小林たちは、現場の正確な位置も分からないまま、夜の街を走っていた。
滝谷に場所を聞こうとしたが、耳を裂くような轟音の直後、通話は途切れてしまったのだ。
足を止めると、街は不気味なほど静まり返っていた。
車の往来はまばらで、人影もほとんどない。
遠くで鳴る信号音だけが、やけに大きく耳に残る。
「トール! 本当にこの辺で合ってるんだよね?!」
小林の声に、焦りが滲む。
「はい! 間違いなくファフニールさんの存在を感じました!」
トールは即答した。
四人は足を止め、それぞれ周囲に視線を走らせた。
建物の壁も、道路も、目立った破壊の痕跡は見当たらない。
(……おかしい)
小林は胸の内で呟く。
ファフニールが暴れたのであれば、何も残らないはずがない。
「私、ちょっとあっち見てくるぞ!」
イルルはそう言うと、少し道を外れ大通りへと続く道に向かって駆け出した。
「イルル!!」
小林が慌てて呼び止める。
「あんまり離れすぎちゃダメだよ!!
何か見つけたら、すぐに大声で私たちを呼んで!!」
「分かったぞ!」
振り返りざまにそう返し、イルルは夜の闇へと走り去っていった。
その背中が見えなくなるのを確認してから、小林はトールとカンナに向き直る。
「私たちも手分けしよう」
短く息を整え、小林は指で方向を示した。
「私はこっちを探す。
トールは、あっちの二番街方向」
「分かりました!」
トールは迷いなく頷く。
「カンナちゃんは、この辺をじっくり見て回って。
無理に奥へは行かなくていいから」
「わかった」
カンナは小さく頷いた。
こうして三人も、それぞれ別の方向へと動き出す。
その場に残ったカンナは、少しでも手掛かりを見つけようと、注意深く周囲を探し始めた。
人通りの少なそうな道を覗き、
廃ビルの屋上まで駆け上がり、
電柱の影や、倒れかけたゴミ箱の下まで――
考え得る限り、あらゆる場所に目を向ける。
それでも、何も見つからない。
――その時だった。
『カンナ』
不意に、名を呼ばれた。
「……?」
思わず足が止まる。
その声は、聞き間違えるはずのないものだった。
「エルマ様?」
カンナの問いかけに答えるように、再度声が響く。
『こっちだ、カンナ』
声は、街灯の届かない暗い路地の奥から聞こえてきた。
カンナは眉をひそめた。
そこに、路地などあっただろうか。
何度も通ったはずの場所なのに、記憶に引っかからない。
「……」
それでも、カンナは足を踏み入れた。
路地の先まで目を凝らすが、人影一つ見当たらない。
胸の奥に、言いようのない不安が広がる。
「エルマ様?
どうして出てこない?」
『すまない……不覚にも、囚われてしまったんだ』
そんなはずない。
エルマ様は今、小林の家にいる。
そう頭では分かっているのに、聞こえてくる声や口調がカンナを惑わす。
「捕まった?信じられない。
エルマ様は強いドラゴン」
『出られないわけじゃない。
だが、私以外にも被害者がいる。
私だけが、ここを出るわけにはいかないんだ』
その言葉に、カンナは戸惑った。
いかにも本人が言いそうで、話の内容も妙に状況と合っていた。
ひとまず小林達を呼んで判断を仰ごうとした、次の瞬間。
『あ、あああああああっ!?!?
カンナ!! カンナッ!!
助けてくれッ!!
