶ。糖分が脳に行き渡ると共に、彼女の思考回路が再起動する。

「……ん。美味しい。……で、データは?」

イータは分析用のモノクルを装着し、ベアトリクスをジロジロと見た。

その視線は、人間を見る目ではない。未知の鉱脈や、新種のウイルスを見る目だ。

「君は以前、私の血を欲しがったね。……魔人化した時の細胞変化に興味があると言っていた」

「……そう。マスター(シャドウ)以外で……唯一の成功例……。ディアボロス細胞と適合し……自我を保っている個体……。学術的に……とても価値がある……」

イータはブツブツと呟きながら、聴診器のような魔道具や、魔力測定器を取り出した。

「一般的に『悪魔憑き』と呼ばれる症状は、細胞の壊死と暴走だ。……魔力が体に馴染まず、肉体が腐り落ちる」

ベアトリクスは自分の右腕をまくった。

白磁のように滑らかで、筋肉の筋が美しく浮き出る腕。

そこに、腐敗の兆候など微塵もない。

「……ん。綺麗な肌……。防腐処理済み……?」

「いいや、天然さ」

ベアトリクスはニヤリと笑った。

「私の身体は特別製さ。悪魔憑きの症状に至ることはない。なんて言ったって私自身が悪魔憑きのその先の究極の完成形なのだから」

「……完成形……」

「そう。……見ていなよ」

ベアトリクスは、腰に差していた短剣を抜いた。

そして、躊躇なく――本当に何のためらいもなく――自らの右腕に振り下ろした。

ザンッ!!

