翌日。
エルマは、オフィスの柱の陰からこっそりと東条を見ていた。
(……怪しい)
昨日からずっと、その感覚が消えない。
一応、エルマは自分が体験した出来事や、
東条への不信感について、周囲にもきちんと相談した。
だが、事情を話したところ、小林は少し考え込んだあと、
いつもの穏やかな笑みを浮かべて、こう言ったのだ。
『大丈夫だと思うよ』
拍子抜けするほど、あっさりと。
『むしろ、エルマとは気が合うかもしれないね』
その言葉に、エルマは思わず聞き返した。
『……どういう意味ですか?』
『うーん』
小林は、言葉を選ぶように視線を上げる。
『真面目で、融通がきかなくて、でも放っておけないところがある』
一拍置いて、くすりと笑う。
『……ちょっと、似てるかなって』
『……』
エルマは黙り込んだ。
「似ている」という評価が、妙に胸に引っかかったからだ。
次に、滝谷にも聞いた。
『滝谷先輩はどう思う? あの新人』
滝谷は、いつもの調子で肩をすくめる。
『うーん……正直、怪しい人物なのは間違いないね。僕も奇妙な体験してるし』
(やっぱり!)
そう思ったのも束の間、滝谷は続けた。
『でもさ』
パソコン画面から目を離し、エルマに笑いかける。
『小林さんがそう言うなら、大丈夫なのかもね』
『それだけ?』
『それだけ』
即答だった。
『小林さん、こういう勘は外さないし』
その言葉に、エルマは何も言い返せなかった。
小林の勘が当たることを、エルマ自身もよく知っている。
(……それでも)
納得は、できなかった。
だから今、こうして柱の陰から東条を見ている。
彼は今日も、特別なことは何もしていない。
誰かに頼まれれば素直に応じ、
分からないことがあればきちんと質問し、
自分の仕事が終われば、周囲に目を配る。
(……本当に、何もない)
それが、エルマには逆に不安だった。
(隠しているわけじゃない……のか?)
嘘をついている感じもしない。
誤魔化している様子もない。
こっそり解析魔法をかけてみたが――
結果は、ドラゴンであるどころか、
魔力すらもない、本当にただの人間だった。
(……え?)
思わず、目を瞬かせる。
何をやっても、核心に触れられない。
(なんなのだ、東条仗助……)
エルマは腕を組み、じっと視線を向ける。
(……小林さんの言う通り、なのか?)
そんな考えが、わずかに頭をよぎった。
エルマは、慌てて首を振る。
だめだ。
油断するな。
私が人間さん達を守るのだ。
これは、そのための当然の警戒。
そう考えて、エルマは東条を監視し続けた。
――その一方で。
その光景をオフィスにいた社員たちは、ひそひそと不思議そうに眺めていた。
(エルマさん……何してるんだろ?)
(柱の影から、新人くん見てる……?)
(え、あのエルマちゃんが睨んでる??)
(もしかして……エルマちゃんのおやつ、新人くんが食べちゃったとか?)
視線は控えめだが、確実に集まっている。
張り詰めた空気――というより、
「触れていいのか分からないものを、そっと見守っている空気」だった。
その様子に気づいた滝谷は、小林の方をちらりと見る。
「……小林さん」
「うん?」
「エルマちゃん、このまま放っておいて大丈夫かな……?」
小林は、柱の陰で微動だにせず東条を見つめるエルマを一瞥し、少しだけ考え込んだ。
「うーん……様子見でいいかな、とは思ってたんだけど」
そう言いながら、苦笑する。
「あれは……さすがに目立つね」
「だよね……業務に影響が出る前に、一言だけ注意しようか」
二人が席を立ち、エルマに近づいていく。
それを見て、周囲の社員たちはどこかほっとした表情になり――
一方でエルマは、顔を真っ赤にして謝罪することになった。
………
(うう……失敗してしまった……)
注意を受けたエルマは、自席に戻ると、しょんぼりと項垂れた。
(完全に、やりすぎた……)
ちらりと周囲を見ると、
社員たちは皆、何事もなかったかのように、それぞれの作業に戻っている。
(……恥ずかしい)
胸の奥に、じわじわと熱が溜まっていく。
それでも。
エルマは、こっそりと――
今度は“普通に”、東条の方を見た。
彼は特に気にした様子もなく、
先ほどまでと変わらず、黙々と作業を続けている。
(……本当に、問題ないのだろうか)
疑念は、まだ消えない。
だが同時に、
(……私、ちょっと必死すぎただろうか)
そんな思いも、ほんのわずかに芽生え始めていた。
………
そうしてやってきた、昼休み。
エルマは、一人で会社を出ていた。
(……気分転換が必要だ)
午前中の出来事が、思った以上に堪えていた。
柱の陰から睨んでいたこと。
皆に見られていたこと。
そして――注意されたこと。
(私は、何をやっているのだ……)
そんな自己嫌悪を振り払うように、エルマは歩く。
目的地は、会社から少し離れた定食屋。
安くて量が多く、味も良い。
エルマのお気に入りの店だった。
(今日は……唐揚げ定食にしよう)
そう決めて、店に入った瞬間。
「!?」
店の中に、
昨日からエルマの頭を占領している張本人がいた。
(東条仗助!?)
