朝。
東条はスーツに身を包み(エルマに買ってもらった)
水筒とお昼の弁当が入ったビジネスバッグを持って(エルマが買った)
会社への道を歩いていた。
隣にはエルマが並んで歩いており、その両腕には、先ほどコンビニで購入したパンやおにぎりが山のように抱えられている。
「やっぱり、朝からしっかり食べないとな!
東条君はもう食べないのか?」
「はい。僕はおにぎり二個で十分です」
正直全然足りないが、これ以上お世話になると罪悪感で死んでしまいそうだった。
パクパクとご機嫌そうに朝食を平らげるエルマを横目に、東条は内心でこれから向かう職場について考えていた。
——妙な気分だ。
確かに自分が勤めていた会社のはずなのに、
今の自分にとっては今日が初出社だった。
いや、正確には二度目の初出社。
正直、気は進まない。
だが、働かなければならない。
すでに服代も、食事代も、エルマに世話になっているのだから。
少しでも返していかなければ。
「もふふ?もももふふ?」
「エルマさん、行儀悪いですよ。食べるか喋るかのどちらかにしてください」
「モグモグモグモグ」
(食べるんだ……)
自分で言っといてなんだが、この選択肢で話すのを止めるタイプは珍しいのではないか?
「………」
「モグモグモグモグ」
無言で歩みを進める二人。
エルマの朝ごはんは順調に減っていき、完全に無くなる頃にはすでに会社の前まで着いていた。
「モグモグモグ……ごくん。なんだ?緊張しているのか?」
「え?………あ、さっき言ってた言葉それだったんですね」
突拍子のない話題かと思ったが、どうやら律儀に食べきってから話す事にしたらしい。
ラグがありすぎてフリーズしてしまった。
「ええ、まあ。記憶どころか戸籍もないので……バレたらと思うと少し怖いですね」
「なんだ!そんなことか!」
少し険しい表情で告げる東条に、エルマは『ドン!』と胸を叩いてみせた。
——たおやかな胸が大きく揺れる。
「任せてくれ!
周囲に違和感を持たれないよう、この私が完璧に立ち回ってみせよう!!」
なんて心強い言葉。その立ち姿からは自信が漲って見える。
「はい。よろしくお願いします」
きっと、この人に任せておけば大丈夫だ。
東条は強く確信していた。
・
・
・
「皆さんっ!おはようございます!」
フロアにエルマの元気な声が響く。
「はよーございます」
「おはよう、エルマちゃん」
「風邪はもう大丈夫なの?」
次々に返される挨拶。
その流れの中で、東条も口を開いた。
「おはようございます」
すると、近くにいた男性社員が気づいたように声をかける。
「お、東条君も復活したんだね。
体調不良だったんだって? 新人のうちは無理は——」
「仗助君には——!!」
唐突に、エルマが割り込んだ。
「何も!問題は!ありません!!」
東条を背に庇い、両手を広げる。
フロアが、しん、と静まり返る。
「え、あ、うん……」
男性社員は戸惑いながら頷いた。
その様子を、小林と滝谷は遠目に見て、同時に顔を覆っていた。
「あちゃー……」
周囲が沈黙する。
それはもう、見事なほどに鎮まりかえっている。
東条は内心冷や汗を流した。
(なぜこのタイミングでそんな宣言を……!?
全員が“何かあったのか”という目で見ている……!
さっき話しかけてくれた人なんて、ずっとこっちを凝視している……!)