鮮血が舞う――ことはなかった。

切断された腕が床に落ちる――こともなかった。

「……え?」

イータが瞬きをした、その一瞬の隙間。

ベアトリクスの腕は、切断されたはずの場所に、何事もなかったかのように繋がっていた。

傷跡一つない。

服の袖すら切れていない。

だが、イータの動体視力と分析機は捉えていた。

確かに刃は通り抜けた。骨を断ち、肉を裂き、血管を切断したはずだ。

空間には、切断された瞬間の魔力の残滓が漂っている。

「……再生……? ううん……違う……」

イータはベアトリクスの腕を触った。

温かい。脈もある。

だが、今の現象は「治癒」とは違った。

治癒魔法や再生能力は、傷口から細胞が増殖し、埋めていくプロセスがある。

だが、今のは「最初から斬られていなかった」かのような復元だった。

「再生なんてものじゃない、『遡行』だ」

ベアトリクスは短剣を収め、淡々と告げた。

「私はね、二千年前に魔人として完成したその瞬間に、存在が『固定』されたんだ。……私の肉体は、世界というキャンバスに焼き付けられた染みのようなものさ」

彼女は指を鳴らす。

「斬られようが、燃やされようが、私の肉体情報は『あの瞬間』の状態に強制的に巻き戻る。……時間逆行に近いかな。私の肉体限定の、永続的なタイムリープ」

イータは戦慄した。

そして、歓喜に震えた。

「……すごい……。マスターの『不老不死』理論……その一つの解……。エントロピーの減少を……個体レベルで逆転させてる……?」

彼女は猛烈な勢いでメモを取り始めた。

ホワイトボードに複雑な数式が書き殴られていく。

「……じゃあ……ベアトリクスを殺すには……存在の『定義』そのものを消去するか……魔力を枯渇させて『固定』を解くしかない……?」

「ご名答。……シドがやった『アトミック』級の攻撃で原子分解するか、あるいは二千年分の魔力を使い果たさせるかだね」

ベアトリクスは肩をすくめた。

「まあ、私は自分の命(魔力)を喰らって生きているから、放っておいてもいつかは消える。……それが数万年先か、明日かは分からないけど」

「……興味深い……。非常に……興味深い……」

イータは涎を垂らさんばかりの勢いでベアトリクスを見つめる。

だが、ベアトリクスは「見世物はこれからだよ」と言わんばかりに、研究室の隅を指差した。

「ところでイータ。……あそこに転がっている骨、なんだい?」

そこには、埃を被った動物の頭蓋骨が転がっていた。

大きさは猫ほどだが、牙が長く、骨格の形状が現存する生物とは微妙に異なる。

「……ん? ああ……それ……。こないだの遺跡調査で掘り出した……ゴミ……」

イータは興味なさげに答えた。

「……魔力反応もないし……アーティファクトの部品でもない……。ただの化石……。あとで捨てようと思ってた……」

「ゴミじゃないよ。……懐かしいねぇ」

ベアトリクスは、その頭蓋骨を拾い上げた。

愛おしそうに、その眼窩を指でなぞる。

「これは『ミケネコ』だ。……古代語で『三毛猫』という意味の、愛玩動物さ」

「……ミケネコ……? 今の猫とは違う……?」

「ああ。古代の猫は、もっと魔力親和性が高くてね。……人の言葉を解し、時には飼い主を守って戦うことさえあった」

ベアトリクスは頭蓋骨を、散らかったデスクの上に置いた。

「イータ。……君は『命』をどう定義する?」

「……命……? タンパク質の化学反応……。あるいは……魔力による魂の定着……」

「科学者らしい答えだ。……でも、魔人(わたし)の定義は少し違う」

ベアトリクスの瞳が、黄金に輝き始めた。

研究室の空気が変わる。

澱んだ空気が清浄化され、濃密な、生命のスープのような気配が満ちる。

「命とは『記憶』であり、『形』への執着だ。……この骨には、まだ微かに記憶が残っている。『生きたい』『走りたい』『撫でられたい』という、原始的な記憶がね」

「……でも……それは死んでる……。数千年前の骨……」

「関係ないさ」

ベアトリクスは、頭蓋骨に指先を向けた。

「では魔人の権能の一端を見せてあげよう」

彼女が、指をパチンと鳴らした。

その乾いた音が、世界の理を書き換えるトリガーとなった。

カッ!!!!

