朝。
目覚ましの電子音が、静かな部屋に規則正しく響いた。
小林は、いつもと同じ時間に目を覚ました。
反射的に腕を伸ばし、アラームを止める。
アラーム音を消すと、キッチンで朝食を作るトールの物音が聞こえてくる。
(トール、いつも何時に起きてるんだろ……)
そんな感想が自然と浮かぶ。
身体を起こすと、関節がわずかに軋んだ。
年齢のせいか、疲れのせいか、今日は特に酷い。
小林はのそのそと洗面所で顔を洗い、歯を磨く。
そうしていると、カンナとイルルが眠そうな顔で小林の横を通り過ぎて行った。
「おはよう……小林」
「おあよ」
「おはよう、カンナ、イルル」
目が覚めたら自室に戻り、ネクタイを締めて鏡を見る。
そこに映る自分は、相変わらず死んだ魚のような目をしていた。
(今日も今日とて、目つきが悪い……)
ため息をつき、身支度を終えリビングへ向かう。
いつも通り四人で食卓を囲い、
いつも通りトールに見送られて家を出て、
いつも通りの電車に揺られる。
車内アナウンスも、吊り広告も、
あまりに見慣れすぎていて、意識の端にも引っかからない。
(あー、やっと週末だなあ)
揺れに身を任せながら、ぼんやりと考える。
(明日は休みだし、今日は帰ったら酒たらふく飲むぞー)
誰に聞かせるでもない、不健康な誓い。
だが、そういう小さな楽しみがあるから、人は平日を乗り切れる。
・
・
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会社に着くと、小林はいつも通り自席に向かい、
パソコンの電源を入れ、メールを確認する。
画面が立ち上がるまでの、ほんの数秒。
その何気ない待ち時間で、
小林は、違和感に気づいた。
(……あれ?)
エルマの席が、空いている。
視線をやる。
椅子は引かれたまま、机の上も整然としている。
(……珍しいな)
小林は、一瞬だけ視線を留めた。
エルマは真面目で責任感が強い。
なので、出社はいつも誰よりも早い。
「……まあ、すぐ来るか」
小林は深く考えず、作業を始める。
真面目ではあるが、それと同じくらい抜けているところがあるのがエルマだ。
食べ過ぎて体調を崩したこともあるくらいだ。
始業時間までには来るだろう――その程度の認識だった。
そう思った矢先、
内線電話が鳴った。
「うおっ……」
唐突な音に驚く小林。
朝のオフィスでは、その電子音が妙に大きく感じられる。
「はい、小林です」
『あ、小林さん。東条さんから連絡がありまして』
「東条君?」
名前を聞いた瞬間、
なぜか、さっき見た“空席”が脳裏をよぎった。
『はい。本日、体調不良でお休みするそうです』
「……そうですか。分かりました」
通話を切る。
「東条くんは、休み……か」
独り言のように呟く。
(慣れない仕事で、無理しちゃったかな)
新人なら、よくある話だ。
――よく、ある話。
そのはずなのに。
小林の視線は、再びエルマの席へ向かう。
次に、東条の席。
どちらも、空いている。
(……いやいや、偶然偶然)
自分に言い聞かせ、画面に向き直る。
――だが。
三十分。
一時間。
時間だけが、淡々と過ぎていく。
それでも、エルマは現れない。
連絡も、ない。
(……遅いな)
胸の奥に、じわりと不安が滲む。
(いや、エルマに限ってそんな……)
彼女はドラゴンだ。
力も、生命力も、人間とは比べものにならない。
(有給じゃなかったよね?
それか、申請を忘れてるだけ……?)
そうであってほしい、と願う。
エルマの無断欠勤。
東条の急な病欠。
それぞれを切り離せば、なんてことない出来事だ。
だが――
(昨日、何かあった……?)
気づけば、二人の席を交互に見ていた。
(……連絡、してみようか)
そう思った、その瞬間。
ポケットの中で、スマートフォンが震えた。
(これは……)
表示された番号を見て、小林はゴクリと唾を飲んだ。
自宅の番号だった。
トールは、仕事中に連絡をしてこない。
――よほどのことが、ない限り。
一瞬だけ呼吸を整え、
通話ボタンを押す。
『もしもし、小林さん。お仕事中すいません。
エルマが――』
通話口から聞こえる内容に、小林は冷静に反応した。
「うん、うん、そう。分かった。
悪いんだけど、迎えに来てくれる?」
トールの話を聞き、小林は静かに電話を置いた。
普段から目付きが悪いと言われるその目は、
恐ろしいほど鋭く、吊り上がっていた。
……………
小林は滝谷に事情を告げ、職場を抜けた。
詳細は分からない。
だから、簡単にしか話せなかった。
だが、滝谷はそれ以上を聞かなかった。
ただ、真剣な目で小林を見て、短く頷く。
社外に出ると、空気が違った。
同じ街、同じ道のはずなのに、
現実感が、薄い。
次の瞬間、視界が影に覆われる。
そこにはドラゴンの姿となったトールがいた。
『小林さん』
声は落ち着いている。
だが、いつもの柔らかさがない。
小林は、軽く頷きその背に乗った。
風を切る音だけが、耳元で鳴る。
街の景色が、流れるように後方へ消えていく。
(……お願い)
祈りにも似た思考が、何度も頭を巡った。
・
・
・
自宅に着くと、
カンナとイルルが、オロオロした表情で立っていた。
小林を見るなり、二人は堰を切ったように飛びつく。
「「小林!!」」
震える声。
その先――
ベッドの上に、エルマが横たわっていた。
「今朝、登校中のカンナが見つけたんです」
トールの声は抑えられている。
だが、感情は隠しきれていない。
小林は、ゆっくりと近づく。
「エルマ……」
名前を呼ぶ。
返事はない。
眠っているようにも見える。
小林はそっと、エルマの手に触れた。
温かい。
確かに、生きている。
それなのに――何も返ってこない。
喉の奥が、締めつけられる。
小林は無理やり感情を飲み込み、視線を逸らした。
「……トール。エルマは、今どんな状態なの?」
言葉は平静。
だが、内心は荒れていた。
トールが重々しく口を開いた。
「意識が戻りません。
そして、少しずつ弱っています」
「原因は?」
「……分かりません。
魔力の残滓が一切ないんです。
魔法や呪いであっても、痕跡が残らないなんてありえません」
「原因不明……?」
「はい。もしかしたら、この世界特有の “何か” によるものかもしれません」
特有の “何か”
その言葉に、小林は数日前のエルマの言葉を思い出す。
『おかしいと思わぬのか!?