ジロジロと観察されるような視線を感じつつ、それでもエルマは一仕事終えたように満足げな様子だった。
「……エルマさん。この後はどうすれば?」
小声で尋ねると、エルマは自信満々に答える。
「うむ。ここまで完璧だ。
仗助君は何の憂いもなく、仕事に励むといい」
「なるほど……」
——東条は、考えるのをやめた。
…………
小林は、遠目に二人の様子を見ながら頭を抱えていた。
「エルマ……!」
あまりの嘘の下手さ。
実直を素で生きるエルマに、こういった事を求めるのは酷というものか。
すると、滝谷が苦笑を浮かべながら近寄ってきた。
「まあ、こうなる気もしてたけどね」
滝谷は小林の側に立ちつつ、エルマと東条の方を見る。
エルマは自信満々と言った様子でキリッとしており、東条の方は無表情で、俯き過ぎて影が差し目元が見えない。
「どうしようか、小林さん?」
そう滝谷が尋ねると、小林は二人から視線を逸らし外を見た。
窓から見える景色は晴れ渡っていて、とても綺麗だ。
「……エルマ、頑張ってるよね」
「小林さん?」
「……」
小林は少し黙り、やがて口を開いた。
「正直ね、エルマが東条君を引き取るって言った時、意外だって思った」
頬杖をつき、視線を二人に戻す。
「エルマって、誰にでも心を許すタイプじゃない。
同居なんて、相当だよ」
「……確かに、そうだね。いつでと明るくて元気だけど、どこか一線を引いている感じはあるかもしれないね」
小林の言葉に滝谷も同意する。
「でもさ」
小林は続ける。
「トールが私と住むことを決めたみたいに、
ファフっさんが滝谷君と暮らしてるみたいに、
エルマにも、そういう存在が出来るのかなって」
それはきっと――
「嬉しいことだよ」
そう話す小林の口元は、わずかに緩んでいた。
小林の言葉に、滝谷も同意するように頷く。
「………うん、そうだね」
滝谷の視線の先では、未だ暴走が止まらないエルマを押し除けるように東条が弁明をしていた。
そして、前に出た東条を守るように、エルマが更に前に出ようとしている。
「……で、どうするの?」
「……………」
なんだかわちゃわちゃとしている二人を見て、小林は溜息を吐いた。
「………いよいよってなったら、私がフォローに入るよ」
諦めたようにそう告げる小林は、最悪、仕事を後回しにして付きっきりになる覚悟までしていた。
だが、その覚悟は――
小林の予想とは少し違う形で試されることになる。
・
・
・
「東条く〜ん、風邪引いてたの?
大丈夫??」
「大変だったよね?
良かったら私が色々教えてあげようか?」
「資料、私がまとめといたよ」
「コーヒーいる?」
「ちょっと?今私が話してるんだけど?」
「あ、いたんですか。
でも、もう用はないでしょ?
早く業務に戻ってくださ〜い」
「は?」
「あ?」
気づけば東条は、二人の女性社員に挟まれていた。
その様子を、周囲の社員がそっと見ている。
「………隣の部署の明美ちゃん」
「………経理の佳澄ちゃん」
心底ショックを受けている者もいるなかで、騒ぎを聞きつけて様子を見にくる社員も多数いた。
「なにあれ?」
「え、何の騒ぎ?」
「どうやら、一人の男を巡って女同士の闘いが始まってるみたいよ?」
「え!?なにそれ面白そう!
どの人どの人??」
「ほら、真ん中に座ってるあの子」
「あ〜、たしかに、なんかいい感じの人ね。
なんか、凛々しいっていうか……凄味を感じるわ」
「婚活歴5年のこの私が……いい男をノーマークだった?」
「なんて人だっけ?」
「ほら、今年の新入社員の、確か……東条って人よ」
「……あれ?東条?
前見た時と全然印象が違うような……」
「そうね……イメチェンかしら?」
ヒソヒソと人々の話し声が響く。
そして――
タンッ。
キーボードを叩く音が、妙に大きく響いた。
東条は視線を上げないまま言う。
「すみません。少し集中したいのですが」
一瞬。
空気が止まる。
そして――
「「キャ〜!!カッコイイ〜!!」」
周囲が、沸いた。
少し離れた場所で、男性社員が呟く。
「……あいつ、前からあんなだったか?」
「いや、違う。絶対違う」
騒ぎは更に大勢の人を呼び、フロアは人でいっぱいになった。
「「………」」
その様子を、呆然と眺める小林と滝谷。
「………どうしてこうなった?」
「これは……想定外だね……」
小林は頬を引き攣らせ、滝谷はいつもの微笑み顔が維持できていない。
「いやぁ……確かにカッコ良くはあるけど……
急にあんな事になるかね?」
「え!?」
小林の言葉に、滝谷は驚きのあまり声をあげてしまった。
「何にそんなに驚いてるの?」
「あ、いや……小林さんって東条君みたいな人がタイプだったりするの?」
滝谷の言葉に、小林は、ジトッとした視線を向ける。
「すぐそういう方向に持ってく……。
悪魔でも、客観的事実ね。
私、もうその辺の感情枯れてるから」
「あ、いや、あはは……」
(まだ枯れるには早いと思うけど……)
内心思ったことを飲み込み、滝谷は隣のエルマに目を向ける。
「エルマちゃんはどう思――あれ?」
先程までいたエルマがいない。
どこに行ったのかと周囲を見回す。
「待て!!
