もちろん、曲がり角の先には……?
その日、佐藤太郎の視界は、遅刻を告げる時計の針と、口にくわえた食パン、そして春の陽光に満ちていた。
「やべっ、遅れる……!」
角を曲がった瞬間、運命と衝突した。
「痛っ!」
桜色の髪が舞った。
転んだ少女がこちらを睨む。
その双眸に宿る可憐さに、太郎の心臓は高鳴った。
「あ、ごめん、大丈夫……?」
「大丈夫なわけないでしょ、このバカ!」
少女の拳が、照れ隠しの勢いのまま太郎の胸板を叩いた。
それが、人類史上最も純粋で、最も物理破壊力に満ちた「ツン」だった。
衝撃波が校舎の窓ガラスをすべて砕き、太郎の心臓は恋に落ちる暇もなく、背中から突き抜けて彼方の山を消し飛ばした。
太郎は微笑を浮かべたまま、灰となって空に散った。
「……あ。やりすぎた」
少女が呟いた瞬間、世界が軋みを上げた。
あまりに早すぎる太郎の退場に激怒したのだ。
空が紫色に濁り、地平線から巨大な手が伸びてきた。
現実が、まるで古い布のように剥がれ落ちていく。
死んだはずの太郎の灰が、時空の裂け目から逆流し、少女の涙と混ざり合う。
「死なせない。終わらせない」
世界が再定義された。
地上のすべての物質はピンク色のゼリー状に溶け、個人の境界線は消失した。
校舎も、食パンも、佐藤太郎も、彼を殺した少女も、すべてが一つの巨大な「恋する意識体」へと融合を始めたのだ。
もはや、隠し事など不可能だった。
全人類の脳内に、隣の家のオヤジの初恋の記憶や、クラスメイトの恥ずかしい妄想が、濁流となって流れ込む。
「好きだ」「愛してる」「でも昨日のあれはムカつく」「明日のデートどうしよう」
数十億人分の「ツン」と「デレ」が混ざり合い、地球そのものが、熱に浮かされた巨大な心臓のようにドクドクと脈動した。
狂気的な甘酸っぱさが、宇宙の限界を突破しようとしていた。
他人の煩悩が、自分自身の渇望が、逃げ場のないピンク色の牢獄となって全人類を窒息させる。
このままでは、愛の質量でブラックホールが形成される——その時だった。
全人類の意識の中心で、一輪の蓮の花がひらいた。
「……もう、よくない?」
誰かの声が、全人類の意識に響いた。
それは佐藤太郎のようでもあり、あの少女のようでもあった。
「好きだとか、嫌いだとか。振り向かせたいとか、独占したいとか。そういうの、もう、疲れちゃった」
その瞬間、ピンク色の混沌に、冷徹なまでの静寂が訪れた。
激しい恋心は、深い慈悲へと転じ、執着は霧のように晴れていった。
全人類は悟ったのだ。
曲がり角でぶつかることも、パンをくわえて走ることも、すべては「個」という幻想が見せた儚い夢に過ぎなかったことを。
世界から「色」が消えた。
そこにあるのは、無限の光と、完全な空白。
全人類の魂は、制服を脱ぎ捨て、肉体を脱ぎ捨て、恋心すらも彼方へ放り投げて、涅槃(ねはん)の静寂へと溶けていった。
「……ねえ、太郎くん」
「何だい、サクラ」
もはや声すら持たない二つの概念が、空(くう)の中で微笑み合う。
「私たち、やっと両想いになれたね」
「ああ。宇宙そのものが、僕たちになったんだから」
二人の、そして全人類の愛は、ここに完結した。
あとに残されたのは、誰もいない教室に差し込む、永遠に沈まない夕日だけだった。
(了)