住宅街の一角。
昼間だというのに人通りはほとんどない、音だけが抜け落ちたような、周囲から浮いた場所。
小林達はそこにいた。
「ここが、敵の本拠地……!!」
「まだそうと決まったわけじゃないから……」
東条が住んでいるというのは、年季の入った二階建てのアパートだった。
外壁の塗装は色褪せ、
ひび割れた部分を誤魔化すように補修の跡が残っている。
共用廊下の手すりには、雨に晒され続けた錆が浮いていた。
人が住んでいるというより、まだ取り壊されていないだけの建物と言った方がしっくりくる。
「……えっと、ここですね」
トールが表札を確認する。
小林は小さく頷き、インターホンに手を伸ばした。
ピンポーン、と乾いた音。
反応はない。
少し間を置いて、もう一度。
それでも、返事はなかった。
「仕方ない。緊急事態ってことで……」
小林はそう言ってトールを見る。
トールは小さく頷き、無言で小林の前に出ると、ドアノブに手を掛けた。
――鍵は、掛かっていなかった。
二人は音を立てないよう、室内へ足を踏み入れる。
室内は無人であった。
小林も、部屋が無人であろうことは想定はしていた。
だが、それでも。
「……小林さん」
トールの声に困惑の色が混ざる。
小林は眉を顰めた。
部屋には何もなかった。
家具がない。
家電がない。
生活用品と呼べるものが、どこにも見当たらない。
床には何も置かれておらず、
壁にも、天井にも、
人が日常を過ごした痕跡が存在しなかった。
空間そのものが、
最初から“使われることを想定されていない”ようだった。
「ミニマリスト……という話では、ありませんね」
トールは慎重に周囲を確認する。
「……そうだね」
小林は、短く肯定する。
おそらく、ここはダミーの部屋だ。
東条仗助は追跡されることを想定し、対策していた。
「……小林さん」
トールが、部屋を一巡してから口を開く。
「この徹底した痕跡の無さ。
東条仗助は、最初から何かを企んでいたのでしょうか」
小林はすぐには答えなかった。
視線を室内に巡らせ、もう一度だけ、何もない空間を確認する。
そして、静かに言う。
「……見つけよう。見つけて、話をしよう」
・
・
・
小林とトールがアパートから出ると、
少し離れた電柱の影から、小さな影が二つ動いた。
「「小林……!」」
駆け寄ってきたのは、カンナとイルルだった。
「どうだった? なにかわかったか?」
イルルの問いに、小林は首を横に振る。
「……何もなかった。驚くくらいにね」
「なにも?」
小林の言葉にカンナが眉をひそめる。
「なにもって、なんにも?」
「うん、家具も服も、髪の毛一本すら落ちてなかった」
そう告げる小林の顔を見ていたカンナは、
おもむろに手を伸ばし、ぎゅっと小林の手を握る。
「大丈夫、小林。
エルマ様、きっと助かる」
カンナの言葉に同意するように、イルルも声を上げる。
「そうだぞ!
私も全力で頑張るぞ!」
「才川や、学校のみんなに聞いてみる」
「タケにも手伝ってもらおう!
町内会の人達にも――」
次々に出る言葉に、小林は小さく笑顔を作った。
「ありがとう、二人とも」
小林はそう言って、周囲を見回す。
「今日はもう遅い。ここで目立つのは避けよう」
トールが頷く。
「何か動きがあれば、すぐに対応します」
その時だった。
小林のポケットの中で、スマートフォンが震えた。
「……滝谷くんからだ」
小林は画面を見つめたまま、静かにスピーカーモードに切り替えた。
「もしもし、滝谷くん? 何か分かったの?」
『もしもし小林さん?
少しだけど収穫があったよ』
電話の向こうの滝谷は歩きながら話しているようで、
少し息が乱れていた。
『エルマちゃんと最後に一緒にいたのは東条君だ』
「そう……」
真相に近付く新事実を聞いても、小林は喜べなかった。
知れば知るほど、不信だけが募っていく。
状況証拠が、東条仗助が犯人だと示していく。
小林は東条と面談した時のことを思い出す。
あれが全て嘘だったというのなら、小林は人間不信に陥るだろう。
「……信じさせてよ」
思わず、声に出ていた。
その直後だった。
電話の向こうの滝谷の様子が一変した。
『二人を見た社員がいて――
え? あれは――え!?』
「もしもし? 滝谷くん?」
何があったのか?
四人が滝谷の言葉を待つ。
すると――
『小林さん!!東条くん見つけた!!