黄金の光が、頭蓋骨を包み込んだ。

イータは眩しさに目を細めたが、その奥で起きている現象を見逃さなかった。

骨から、血管が伸びる。

神経が走り、内臓が形成され、筋肉が巻き付いていく。

それは早回しの映像を見ているようであり、同時に時間が逆流しているようでもあった。

無から有が生まれるのではない。

「かつてそこに在った姿」が、ベアトリクスの魔力(いのち)を代償に、現在へと呼び戻されていく。

「……因果律の……逆転……!? 質量保存の法則を……無視してる……!?」

イータが驚愕の声を上げる。

光が収束し、最後に三色の美しい毛並みが覆い被さる。

「にゃ〜ん」

そこにいたのは、一匹の猫だった。

白、黒、茶の三色が入り混じった、美しい毛並み。

長い尻尾が二又に分かれ、耳の先には房毛がある。

古代種、ミケネコ。

それは、キョロキョロと辺りを見回し、目の前にいたイータを見て、「にゃっ」と短く鳴いた。

「……生き返った……」

イータは呆然と呟き、震える手で猫に触れた。

温かい。

心臓がトクトクと動いている。

アンデッドではない。

完全な、生命体としての蘇生。

「……マスターも……たまにこういうデタラメするけど……。ベアトリクスも……大概だね……」

イータは、科学者としての常識を粉々にされた敗北感と、未知の現象を目の当たりにした興奮で、脳がショートしかけていた。

「言っただろう? 私は『遡行』すると。……その影響範囲を、自分以外にも拡張しただけさ」

ベアトリクスは、少し疲れたように肩を回した。

他者の蘇生は、自身の再生よりも遥かに燃費が悪いらしい。

「君にあげるよ」

彼女は、ミケネコをひょいと持ち上げ、イータの膝の上に乗せた。

「……え? 私に……?」

「ああ。君の研究室は殺風景だからね。……それに、この子は古代の生き証人だ。君の研究の役にも立つだろう?」

ミケネコは、イータの白衣の上で居心地良さそうに丸くなり、喉をゴロゴロと鳴らし始めた。

イータは、どう扱っていいか分からず、ぎこちなく猫の背中を撫でた。

「……世話……面倒くさい……」

イータの本音が漏れる。

彼女は自分の世話すら満足にできない(着替えも食事も部下任せ)のだ。ペットの世話など不可能に近い。

「世話はガーデンの構成員(ナンバーズ)に頼むといい。……ここの研究員たちは、君の実験のストレスで参っているようだし、アニマルセラピーになるだろう」

ベアトリクスは適当なことを言う。

「好きな魚はカツオだ。……間違っても、変な薬を飲ませたり、サイボーグ化したりするんじゃないよ」

「……ん。善処する……」

イータは猫の腹に顔を埋めた。

太陽の匂いがした。

二千年前の太陽の匂い。

「……あったかい……。この振動(ゴロゴロ音)……癒やし効果がある……。脳波が……安定する……」

どうやら、イータは猫を気に入ったようだ。

枕代わりにするつもりかもしれないが。

「さて、私は行くよ」

ベアトリクスは立ち上がった。

目的(データの提供と、イータへの驚きの手土産)は果たした。

「……もう行くの……? もっと……データ取りたい……」

イータが猫を抱えたまま、名残惜しそうに見上げる。

「また来るさ。……その猫が元気に育っているか確認しにね」

ベアトリクスは研究室の出口へと向かった。

その背中に、イータが声をかける。

「……ベアトリクス」

「ん?」

「……ありがとう。……このサンプル(猫)、大切にする」

「ああ。……可愛がってやってくれ」

ベアトリクスは手を振り、混沌とした研究室を後にした。

廊下に出ると、彼女はふぅと息を吐いた。

少し魔力を使いすぎたかもしれない。

お腹が空いた。

「……マグロナルドの朝メニュー、まだやってるかな」

彼女は独りごちて、地上への階段を登り始めた。

研究室に残されたイータは、膝の上のミケネコ――仮に『サンプルM』と名付けた――を見つめながら、珍しく穏やかな表情をしていた。

「……古代の生命……。魔人の権能……。マスターの叡智とは……また違うアプローチ……」

彼女はデスクの上の通信機(魔道具)を起動した。

「……あー、もしもし……ガンマ? ……うん、私……。……今すぐ……最高級のカツオを取り寄せて……。……うん、研究に必要……。あと……猫砂も……」

通信の向こうでガンマが「猫砂!? イータ、貴女また変な生物兵器を!?」と慌てふためく声が聞こえたが、イータは構わず通話を切った。

「……ふふ。……研究が捗りそう……」

イータは猫と共に、再び書類の山の中へと潜り込んでいった。

アレクサンドリアの地下に、新たなマスコット(古代生物)が加わった瞬間である。

                 

そこは普段から混沌の極みであるが、今日の騒がしさはいつもとは種類が違っていた。

「はぁ、はぁ……! イータ! 一体どういうことですか! 緊急回線を使って『最高級カツオ』と『猫砂』を要求するなど!」

研究室の重厚な扉がバーン! と開かれ、ミツゴシ商会会長の制服に身を包んだガンマが飛び込んできた。

彼女の両手には、桐箱に入った一本釣りカツオ(時価数十万ゼニー)と、最高級の抗菌消臭猫砂の袋が抱えられている。

彼女は肩で息をしながら、研究室の惨状を見渡した。

いつもの書類の山が、さらに崩壊している。

そして、その頂上に、一匹の生き物が鎮座していた。

白、黒、茶の三色が混じり合った美しい毛並み。

二又に分かれた尻尾を優雅に揺らし、金色の瞳でガンマを見下ろす、見たこともない猫。

「……にゃあ?」

猫は小首を傾げた。

その愛くるしい仕草に、普通の人間なら頬を緩めるところだ。

だが、ガンマは違った。彼女の優秀すぎる(しかし運動神経には直結しない)頭脳が、瞬時に警報を鳴らしたのだ。

この猫から漂う魔力の質。

それは現代の生物のものではない。もっと古く、原初的な何かの気配。

「な、なんですかその謎の猫は!」

ガンマが叫んだ。

その声に反応して、書類の山の中から白衣を被ったイータが顔を出した。

「……ん。ガンマ、遅い……」

イータはあくびを噛み殺し、モノクルを装着したまま手招きした。

「……紹介する……。サンプルM……。ベアトリクスがくれた……古代兵器(ペット)……」

「古代兵器!? ベアトリクス様が!?」

ガンマが混乱する。

あの武神が、なぜ猫を? しかも古代兵器?