仗助君が困っているじゃないか!!
それに今は勤務中だ。自分の業務に戻るんだ!!」
東条と女性社員達の間に、エルマが割って入っていた。
(エルマちゃーん!?)
声を出すわけにもいかず、滝谷は内心で叫んだ。
「はあ?なによアンタ」
「急に入ってこないでもらえますか?」
「いや!そういうわけにもいかない!
私は仗助君の直属の先輩だ!」
「仗助……君……名前呼び……!?」
「そういう事………あなたもお邪魔虫みたいですね……!!」
乱入してきたエルマを即座に敵認定する二人の女性社員。
それを見ていた周囲は更に騒ついた。
「まさかっ!?上井さんまで!?」
※エルマの名字
「あの色気より食い気の上井さんが……!!」
「そんな……俺ちょっと狙ってたのに……!!」
「いや、お前じゃ無理だろ」
「は?お前の方が無理だろ」
「あ?」
「は?」
東条とは無関係に言い争いが増していく。
すでに、事態は収集出来ないところまで来ていた。
「ああ、もうどうすれば……!!」
小林は頭を抱えた。
「小林さん、止めることは出来ない?」
「痴情のもつれとか、触れるだけで蕁麻疹でるよ、私は!?」
「そんなに嫌なんだね!?」
どんどんと騒ぎを増していく現場。
もうどうにも出来ないと思われたその時。
「なんの騒ぎかな?」
静かな声がフロアに響いた。
「「「「せ、専務?!!」」」」
温和な顔立ちだが、どこか気品がある壮年の男。
専務と呼ばれたその男は、ゆったりとした足取りで騒ぎの中心に近付く。
「君達、他部署の子だね?
さあ、自分の持ち場に戻りなさい」
「あ、いや、ちょっと通りがかっただけで……」
「わ、私はこの書類を渡しに……」
「いいね?」
「「はい!」」
有無を言わさない圧力で話す専務に、女性社員二人はそそくさと去って行った。
それにより、野次馬として集っていた人達も自分の持ち場に戻っていく。
次に専務は小林を見た。
「小林さん」
「はいっ!!」
呼ばれた小林はビシッと立ち上がった。
「本来、こういった騒ぎを収めるのは君の仕事だよ?」
「はい、この度はお手間を取らせてしまい誠に申し訳ありません。
上司としてそぐわない行動をしてしまったと深く反省しております。
今後は事前に対策を打ち、2度と同じような事が起こらないよう努めて参ります。この度は誠に申し訳ありませんでした」
「うん、気をつけてね」
小林の謝罪にコクリと頷く専務。
滝谷は思わず唾を飲み込んだ。
(なんて早くて長い謝罪文……!)
危うく『俺じゃなきゃ見逃しちゃうね』が出そうになる滝谷。
そうして、専務は最後に東条を見た。
「君、ちょっと話があるから、この後私の部屋に来なさい」
「え!?」
その言葉に最初に反応したのはエルマだった。
「お、お待ちください専務!