急いで、こっちに来て私を引っ張り出してくれ!!』
悲鳴。
切羽詰まった、エルマの声。
それに合わせて、複数の人の声まで聞こえてくる。
「エルマ様!!!」
考えるより先に、身体が動いていた。
カンナの小さな背中が、暗い路地裏で消えた。
・
・
・
最初に異変に気付いたのは、イルルだった。
大通りへ続く道を駆けながら、ふと足が止まる。
「……?」
理由は分からない。
だが、嫌な感覚があった。
イルルとカンナは友達だ。
常日頃から一緒に行動し、楽しいものはなんでも分け合ってきた。
もはや姉妹のようなものだった。
だからだろうか。
カンナの身に、何か起きた気がしてならない。
イルルは舌打ちし、踵を返した。
皆と別れた場所へ、全力で引き返す。
「カンナッ!! どこにいるんだ!」
呼び声が、夜の街に虚しく響く。
だが、いくら叫んでも返事はない。
(……やっぱりだ)
嫌な予感が、確信に変わっていく。
心臓の鼓動が早まり、喉が渇く。
ドラゴンの感覚が、はっきりと警鐘を鳴らしていた。
――静かすぎる。
夜の街は確かに人が少ない。
それでも、本来あるはずの音まで消えている。
風の音も、
遠くを走る車の音も、
すべてが一枚の膜の向こうに押しやられたようだった。
「おい、カンナ! 返事しろ!!」
走りながら、何度も名を呼ぶ。
だが、返ってくるのは自分の声だけ。
次の瞬間。
カリッ――
何かを引っ掻く、微かな音。
イルルの耳がそれを逃さなかった。
音のした方向へ、鋭く顔を向ける。
――路地。
視線の端。
街灯の届かない、細い路地の奥。
そこだけが、不自然なほど暗い。
「……は?」
眉をひそめる。
さっきまで、あんな場所はなかった。
少なくとも、気配を感じ取れないほどの死角ではなかったはずだ。
「……カンナ?」
その呼びかけに、答えはない。
だが、目に映った光景を前に、疑惑は確信へと変わる。
イルルは歯を食いしばり、路地へと駆け出した。
「くそ……!」
そして――
その奥で見つけたのは。
地面に倒れ伏す、カンナの姿だった。
「カンナ!!」
イルルは駆け寄り、抱き起こす。
だが、カンナの身体に力は無く、虚な瞳は何も映さない。
その感触だけで、理解してしまった。
「これ……エルマと、同じ……!!」
怒りが、瞬時に燃え上がる。
イルルは両手をドラゴンのそれへと変え、周囲を睨みつけた。
「誰かいるんだろ!!
分かってるんだぞ!!
よくもカンナを!!
エルマも、お前がやったんだろ!!」
声は、虚しく壁に反響するだけだった。
だが、その時。
イルルの鋭い聴覚が、再び音を捉えた。
視線を向けた先にあったのは、
空間が裂けたような、真っ黒な“隙間”。
『――……?――……ッ!――……!!』
その隙間から、本当に微かに何かが聞こえる。
あまりに微かで、ドラゴンの聴覚ですら完全には掴めない。
「カンナかっ!?そこにいるのか!?!?」
思わず壁に駆け寄るイルル。
そこまで近付いて、ようやく音が声となる。
『ダメ……触っちゃ、ダメ』
何を、などと考える暇はなかった。
見えない“何か”が、イルルの指先を掴む。
「あ――」
抵抗する間もなく、
そのまま黒い隙間へと押し当てられた。
「あ、あああ!?!?!?」
痛みはない。
苦しみはない。
――あるのはただ、引き剥がされる感覚。
肉体と魂が、
無理矢理、引き離されていく。
だが、まだ間に合う。
カンナの忠告が、一呼吸分の猶予をくれた。
「敵だッッ!!!!」
イルルは一言だけ残して、路地裏に溶けて消えた。
・
・
・
『敵だッッ!!!!』
夜の街を引き裂く、切羽詰まった叫び。
「――ッ!!」
小林とトールは、同時に足を止めた。
ただの呼びかけじゃない。
自身の危険を知らせる、悲鳴に近い声だった。
「今の……イルルです!!」
トールは即座に振り向くと、小林を抱え上げ、トップスピードで声のした方向へ駆け出した。
その間、小林の脳裏には最悪の想像が次々と浮かぶ。
(まさか……イルルがやられた……!?)
辿り着いた路地は、異様なほど静まり返っていた。
空気が、重い。
「……」
トールに下ろされた小林は、路地の入口へ慎重に歩み出る。
「……ここ、こんなに静かでしたか?」
トールも異変を察したのか、無言で周囲を睨みつける。
そして――
薄暗い路地の奥で、二つの影が揺れ動いた。
「カンナ……! イルル……!!」
二人の身体は、わずかに左右へ揺れている。
まるで、見えない糸で吊られた操り人形のように。
「……カンナちゃん?」
小林が一歩、踏み出した瞬間――
二人は、同時に崩れ落ちた。
『痛いよぉ……!
