小林はチラリと時計を見た。
定時まであと数時間。
『仗助君、何か困ってることはないか?』
昼を回ったというのにこの調子では今日も残業になりそうだ。
『ここ、確認していただきたいのですが』
今日は早く帰りたかったが、仕方ない。
『ほう、もう出来たのか!どれどれ?』
――いや、それはそうとしてうるさいな
小林は自分のデスクから少し離れた場所に視線をやった。
そこにいるのは、エルマと東条だった。
昨日までのエルマの様子を知っている身としては、
思わず二度見してしまうような光景だ。
「うむ! よく出来ているぞ! 流石だな、仗助君っ!!」
エルマは満足そうに胸を張り、何度も大きく頷いている。
「ありがとうございます」
東条は素直に礼を返した。
「今朝渡した業務はどうだ? 難しくなかったか?」
「はい、問題なく完了出来そうです」
「そうか! では何か他に困ったことはないか?
分からないところがあれば、なんでも聞いてくれていいぞ!」
「ありがとうございます。今のところは大丈夫です」
……いや。
あれは仲がいいというより、
ほとんどエルマが後輩にダル絡みしている。
小林がそんなことを考えていると、横から声をかけられた。
「小林さん」
振り向くと、少し不思議そうな顔をした滝谷が立っていた。
「エルマちゃん、完全に懐いてるね。
あれも読み通り?」
「いやいやいや」
小林は苦笑いしながら、軽く手を振る。
「さすがに、たった一日でああなるとは思ってなかったよ」
昼休みから戻ってきて以降、
エルマはずっとあの調子だった。
東条の作業を覗き込み、
成果が出るたびに褒めて、
気づけば横に立って何かと世話を焼いている。
「東条君もすごいよね」
滝谷はしみじみと言った。
「あんなに睨まれてたのに、
全然気にした素振りもない」
「確かに、ね」
小林も同意するように肩をすくめる。
業務を通じて少しずつ会話を重ね、
一週間か一ヶ月ほどかけて打ち解ければいいと思っていた。
それが――
(……思った以上に素直だなぁ、エルマ)
小林は心の中で、そう呟いた。
ほんの数時間前まで、
柱の陰から新人を監視していたとは思えない。
今では同じデスクを挟んで並び、
当たり前のように仕事のやり取りをしている。
エルマの表情は柔らかく、
あの時の張り詰めた警戒心は、もうほとんど見当たらなかった。
「ふむ……」
小林はコーヒーを一口飲みながら、考える。
(きっかけは……やっぱり“食事”かな)
エルマは分かりやすい。
理屈よりも、体験で人を判断するタイプだ。
そして――
東条の方も、エルマが話しかけるたびに、
必ず手を止めて、きちんと目を向けている。
相槌は雑じゃない。
分からないところは、曖昧にせず聞き返す。
(……誠実なんだなぁ)
小林は、そんな評価を胸の内にそっと置いた。
この空気は、悪くない。
少なくとも――
今は、そう思えた。
……………
厄介事になるかと思われたが、結局は何事もなく。
世話の焼ける後輩たちを横目に、本日分の業務もなんとか終わらせた。
小林は満身創痍で帰路に着いていた。
「ふひ〜……今日も疲れたぁ……」
本来ならこのまま飲みに行きたいところだが、今日は同居人が腕によりをかけて料理をして待っている。
いくら酒好きな小林と言えど、それを無下にすることは出来なかった。
「はぁ〜〜……酒飲みたい。
クソ会社め……」
そんな中年のおっさんのようなため息を吐きながら、
自宅のドアノブに手をかける。
「おかえりなさい小林さぁぁぁん!!」
次の瞬間、勢いよく飛びついてくる影。
「わっ、ちょっとトール、重い重い」
「失礼ですね! これは愛の重さです!!」
いつものやり取りをしながら靴を脱ぐ。
「ご飯にしますか? お風呂にしますか?
それとも……トー――」
「ご飯にしようかな。お腹空いちゃって」
「もう、小林さんのイケズっ!
でも、はーい。承知しました!」
トールはパタパタとキッチンへ向かい、
小林もその後を追ってリビングへ入る。
「おー、おかえり小林」
「小林、お帰りなさい」
「うん、ただいま」
リビングからひょっこりと顔を出したのは残りの同居人、イルルとカンナであった。
「聞いてくれ小林!
今日も私、たくさん働いたんだ!
