遅刻を告げる時計の針。口にくわえた食パン。春の陽光。
もちろん、曲がり角の先には……?

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第1話

 

その日、佐藤太郎の視界は、遅刻を告げる時計の針と、口にくわえた食パン、そして春の陽光に満ちていた。

 

 

 

「やべっ、遅れる……!」

 

角を曲がった瞬間、運命と衝突した。

 

「痛っ!」

 

桜色の髪が舞った。

 

転んだ少女がこちらを睨む。

 

 

 

その双眸に宿る可憐さに、太郎の心臓は高鳴った。

 

「あ、ごめん、大丈夫……?」

 

「大丈夫なわけないでしょ、このバカ!」

 

少女の拳が、照れ隠しの勢いのまま太郎の胸板を叩いた。

 

 

 

それが、人類史上最も純粋で、最も物理破壊力に満ちた「ツン」だった。

 

衝撃波が校舎の窓ガラスをすべて砕き、太郎の心臓は恋に落ちる暇もなく、背中から突き抜けて彼方の山を消し飛ばした。

 

太郎は微笑を浮かべたまま、灰となって空に散った。

 

「……あ。やりすぎた」

 

少女が呟いた瞬間、世界が軋みを上げた。

 

あまりに早すぎる太郎の退場に激怒したのだ。

 

 

 

空が紫色に濁り、地平線から巨大な手が伸びてきた。

 

現実が、まるで古い布のように剥がれ落ちていく。

 

死んだはずの太郎の灰が、時空の裂け目から逆流し、少女の涙と混ざり合う。

 

「死なせない。終わらせない」

 

世界が再定義された。

 

地上のすべての物質はピンク色のゼリー状に溶け、個人の境界線は消失した。

 

校舎も、食パンも、佐藤太郎も、彼を殺した少女も、すべてが一つの巨大な「恋する意識体」へと融合を始めたのだ。

 

 

 

もはや、隠し事など不可能だった。

 

全人類の脳内に、隣の家のオヤジの初恋の記憶や、クラスメイトの恥ずかしい妄想が、濁流となって流れ込む。

 

「好きだ」「愛してる」「でも昨日のあれはムカつく」「明日のデートどうしよう」

 

数十億人分の「ツン」と「デレ」が混ざり合い、地球そのものが、熱に浮かされた巨大な心臓のようにドクドクと脈動した。

 

 

 

狂気的な甘酸っぱさが、宇宙の限界を突破しようとしていた。

 

他人の煩悩が、自分自身の渇望が、逃げ場のないピンク色の牢獄となって全人類を窒息させる。

 

このままでは、愛の質量でブラックホールが形成される——その時だった。

 

 

 

全人類の意識の中心で、一輪の蓮の花がひらいた。

 

「……もう、よくない?」

 

誰かの声が、全人類の意識に響いた。

 

それは佐藤太郎のようでもあり、あの少女のようでもあった。

 

「好きだとか、嫌いだとか。振り向かせたいとか、独占したいとか。そういうの、もう、疲れちゃった」

 

その瞬間、ピンク色の混沌に、冷徹なまでの静寂が訪れた。

 

激しい恋心は、深い慈悲へと転じ、執着は霧のように晴れていった。

 

全人類は悟ったのだ。

 

曲がり角でぶつかることも、パンをくわえて走ることも、すべては「個」という幻想が見せた儚い夢に過ぎなかったことを。

 

 

 

世界から「色」が消えた。

 

そこにあるのは、無限の光と、完全な空白。

 

全人類の魂は、制服を脱ぎ捨て、肉体を脱ぎ捨て、恋心すらも彼方へ放り投げて、涅槃(ねはん)の静寂へと溶けていった。

 

「……ねえ、太郎くん」

 

「何だい、サクラ」

 

もはや声すら持たない二つの概念が、空(くう)の中で微笑み合う。

 

「私たち、やっと両想いになれたね」

 

「ああ。宇宙そのものが、僕たちになったんだから」

 

二人の、そして全人類の愛は、ここに完結した。

 

あとに残されたのは、誰もいない教室に差し込む、永遠に沈まない夕日だけだった。

 

(了)

 


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