助けて、小林ぃ……!!』
『苦しい……暗い……
あたし……死んじゃう……』
声が、直接頭の内側に流れ込んでくる。
小林の背筋が凍りついた。
それは紛れもなく、カンナとイルルの声だった。
「ッ……!」
トールが反射的に前へ出る。
「待って、トール!!」
小林は咄嗟に、その腕を掴んだ。
引き止められた瞬間、二人の様子が一変する。
揺れが激しくなり、
呻き声は悲鳴へと変わった。
『どうして!?
どうして助けてくれないの!?』
『お願い、手を伸ばして!! 早く!!』
カンナの頭が、壁に叩きつけられる。
『痛い痛い痛いぃぃいいい!!!』
イルルの身体が、不自然な角度に反り返る。
『ヒィッ!!
やだ、やだ!!
助けて小林ッ!!』
理性が、感情に追いつかない。
トールの呼吸は荒く、拳は震えていた。
「小林さん……!!」
「……分かってる」
小林は歯を食いしばり、答える。
視線は、一瞬たりとも逸らさない。
「これは……罠だ」
言葉にすることで、自分を繋ぎ止める。
「二人の意識は、ここにない」
その瞬間――
スイッチが切れたように、二人の動きが止まった。
『『………』』
ゆっくりと、首が持ち上がる。
白目を剥いた瞳が、同時にこちらを向いた。
空気が、さらに冷え込んだ。
「……っ」
トールが、唇を噛みしめる。
その時――
『やあ!』
不意に、声が割り込んできた。
「「ッ!?」」
姿は、見えない。
だが――
『小林さん、トール。
来てくれたんだな』
エルマの声。
あまりにも自然で、あまりにも“らしい”声音。
『本当に良かったよ。
もう少し遅かったら、どうなってたか……』
一拍。
そして――
『――っ、くく……』
引き攣った音。
『……あはっ』
声が、歪む。
『あはははははははははッ!!!』
下品な笑い声が、路地に反響した。
『いやぁ、キツいキツい!!
この口調、笑い我慢するの大変なんだよ!!』
完全に別人の声。
「……貴様か」
トールのこめかみに、血管が浮かぶ。
『ひひひひ!!
その顔!! 最高だな!!』
心底楽しそうな声が続く。
『仲間だと思った?
信じちゃった?純粋だね』
挑発する声に、小林は奥歯を噛み締めた。
(こいつ……完全にこっちを弄んでる……)
『ほんとさぁ!!
魚釣って、それを餌に別の魚を釣る!!
今日は最高の釣り日和だ!! なあ!?』
その言葉に、トールが一歩前へ出る。
「出てこい……!」
低く唸る。
「姿を現せ、卑怯者ッ!!」
ゴウッ!!
ドラゴンの怒気が路地を揺らす。
だが、それでも声の主は余裕を失わない。
『いいよぉ?
ほら、入ってこいよ。
そうすりゃ、見えるからさ』
路地の奥が、嘲笑うように暗く蠢いた。
額に血管を浮かべ、トールは踏み出そうとする。
「ダメだ、トール!!」
小林が、寸前で止めた。
「エルマも、カンナちゃんも、イルルもやられた!
奴は――私達を“入らせたい”んだ!」
路地を鋭く睨み据える。
「入った瞬間、何かが起きる……
きっと、そういう仕掛けだ!!」
「……っ」
トールは必死に衝動を抑える。
だが、声は止まらない。
『どうした、来なよ!!
怖くて足がすくんでるのか??
怒ってるフリして、内心ビクビクってか!?』
「グゥ………!!!!」
ビキッ!ビキビキッ!!
トールの拳が、音を立てて握り締められる。
『はぁ……』
わざとらしい溜息。
そして――
言ってはならない一言が放たれた。
『お前らほんっと、しょうもないゴミだな。
特に目つきの悪い方?
ゴミな上にブスだし、生きてる価値ないよ』
プツンッ
――何かが、トールの中で切れた。