タケも偉いって褒めてくれたぞ!」
「小林、これ。才川と作った。みて」
二人はそれぞれ今日あった出来事を、競うように話し始める。
「あはは……ちょっと待って。
ゆっくり聞くから」
苦笑しつつ、小林は椅子に腰を下ろした。
騒がしいが、家に帰るとやはり安心する。
そこへ、料理を運んできたトールが現れる。
「こら二人とも。小林さんはお疲れなんですよ?
少しは労いなさい」
「「はーい」」
二人を制しながら、トールは料理を並べていく。
湯気と一緒に、食欲をそそる香りが広がった。
「今日も美味しそうだね。ありがとう、トール」
「いえいえ!不肖トール!
小林さんのためなら身を切る覚悟です!
なんでしたら今日こそ私の尻尾ステーキを――」
「「「いただきまーす」」」
「小林さんだけでなく二人まで無視をっ!?」
トールの悲鳴を背に、三人は食事を始めた。
改めて、小林の向かいに座ったトールは、ふっと表情を緩める。
「それで小林さん。今日のお仕事はどうでしたか?
少しお疲れのようですが」
「あー……はは。確かにね。
ちょっと気を張ってた」
箸を取りながら、小林は続ける。
「実はさ、うちの会社に来た新人の話なんだけど」
「新人……?」
トールの目が鋭く光る。
「もしや、またドラゴンが入社しましたか!?
それとも魔法使いですか!?
小林さんに害をなす可能性は!?」
「いやいや、そうじゃないよ」
勢いよく乗り出してくるトールを制しつつ、小林は苦笑して首を振った。
「でもまあ、たしかに不思議な子ではある、かな」
「不思議?」
「うん。東条仗助っていう新人」
そこから、小林はこれまであったことを話した。
入社当初から、エルマが異様に警戒していたこと。
それが昼休みを境に、嘘のように懐いたこと。
「へぇ……」
トールは腕を組み、真剣に聞いている。
「エルマが、最初だけとは言え人間を相手にそこまで警戒を?」
「うん。正直、私も驚いてる」
「でも結局は警戒を解いた。これは……」
トールは少し考え込み、尻尾を揺らした。
「食べ物ですね」
「断言したね」
「間違いありません。
エルマが心を開く条件は、ほぼ食事です!」
「エルマさま、すごいけど残念なドラゴン」
「もう少し自重したほうがいいよなっ!」
カンナとイルルの身も蓋もない指摘。
子供の二人にそこまで言われるエルマに小林も苦笑しつつ、それを否定するつもりはなかった。
「やっぱりそうかぁ……」
小林は納得したようにため息をつく。
「ですが、警戒もさることながら、あのエルマがそこまで懐きましたか……これは珍しいことですよ」
「え?」
その言葉に、小林は首を傾げた。
確かに緩急は凄いが、
元来のエルマの人懐っこさを思えば自然なことだと思っていたからだ。
「そんなに珍しい?」
「ええ。なんなら特定の人間に入れ込むのは、初めてかもしれません」
「でも、向こうじゃ色んな人に崇められてたんでしょ?」
「まあ、調和勢は良くも悪くも人を平等に見ていますから。
エルマなんて筋金入りですよ?」
「……そっか」
確か、エルマは向こうでは聖海の巫女と呼ばれていたはずだ。
どこまでいっても人は保護対象ということなのだろうか。
「じゃあ、もしかしたら東条君と自分が似てるって感じたのかもね」
「似ている、ですか?」
「不器用だけど真っ直ぐで、
譲れない一線がある感じ」
トールの動きが止まる。
「……ほう」
「トール?」
「いえ」
すぐに、いつもの笑顔に戻る。
「人間にも、そういうのがいるんですねぇ」
「いるみたい」
小林は笑った。
「まあ、結局今のところは問題なし。
職場にも馴染んでいい感じだよ」
「それは良かったです!」
トールは明るく言った。
「小林さんが安心して働けるのが一番ですから!」
「ありがとう」
――だが。
トールは、何気ないふりをしながら、
気がかりな部分に意識を向けていた。
(……エルマが、警戒した)
それだけで、十分すぎるほどだ。
(様子を見に行く必要がありますね)
明日、早速会社に乗り込もう。
自分の目でも確認してみるべきだ。
それになにより――
トールは拳を、ぎゅっと握る。
(私の小林さんに近づく人間のオス……要注意ですっ!!!)
トールの闘志が、静かに燃え上がった。