今回の件、東条君に非はなくて……」
「別に責めるつもりじゃないよ。
ただ、詳しい話を聞きたいだけだからね。
小林さん、少し借りるけどいいかな?」
「……はい、大丈夫です」
専務はニッコリとした笑顔のまま東条を振り返る。
「……はい、承知しました」
…………
通された専務室は、外の喧騒とは別世界のように静まり返っていた。
重厚な木製の棚には整然とファイルが並び、机は艶やかに磨かれている。
床には塵一つなく、空気すら澄んでいるようだった。
「まあ、とりあえず掛けてくれ」
「失礼いたします」
東条は一礼し、静かに腰を下ろす。
専務は向かいに座り、指を組んだ。
「そんなに緊張しなくていい。さっきも言った通り、責めるつもりはないからね」
穏やかな声。
だが視線は、どこか観察するようで底知れない。
「さて……初めまして、になるのかな」
専務は変わらずニコニコとした表情で口を開く。
「私の名前は真ヶ土。先日は息子がお世話になったようだね」
「真ヶ土…………!」
「そうだよ」
専務は表情一つ変えず、東条の言葉に頷いた。
「私は翔太の父親で、私も“魔法使い”だ」
思わぬカミングアウトに目を見開く東条。
すぐさま立ち上がり頭を下げる。
「先日は息子さんに大変お世話になりました」
「いいよいいよ。大した手助けも出来なかったと言っていたからね」
手を振り納めようとする専務。東条はズイッと一歩前に出た。
「それでも」
東条はまっすぐに、相手の目を見ながら伝える。
「彼は自分のために手を尽くしてくれました。改めて感謝を」
「………」
空気が、ほんの少しだけ変わった。
「ふふふ、どうやら、君は変人で、その上頑固なようだね」
「はい……?」
「ふふふふ」
愉快そうに笑う専務。東条は困惑する一方であった。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
改めて、専務が東条を見つめる。
「君の今後について」
「今後……ですか」
——ゴクリ、と喉が鳴る。
もしや、自分が全て嘘で塗り固められた、『経歴無し男』である事がバレているのだろうか。
「そうだよ」
「!?!?!?」
(思考が読まれた!?)
東条は思わず席を立って後退りしてしまう。
「ふふふ、済まない。ついからかってしまった」
専務はそう言うと、懐から一枚の書類を取り出した。
「つい先日、書類の不正に気付いてね。今回呼び出したのはこの件なんだよ」
つまるところ、最初から全て知っていて、その上でこちらを揶揄ったようだ。
「…………」
苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる東条に、専務は変わらない微笑み顔で言う。
「安心してくれていい。上手く握りつぶして修正しておくよ、少々脚色が多いようだからね」
「え?」
その言葉に、東条は驚きを隠せなかった。
「意外かい?」
「……はい。正直、良くてクビ、最悪牢屋行きだと思っていました」
「それも無くはなかったんだけどね」
ビクッ、と東条の身が震える。
その姿に、専務は再度「ふふふ」と笑った。
「話せて良かった。今後も、息子と仲良くしてあげて欲しい」
「は、はあ……」
出ていいよ、と話を切り上げられた東条は、何が何だかよく分からないまま扉へ向かった。
そしてドアノブに手をかけたところで、ふと思い立ったように振り返る。
「……もしかして、ずっと様子を見てらしたのも、何かのテストだったのですか?」
「!」
微笑み顔を維持していた専務の表情に、ほんの僅かな変化が走った。
「……いつから気付いていたんだい?」
「え……?朝からいらっしゃいましたよね?確か、コンビニを出たあたりから」
「……」
一拍ほどの間。
そして、専務は静かに笑った。
・
・
・
「失礼しました」
扉が閉まる。
一人になった部屋に静寂が満ちる。
専務は立ち上がり、ガラス張りの窓の前へ歩み寄った。
「記憶がなくても観察眼は本物、か。面白い男だ。が……」
街を見下ろしながら、小さく呟いた。
「これほど接近しても、未来は見通せない、か」
専務は片手で自身の片目を覆う。
これまで、あらゆる過去と未来を見通してきた目が、東条が現れた日から何も見えなくなった。
疑問は残る。懸念は大きい。
だが、これ以上は何も出来ない。
観察者は深入りしてはいけないのだ。
後の事は息子と、頼りになる
「そこから先は『神のみぞ知る』かな」
それだけを残し、専務は仕事へと戻った。