もし東条君が何かをしたのだとしたら、それはドラゴンである私にも効果がある“なにか”をしたということだぞ!』
小林は、ゆっくり息を吐いた。
東条仗助。
エルマが倒れ、同時に病欠。
偶然か。
それとも――
『誰かに害を与えるようなことだけは、絶対にしません』
信じるべきか。
疑うべきか。
昨日の面談で見た顔が、脳裏に浮かぶ。
私は、騙されたのか?
小林は、選択を迫られていた。
……………
夜の帳が下りた街。
街灯の橙色の光が、濡れたアスファルトを鈍く照らしている。
人通りは少なく、聞こえるのは遠くの車の走行音だけだった。
その中を、執事服姿の男が一人、歩いていた。
背筋は伸び、足取りは一定。
だが、その全身からは、隠そうとしても隠しきれない邪悪な気配が滲み出ている。
通行人たちは理由も分からぬまま、無意識に距離を取った。
視線を逸らし、足早に通り過ぎる。
本能が、警鐘を鳴らしているのだ。
だが――
一人だけ、足を止めて男に向き合う女がいた。
タンクトップ姿のその女は、帽子を深く被り、その影から観察するような視線を向けている。
「随分苛立っているね。
何か悪いことでもあったのかな、ファフニール君?」
ファフニールと呼ばれた男は足を止めた。
そして振り返りもせず、低く、不機嫌そうに吐き捨てる。
「黙れ。傍観勢の貴様には関係ない話だ。
いつも通りすっこんでいろ。ケツァルコアトル」
「その呼び方はやめて欲しいなぁ。
僕にはルコアって愛称があるんだからさ」
軽い口調。
その仕草は拗ねているように見えるが、
どこか演技染みたものだった。
ファフニールは、ルコアの存在を無視して歩き出す。
その背中に、ルコアが言った。
「魂が、抜かれていた」
空気が、変わった。
夜の街に流れていた緩い時間が、
一瞬で張り詰める。
ファフニールの足が、止まる。
「それは、奴は死んだということか?」
警戒を含んだ声。
ルコアは、近くの壁に背を預け、帽子を少しだけ持ち上げた。
覗くその表情は、いつもの柔らかさを残しつつも、真剣だった。
「生きてるよ。間違いなく。
でも――反応がない」
はっきりと、断言する。
「身体は、ちゃんと生きてる。
ただし――」
言葉を選ぶように、わずかな間。
「この状態が長く続けば、
戻れる保証はなくなる」
ファフニールの目が、細くなる。
「……どういう意味だ」
「意識ってね、居場所を失うと、
“それ”に馴染んじゃうんだ」
軽い口調とは裏腹に、事態は深刻だった。
「ふん。ということは、だ」
「うん」
ルコアは、静かに頷く。
「もって数日。
それまでに意識を取り戻さないと、
エルマ君は二度と戻って来られなくなる」
ファフニールは、表情を変えない。
「それはトールとその周りの奴らに教えてやれ。
俺には関係ない」
吐き捨てるように言う。
「俺が用があるのは、
ドラゴン相手にふざけた事をしでかした犯人のみだ」
「目星は付いてるのかい?」
「滝谷の記憶を読んだ。
容疑者は――東条仗助だ」
「容疑者、だろう?
犯人じゃない」
「そのくらい分かっている」
足を止めることなく、言い放つ。
「だが、直接確認すれば済む話だ」
再び歩き出す背中に、ルコアは声をかけた。
「君にしては、珍しく行動的だね。
身内が害されて、怒ってるのかい?」
ファフニールは、足を止め、振り返った。
その表情は、まるで悪魔のようだった。
全身から、瘴気が滲み出る。
「身内、だと?」
低く、殺気を孕んだ声。
「ふざけるな。
奴は身内でもなんでもない、敵だ。
しかも、無様に負けた。
奴はドラゴンの恥晒しだ」
だが、とファフニールは続ける。
「ドラゴンが、人間風情に負けた可能性がある」
ファフニールは吐き捨てるように告げる。
「それが、俺には――我慢ならん」