思考が追いつかない間に、猫――ミケネコが立ち上がった。

その鼻がピクピクと動く。

狙いは一つ。

ガンマが抱えている、最高級カツオだ。

「……ん。サンプルM、食事の時間……」

イータがボソリと呟いた。

その目には、マッドサイエンティスト特有の、冷徹な観察者の光が宿っている。

「……狩りの能力テスト……。対象、ガンマ……」

「え?」

イータは、逃げるどころか、猫に向かって指を振った。

「いいぞ、やれやれ〜」

その指令が、太古の捕食スイッチを押した。

「しゃーっ!!」

ミケネコが飛んだ。

可愛い「にゃあ」ではない。猛獣の咆哮に近い声を上げ、残像を残すほどのスピードでガンマに襲いかかる。

「ひぃっ!? き、来ないでくださいましーーッ!!」

ガンマは悲鳴を上げ、反射的に回避行動を取ろうとした。

だが、そこは呪われた運動神経の持ち主。

右足を引こうとして左足に絡まり、さらに床に散らばっていた設計図の巻物に乗り上げるという、芸術的なコンボを決めた。

「ああっ!」

ドッゴォォォォン!!

ガンマが盛大に転倒した。

その拍子に、抱えていたカツオが宙を舞う。

美しい放物線を描くカツオ。

それを追うミケネコ。

ミケネコは空中で身をひねり、壁を蹴り、天井の配管を足場にして加速した。

その動きは、重力を無視している。

魔力強化された身体能力。

ただの猫ではない。かつて人と共に戦場を駆け抜けた、戦闘種の末裔。

ガブッ!

ミケネコは空中でカツオを見事にキャッチし、そのまま着地――するはずだった場所は、イータが開発中だった「高濃度スライム培養槽」の上だった。

ボチャンッ!!

「にゃ、にゃあアアアアアッ!?」

粘性の液体の中に落下する猫とカツオ。

培養槽の警報が鳴り響く。

『警告。異物混入。緊急排出シーケンス起動』

プシューッ!!

培養槽から、スライムまみれになったミケネコが噴出された。

その姿は、もはや可愛い猫ではない。

青白い粘液を纏い、怒り狂ったスライム・モンスターだ。

「……ん。スライムとの融合実験……成功……?」

イータがメモを取る。

「成功じゃありませんわーーッ!!」

ガンマが床に這いつくばったまま叫ぶ。

スライムまみれのミケネコは、不快感からパニックを起こし、部屋中を高速で駆け回り始めた。

壁に激突し、棚をなぎ倒し、貴重な薬品の瓶を割りまくる。

ガシャーン! バリーン! ドカーン!

「あぁぁっ! そこは今月の売上帳簿が!」

「ああっ! それは主様に献上する予定だった壺が!」

ガンマの悲痛な叫びが響く。

だが、彼女が止めようと立ち上がるたびに、スライムの床で滑って転び、二次災害を引き起こす。

棚に頭をぶつけ、その衝撃で落ちてきた魔道具が起動し、ビームが乱射される。

チュドーン!!

研究室は阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。

「……すごい……。古代種の敏捷性……プラス、スライムの防御力……。最強の生物兵器……」

イータは安全地帯(机の下)に避難し、キラキラした目でデータを取っていた。

「イータ! 感心してないで止めてください!」

「……無理。……ガンマがカツオを離さないから……」

見れば、ミケネコはスライムまみれになりながらも、口にくわえたカツオを死守している。

そして、そのカツオを狙って(?)暴走する魔道具のビームを華麗に回避し続けているのだ。

「あれは私のカツオではなく、貴女が頼んだものでしょう!?」

「……ん。そうだった」

イータは懐から、猫じゃらし(先端に魔石がついた特製品)を取り出した。

「……サンプルM、注目」

彼女が猫じゃらしを振ると、ミケネコの目が釘付けになった。

カツオを咥えたまま、瞳孔が収縮する。

古代種といえど、猫は猫。

動くものには抗えない。

「……そーれ」

イータが猫じゃらしを、部屋の奥にある「廃棄物処理用焼却炉」の方へ投げた。

ダッ!!