エルマは思わず入口で急停止し、
次の瞬間には反射的に両手を構え、
ファイティングポーズを取っていた。
(なんでここに!?
まさか――先回りからの待ち伏せかっ!!)
一瞬、空気が張り詰める。
「…………」
――だが。
待てど暮らせど、何も起きない。
(…………いや、昼ごはん、だな。普通に考えて)
あまりに当たり前の結論に行き着き、肩の力が一気に抜けた。
気づけば、周囲の客や通行人が
こちらをちらちらと、不思議そうに見ている。
(……恥ずかしい)
顔に熱が集まっているのが分かる。
下唇を噛んで、必死に羞恥心を押し殺す。
……だが。
ふと、別の考えが浮かんだ。
(これは……チャンスではないか?)
監視対象と同じ場所にいるのは、むしろ合理的だ。
怪しい行動があれば、すぐに分かる。
(探りを入れてやる……!)
そう自分に言い聞かせてから、
エルマは不自然なほど明るい声を作って、東条に声をかけた。
「や、やあ! 東条君!
君も、ここでお昼ごはんなんだな!」
結果として――
エルマは、まんまと東条と同じテーブルに着くことになった。
・
・
・
じゅう、と。
油がはぜる音が聞こえてくる。
鼻先を、香ばしい匂いがくすぐった。
――揚げ油。
――醤油と生姜。
――衣の焦げる、抗いがたい香り。
口の中に、まだ何も入っていないはずなのに、
唾液だけが勝手に増えていく。
「ふわわわ〜……!!」
視線が、勝手に厨房の方へと吸い寄せられる。
(ち、違う……今は東条君を――)
ぐぅ。
腹の奥から、はっきりとした音が鳴った。
(……っ!?)
エルマは慌ててお腹を押さえる。
(ち、違うのだ!
これは偶然!
身体的反応であって、私の意思では――)
「唐揚げ定食一丁ー!」
どんっ、と音を立てて置かれた、大盛りの唐揚げ。
「………」
エルマの思考は、完全に停止した。
目的も。
警戒も。
使命も。
すべて、黄金色の塊の前で消し飛んだ。
………
「…………」
東条仗助は、目の前で唐揚げを幸せそうに頬張る先輩を見ながら、
ずっと考えていた。
――この人は、一体何がしたかったのだろうか。
朝から、妙に視線を感じていた。
隠れているつもりだったのだろうが、
正直かなり分かりやすかった。
監視、だと思う。
ただ――
それにしては、やることがよく分からない。
今はもう、完全に唐揚げに夢中で……いや。
東条は気づいた。
唐揚げではない。
自分の定食――エビフライに、視線が吸い寄せられている。
東条は一度だけ、エルマをちらりと見た。
「……よかったら」
声は、自然と低くなる。
「一尾、食べますか?」
エルマの肩が、びくっと跳ねた。
「……え?」
こちらを見つめるその目は、
今朝までの警戒心とはまるで違う。
子供みたいに、まっすぐで。
欲望に正直だった。
東条は、自分の定食を少しだけ彼女の方へ寄せる。
「量、思ったより多くて……」
一拍置いて。
「手伝ってもらえると、助かります」
「…………」
エルマは、エビフライと東条を交互に見て。
「い、いいのかぁっ!?」
ぱっと、顔が明るくなる。
(……分かりやすい人だ)
東条は小さく息を吐き、
自分の分を食べ始めた。
(まあ、悪い人ではなさそうだ)
――それに
(この人は敵じゃないだろう)
東条仗助の足元に、
もうひとつの影が、静かに重なっていた。
(これが、見えていないのだから)
それは人の輪郭を持ち、
一人の男の姿を形作る影。
テンガロンハットを被った、
成人男性ほどの体躯。
直立した姿勢は微動だにせず、
肩幅は広く、無駄のない均整が取れている。
外套のような衣服に包まれたその姿は、
風にも、光にも揺らがない。
まるで、
この場そのものに縫い付けられているかのように。
――スタンド。
人の精神が形を持ったもの。
立ち向かう者。
それはまだ、
誰にも認識されていない力。
ただ静かに、
エルマの向かいに座る男の背後に立ち続けていた。