今、ファフ君と対面してる!!』
滝谷の言葉に、全員が同じ表情で、思わず顔を見合わせた。
「「「「え?」」」」
…………
そびえ立つビルとビルの隙間。
街灯の届かない暗がりの奥に、二人の男がいた。
一人はしゃがみ込み、地面を探るように視線を落としている。
もう一人は、その背後から影のように近づいた。
「東条仗助だな?」
低く、唸るような声。
東条は、ゆっくりと立ち上がり、振り返る。
暗闇の中でも、その表情は驚くほど落ち着いていた。
「……失礼ですが、どちら様でしょうか?」
「俺が誰だろうと貴様に関係はない。
質問にだけ答えろ」
「その理屈で言えば――」
東条は小さく首を傾げる。
「僕が誰であっても、貴方には関係ありま――」
次の瞬間だった。
ファフニールの拳が、空気を裂いた。
「ぐっ!?」
鈍い衝撃音。
東条の身体が壁に叩きつけられ、息を吐く暇もなく喉元を掴まれる。
東条の身体が、宙に持ち上げられた。
「舐めるなよ、下等生物が」
ファフニールの指に力が籠もる。
東条の喉に指が食い込んでいく。
「……手を、離してください」
にも関わらず、声は驚くほど静かだった。
壁に押し付けられ、殺意を真正面から向けられてなお、
東条の瞳は鋭さを帯びていく。
「離せと、言っています。
理由もなく暴力を振るう相手に、僕は容赦できない」
「ほう?」
その言葉にファフニールが口角を吊り上げる。
「離さなければ、どうするつもりだ?」
その問いかけに応えるように、東条の纏う空気が変わる。
「多少、怪我をすることになります」
「面白い。やってみろ。
その代わり、舐めた事をしたが最後、貴様を八つ裂きにしてやるがな」
ファフニールはそう言い笑う。
その時――
「待ってッ!! 待ってファフ君!! 東条くんも!!」
路地の入口から、滝谷の声が響いた。
だが、二人の間に割って入るには、あまりにも遅い。
「……忠告はしましたよ」
東条が、静かに告げる。
次の瞬間。
東条の喉を掴んでいたファフニールの腕が――
バチィッ!!
乾いた破裂音とともに、跳ね上がった。
「――ッ!?」
思わず目を見開くファフニール。
東条が地面に降り、ファフニールを見上げる。
「チッ!!」
驚愕は一瞬。
ファフニールは即座に地を蹴った。
人間であれば即死。
躊躇なく放たれた、必殺の蹴り。
「――ッ!」
衝撃が路地に炸裂する。
ドォンッッ!!!!
大砲のような音と共に、東条の身体が吹き飛び、
建物の外壁に叩きつけられた。
けたたましい音と共に、壁が大きく凹む。
粉塵が舞い、静寂が落ちた。
「……」
滝谷は、言葉を失って大きく凹んだ壁と粉塵が舞う先を見つめる。
「と、東条く――」
「待て」
近寄ろうとした滝谷をファフニールが制した。
普通の人間なら、原形を留めているはずがない。
だが、ファフニールは警戒を解かない。
そして――
粉塵の中で、人影がゆっくりと起き上がる。
「……」
現れたのは、無傷の東条だった。
「……!?!?」
その光景の異常さに、滝谷は驚愕しすぎで声が出なかった。
その間、東条は淡々と服についた埃を軽く払う。
呼吸は、乱れていない。
「……信じられない。
あなた、本当に人間ですか?」
東条の問いかけに、ファフニールは、低く笑った。
「何を驚いている。
貴様は無傷じゃないか」
「そうじゃない」
東条はファフニールの言葉を遮るように否定する。
「僕は、あなたの蹴りの威力に驚いてるんじゃあない」
東条は目線を上げ、ファフニールを睨み付けた。
「この威力を、躊躇なく人に向けられる。
その精神性に――脅威を感じている」
東条の言葉に、ファフニールは目を見開いた。
「あなたは、人間じゃない」
「………」
沈黙。
そして――空気が一変する。
「ああ」
耳鳴りのような圧迫感が滝谷の鼓膜を揺らした。
「その通りだ」
低く、嗤う。
滝谷の耳の中で、キィンと嫌な音が反響を続ける。
音なのか、圧なのか、判別できない何かが鼓膜を内側から殴りつけてくる。
視界が揺れる。
いや、揺れているのは視界ではなく、自分の平衡感覚そのものだった。
足元の感触が曖昧になり、
地面に立っているのか、宙に浮いているのかすら分からない。
呼吸をしようとすると、肺が押し潰される。
空気が、外から内へ流れ込むのではなく、
全身を包んで圧し掛かってくる感覚だった。
次の瞬間、
ファフニールの姿が掻き消えた。
ドゴンッ!!!!