ミケネコは猛然とダッシュした。

カツオを放り出し、猫じゃらしを追う。

そして、焼却炉の中に飛び込もうとした――その寸前。

「危ないッ!」

ガンマが、信じられない速度(転倒の勢いを利用したスライディング)で滑り込み、ミケネコを空中でキャッチした。

ドサァッ。

ガンマはミケネコを胸に抱き、壁に激突して止まった。

全身スライムまみれ。服はボロボロ。

だが、その腕の中には、きょとんとした顔のミケネコが収まっていた。

「……はぁ、はぁ……。主様から頂いた命(ではないが)、粗末にしてはなりませんわ……」

ガンマは聖母のような微笑みを浮かべた。

ミケネコは「にゃあ」と鳴き、ガンマの頬についたスライムをペロリと舐めた。

「……確保、完了……」

イータが机の下から出てきた。

「ガンマ……ナイスキャッチ……。でも……焼却炉は……火、入ってないよ……?」

「えっ」

「……ただの……ゴミ箱……」

ガンマの顔が引きつった。

命がけのスライディングは、徒労だったのか。

「……それに……部屋……ぐちゃぐちゃ……」

イータが周囲を指差す。

研究室は半壊していた。

重要書類はスライムで濡れ、機材はショートして火花を散らしている。

「あ、あはは……。やってしまいましたわ……」

ガンマは力なく笑った。

これの修繕費と、失われたデータの復旧にかかる労力を計算し、彼女は意識を失いかけた。

その時。

ガンマの懐で、通信機が震えた。

『――こちらアルファ。地下で大きな魔力反応を感知したわ。……まさか、またイータが爆発させたの?』

第一席、アルファからの通信。

絶対零度の声。

ガンマとイータは顔を見合わせた。

この惨状を見られたら、数時間は説教コース確定だ。

「……イータ。言い訳を考えますわよ」

「……ん。共犯……」

「違います! これは全て、貴女の猫が……!」

「……ベアトリクスがくれた猫……。つまり……ベアトリクスのせい……」

「……!!」

ガンマの頭脳が閃いた。

そうだ。これは不可抗力だ。

あの武神様の贈り物なのだから、多少のトラブルは付き物。

むしろ、この猫の性能テストを行ったということにすれば――!

「アルファ様! ご報告があります! ベアトリクス様より賜った古代の遺産が、予想外の活性化を……!」

ガンマは必死の形相で通信機に向かって弁明を始めた。

イータは我関せずと、カツオを拾ってミケネコに与えている。

「……よしよし。……いいデータ取れた……。次は……ロケットエンジン搭載してみよう……」

「にゃあ!」

ミケネコは嬉しそうにカツオに齧り付いた。

 

アレクサンドリアの地下深くに位置する、七陰第七席イータの研究室。

そこは、先日ミツゴシ商会会長ガンマが盛大に転倒し、古代の猫とスライムまみれになった惨劇の舞台である。

今は嵐の後の静けさ――ではなく、新たな嵐の予兆に包まれていた。

「くんくん……。知らない匂い」

研究室の重い鉄扉を鼻先でこじ開け、入ってきたのは獣人の少女、デルタ。

彼女は鼻をヒクヒクさせ、不機嫌そうに喉を鳴らしている。

「ボスの匂いじゃない。……ボスその2の匂いでもない。……なんか、古くて、強そうな匂い!」

デルタの縄張り意識(テリトリー・インスティンクト)が警鐘を鳴らしていた。

この組織における「犬(狼)」のポジションは自分だ。

だが、この地下から漂ってくる気配は、自分以外の「獣」の存在を主張している。

しかも、生意気なことに、自分と同格か、あるいはそれ以上のプレッシャーを放っているのだ。

「デルタ、許さない。……噛み殺す!」

彼女は四つん這いになり、瓦礫の山(研究室)へと侵入した。

部屋の奥。

主(イータ)が眠るデスクの上。

一番高い場所にある高級オフィスチェア(ガンマからの寄贈品)の上に、その「敵」はいた。

白、黒、茶の三色が混じり合う毛並み。

二又に分かれた尻尾。

そして、眼下の侵入者を、王者の如き悠然とした態度で見下ろす金色の瞳。

サンプルM――古代種ミケネコである。

「……にゃあ」

ミケネコは、デルタを見ても動じなかった。

それどころか、「あ、また下等なのが来た」と言わんばかりに大あくびをした。

カチッ。

デルタの脳内で何かが切れた。

「……がるるる……」

デルタの全身の毛が逆立つ。

漆黒の魔力が膨れ上がり、スライムスーツが戦闘形態へと変形していく。

巨大な剣を形成し、牙を剥き出しにする。

「ちっこいの! そこはデルタが座る場所! 降りろ!」

対するミケネコは、ゆっくりと立ち上がった。

背中を弓なりに反らせ、全身の毛を逆立てる。

その体積が倍に膨れ上がったように見える。

そして、口を大きく開け、二千年の時を超えた威嚇音を発した。

「ふしゃーーーーーーっ!!!」

ただの威嚇ではない。

衝撃波(ソニックブーム)を伴う咆哮。

ビリビリと空気が震え、散乱していた書類が舞い上がる。

「……ん。……うるさい……」

デスクの下から、イータがのっそりと顔を出した。

彼女は手に持っていた計測器を構え、興味なさげに――しかし目は爛々と輝かせて――言った。

「……戦闘実験……開始……。データ取るから……本気でやって……」

それが、ゴングだった。

「狩るッ!!」

デルタが床を蹴った。

コンクリートが砕け、黒い弾丸となってミケネコに殺到する。

単純な速度なら音速を超える。

その勢いのまま、椅子ごとミケネコを叩き潰す――!

ドガァァァン!!

椅子が粉砕された。

木片と綿が飛び散る。

だが、そこに猫の手応えはない。

「あう?」

デルタが顔を上げる。

ミケネコは、空中にいた。

デルタが飛び掛かる寸前、その頭を踏み台にしてさらに高く跳躍していたのだ。

「にゃっ!」

ミケネコは天井の配管に着地し、そこからデルタを見下ろして「ニヤリ」と笑った(ように見えた)。

「舐めるなぁっ!」

デルタは壁を蹴り、三角飛びで配管へ迫る。

立体的機動なら、獣人の独壇場だ。

彼女は爪を伸ばし、配管ごとミケネコを引き裂こうとする。

だが、ミケネコの動きは「生物」の枠を超えていた。

フッ。

ミケネコの体が、液状化するように変形した。

デルタの爪が、猫の体をすり抜ける。

いや、避けたのではない。

猫の体がスライムのように不定形になり、爪の隙間をぬるりと通り抜けたのだ。

「えっ!?」

「……ん。スライム適性……Sランク……。物理無効化……」

イータが実況する。

先日、スライム培養槽に落ちた事故。

あれは事故ではなかった。

この古代種は、あの瞬間にスライムの特性を取り込み、自らのDNAに組み込んで進化したのだ。

ベアトリクスが言った「魔人は何でもあり」という特性が、このペットにも遺伝しているかのように。

「ふしゃっ!」

液状化したミケネコが、デルタの背後に回り込み、実体化する。

そして、その尻尾――二又に分かれた先端が、鋼鉄のように硬質化し、鞭となってしなった。

バチンッ!!

「あぎゃっ!!」

デルタの後頭部に、強烈な一撃が入る。

ただの打撃ではない。魔力を浸透させる、内部破壊の一撃。

デルタは空中でバランスを崩し、顔面から床にダイブした。

ズザーッ!

「い、痛い……! デルタ、痛いの嫌い!」

デルタは涙目で起き上がった。

タンコブができている。

あのちっこい猫の、どこにそんなパワーが?