爆音と同時に、再度東条の身体が弾き飛ばされる。
アスファルトが耐えきれずに割れ、剥がれ、紙屑のように跳ね上がった。
視認できない衝撃が、連続して空間を薙ぎ払う。
殴られ、叩きつけられ、
空中へ吹き飛んだかと思えば、次の瞬間に別方向へと吹き飛んでいく。
ドッ!!ズガガガッ!!バキッ――!!
鈍い衝撃音が、間を置かずに鳴り続ける。
だが。
致命の一撃だけが、決して入らない。
ファフニールの拳が振るわれるたび、
何かが、東条とファフニールの間に存在している。
それは
拳を弾き、
蹴りを逸らし、
衝撃を遮る。
何もないはずの場所で、音が爆ぜ、
波紋のように空気が震えた。
――見えない。
だが、確実に“何かがいる”。
それでも、ファフニールは止まらない。
色付きの暴風となり、即死級の攻撃を容赦なく叩き込み続ける。
手数は増え、威力は跳ね上がり、抑制されていた瘴気がもはや歯止めを失って溢れ出した。
『死ね!シネ!ハハハッ!!
グハハハハハハハハハハッッ!!!』
狂笑。
地を踏み抜く轟音。
路地全体が跳ね上がり、
建物の基礎が耐え切れず悲鳴を上げる。
滝谷は、その場から動けなかった。
――これは、踏み込んではいけない。
本能が、そう叫んでいた。
ファフニールの口が、不自然に裂ける。
喉奥で、何かが渦を巻き始めた。
空気が、沈む。
押し潰すように、
重く、黒く、
路地全体を包み込む。
空間が、目に見えて歪み始める。
瓦礫が宙に浮き、震え、耐え切れずに砕け散った。
「ファ、ファフ君……それ以上は――」
滝谷の声は、震えていた。
だが、ファフニールは止まらない。
『人間』
口内に、光が灯る。
『チリ一つ残さず――』
呪いと破壊が凝縮された、
明確な“終わり”が放たれようとしている。
『消し飛ぶがい――!』
「ファフ君!!」
叫びが、空気を裂いた。
次の瞬間、全てが止まる。
人外の姿へとなりかけたファフニールの目が滝谷を見る。
滝谷は、唇をきつく結び、真っ直ぐにファフニールを見ていた。
『………ふん』
それを見たファフニールは膨れ上がっていた肉体を人のサイズにまで戻した。
すると、砕けかけていた壁が崩れ落ち、宙に舞っていた破片が、次々と地面に落下する。
最後に口内の光が、霧のように掻き消えた。
「……チッ」
口の端から煙を吐きながら、ファフニールは顔を背ける。
「……ただの脅しだ。本気にするな」
吐き捨てるように言う。
滝谷はほっとしたような笑みを浮かべた。
「ファフ君……ありがとう」
「黙れ。殺すぞ」
いつものやり取り。
もはや空気は二人の日常のものに戻っていた。
ファフニールは、改めて東条の方を見る。
「そもそも、そこまで本気を出す必要もない。
人間一匹程度、この姿のままでも――」
言葉が、途切れた。
ファフニールも滝谷も、目の前の光景に呆然とした。
東条が土下座をしていた。
地面に額をつけた、完璧な土下座だった。
「……貴様、何のつもりだ」
「謝罪を」
静かな声。
その言葉に、ファフニールは眉を顰めた。
「命乞いか?」
「いいえ」
その態勢のまま、東条は続ける。
「貴方を、人を人とも思わない怪物だと思った。
ですが、勘違いしていた。
先ほど貴方に非道いことを言ったこと、お詫びいたします。
申し訳ありませんでした」
ファフニールが眉をひそめる。
「意味が分からん。
なぜ今土下座をする?
それで終わると思っているのか?」
ファフニールの問いに、東条はその体勢のまま答える。
「終わります。
僕にはもう、貴方と戦う意思がない」
「ふざけるな」
ファフニールの周囲に、再び魔力が巡る。
「立て、東条。
終わりを決めるのは――俺だ」
「いいえ、僕はここで失礼します」
その言葉と共に、東条の輪郭が揺らいだ。
「本当に、申し訳ありません。
また後日、正式に謝罪に伺います」
次第にその姿が薄くなっていく。
「ただ、この街の異変は、僕に任せてください」
声だけが、残る。
「必ず解決します。約束します」
「待てッ!!」
ファフニールが手を伸ばす。
だが、その指先が触れる前に――
東条の姿は、完全に消えていた。
まるで25メートルのプールに垂らした一滴の牛乳のように、跡形もなく消えてしまった。
「……消えた?」
滝谷が、呆然と呟く。
ファフニールは、東条がいた場所を睨みつけたまま動かない。
「チッ………」
ファフニールは舌打ちを一つし、感情を飲み込んだ。
砕けた地面。
歪んだ壁。
それだけが、そこに確かに存在した“戦い”を物語っていた。