「……がるるるる……!! 本気出す! デルタ、もう手加減しない!」

デルタの瞳が赤く染まる。

「鉄塊」モード。

魔力を筋肉とスライムスーツに過剰供給し、防御力と重量を極限まで高める。

戦車すら正面から粉砕する、彼女の奥義に近い形態。

「ペちゃんこにする!」

デルタが突進する。

今度は速さではない。質量による圧殺だ。

部屋中の空気を押し出しながら、暴走機関車のように迫る。

対するミケネコは、逃げなかった。

その場に座り込み、前足を舐めている。

「……あいつ……死んだな……」

イータが呟く。

どちらが、とは言わずに。

デルタの巨大な剣が、ミケネコを捉える――寸前。

「にゃ〜ん」

ミケネコが、可愛らしく鳴いた。

そして、前足をチョイと出した。

それだけだった。

だが、その前足には、ベアトリクス直伝の「因果崩し」の魔力――の真似事――が込められていた。

デルタの全力突進のエネルギーベクトルを、ほんの少しだけ「ズラした」のだ。

ツルッ。

「え?」

デルタの足元が、何もない場所で滑った。

彼女が自分で踏み込んだ力が、そのまま回転力へと変換される。

グルンッ、グルンッ、ドッゴォォォォン!!!

デルタは自らの勢いできりもみ回転し、そのまま研究室の壁(強化装甲板入り)に激突。

さらに跳ね返って天井に激突し、最後に床にめり込んだ。

自爆。

いや、合気道の極致のようなカウンター。

「……うぅ……目が回る……」

デルタは床の大穴の中で、目を回して伸びていた。

完敗である。

力、速度、そして技。

全てにおいて、この古代猫が一枚上手(うわて)だった。

ミケネコは、トコトコとデルタの頭の上に歩み寄った。

そして、その頭頂部に座り込み、勝鬨(かちどき)を上げた。

「にゃあ!」

「……勝者……サンプルM……」

イータが冷静に判定を下した。

「……デルタ……。脳筋じゃ……古代の知恵には勝てない……」

イータは倒れているデルタに近づき、ツンツンとつついた。

「……デルタ……生きてる……?」

「うぅ……。デルタ……負けた……?」

デルタがよろよろと起き上がる。

頭の上には、まだミケネコが乗っている。

だが、不思議と重くない。

ミケネコは、デルタの髪の毛を毛づくろいし始めた。

「……?」

デルタは、頭上の猫を恐る恐る触った。

フワフワだ。

そして、強い。

自分を負かした相手。

獣の掟は絶対だ。

強い者は偉い。

勝った者はボスだ。

「……お前、強い」

デルタが認めると、ミケネコは「にゃっ(当然だ)」と短く鳴き、デルタの頬をペロリと舐めた。

「……仲間?」

「にゃあ」

「そっか! 仲間か!」

デルタの顔がパッと明るくなった。

単純である。

彼女の中で、ミケネコのランクが「餌」から「強いボス(小)」へと昇格したのだ。

「じゃあ、一緒に狩りに行く! デルタと、お前で、最強!」

デルタはミケネコを頭に乗せたまま、立ち上がった。

ミケネコも、デルタの上が気に入ったのか、喉をゴロゴロ鳴らして鎮座している。

「……ん。……最強のコンビ……誕生……?」

イータは、破壊された研究室の惨状を記録しつつ、この奇妙な友情(主従関係?)を見守ることにした。

「……ただし……部屋の修理代は……デルタの給料から天引き……」

「えーっ!? デルタ、お金ない!」

「……じゃあ……体で払って……。実験体100回……」

「やだー! 逃げるー!」

デルタはミケネコを乗せたまま、脱兎のごとく研究室から逃げ出した。

頭上のミケネコが、器用にバランスを取りながら「にゃはは」と笑っているように見えた。

                 *

その日の午後。

アレクサンドリアの廊下で、奇妙な光景が目撃された。

頭の上に三毛猫を乗せたデルタが、嬉々として走り回っている姿だ。

猫は時折、デルタに指示を出すように尻尾を動かし、デルタはその通りに動く。

まるで、熟練の騎手(猫)と名馬(狼)のように。

その様子を、物陰からこっそり見ていたベアトリクスは、満足げにハンバーガーを齧った。

「ふふ。……仲良くなったみたいだね」

彼女のあげた「ペット」は、どうやらシャドウガーデンという魔窟に見事に適応したらしい。

その適応力とふてぶてしさこそが、古代種が生き残った理由なのだろう。

 

 

 

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