1901年生まれの少年が、その男と会ったのは1908年のことだった。
教育係の自慢の息子。
巧みな話術と引き出しの多い知識を持ち、それでいて妙なところにこだわりを持つくせに無駄を嫌う「不思議なオジちゃん」だった。
戦争で大怪我を負い、その治療でスイスに3年ほどいた、という割に日本国内の情勢に詳しい。
日露戦争の勝利を決めた英雄と聞いていたが、本人はそう言われることを嫌がっていた。
少年は「不思議なオジちゃん」と知り合ってから10年以上の時間が流れ、青年になっていた。
青年をもてなすための、ロンドンはバッキンガム宮殿での豪華な晩餐会のあと、タキシードを脱ぎ捨てたアルバート王子と保典が青年の前に立ってニヤリと笑う。
「ハリー、バッキンガムのシャンパンなんてただの炭酸水だ。パブで飲む重厚なエール。これを知らずにロンドンを語るなど、紳士の恥、王家の損失だぞ!」
アルバート王子が流ちょうな日本語で言う。
面食らう青年の肩に手を置いた保典が、実に重々しい表情でいう。
だが青年は知っていた。
保典がこの顔をするときは、ろくでもないイタズラを仕掛けようとしている、あるいは、青年を共犯に巻き込むときの顔だと。
「若、これも立派な『現地視察』です。さあ、この薄汚れたキャスケットを被ってください。今日からあなたは、極東から来た見習い職人のヒロさんです」
青年は二人の年長者の、よく似た笑顔を見比べ、そして期待に満ちた目をしてメイドが差し出す服を手に取った。
アルバート王子が二言三言、宮殿の従僕に伝えただけで3人の外出はすんなりと決まった。
この時、『これは常習犯だな』と見当をつけたが、不幸にもそれを口に出さない分別を持ち合わせていた青年は、護衛もなしに連れ出され、のちに酔っぱらいの面倒を見させられることになるとは思ってもいなかった。
「ロンドンに来たら味わうべきグルメは2つある。ひとつはレッド・ライオンのステーキ・アンド・キドニーパイ。ちょいとくどいが、これがエールと合うんだよ」
アルバート王子がハイドパークに近い門から二人を連れ出し、西に向かって歩きながら言う。
「そういえば、銀座のライオンはもう出来たんだっけ? あそこでソーセージ盛合せを突っつきながら、ヱビスをやるのが楽しみなんだよ」
「7丁目の? それならまだ『サッポロビヤホール』で、名前にライオンは付いてないよ」
保典が答える。
「いいね、日本に行ったら絶対に行ってやる。ヱビスは絶対だ」
二人の会話に青年が口をはさむ。
「王子は日本に詳しいんですね」
「ま、それなりにね。いずれ東京は、世界で一番ミシュランの星が多い街になるよ。断言する!」
(ミシュランの星……?)
聞き慣れない単語に青年は心の中で首を傾げつつ、アルバート王子の力の入れように苦笑した。
「僕は、もうひとつのロンドンで味わうべきグルメのほうが気になりますね」
「君は酒飲みの素質があるぞ。将来有望だ」
アルバート王子がにやりと笑う。
「それこそが、これから向かう店で出す、ロンドンで最も美味しいビーフ・アンド・エール・パイさ」
3人はベルグレイヴィア地区のウィルトン街の中ほどから、一本の薄暗い小路に入り込んだ。
小路の突き当りの少し手前にある、レンガ造りの3階建ての建物が目的地だった。
窓からは明かりが漏れ、賑やかさが外まで伝わってくる。
「ここのビーフ・アンド・エール・パイを知らずして、ロンドンを語るなかれ、だね」
「期待に舌が震えそうです」
アルバート王子の軽口に青年がそう返すと、保典が小さく笑った。
3人はサロンではなくパブリック、つまり労働者用のフロアに足を踏み入れた。
日々の労働を終えた男たちが談笑し、エールとパイを楽しんでいるなかに、自然に溶け込んだアルバート王子と保典がテーブルを一つ確保して「マイルドのハーフパイントとパイを3人分」と手慣れた調子で注文する。
青年は小さく苦笑した。
「ここにはよく来るんですか?」
「足繁く、とは言えないけどたまにはね」
エールが届き、3人が乾杯をする。
「苦みが強いですね。でも、不思議とまろやかだ」
青年の感想に、大人の二人がニヤリと笑う。
「若。それが人生の味というものですよ」
どこか芝居じみた、したり顔でいう保典に、青年は腑に落ちるものがあった。
『保典は難しい書物からではなく、こういう生きた人間の体温や、雑多な暮らしの中から、あの異次元の知識を拾い集めているのか』と納得したのだ。
伝統と厳格に満ちたほかの人間と違い、合理的で数字に裏付けされた冷徹な視点でありながら、深い哲学と鋭い人間心理に基づいた視点で語る保典。
保典が語る知識は軍人とは思えぬほど幅広く、そして飛躍的、先進的でありながら、なぜか「過去から積み重ねた実績」を感じさせる矛盾。
その知識の源の一端を垣間見た気がした青年は、エールのグラスを見つめる。
「人生の味、ですか」
「酒は人生の味。そして、酒場は人生そのものさ。酒場で男たちの話を聞いているだけで、いくらでも小説が書けると言った文豪もいるぐらいだからね」
アルバート王子が言う。
「ところでヒロ、この店を見てどう思う?」
「え? えーっと、その、活気があって良いと思います。天井に貼ってあるお金がちょっと、いえ、かなり不思議ですけど」
「うん、そうだね。で、この店がロンドンでも有数の、由緒正しき歴史がある店だと言ったら信じるかい? 天井に貼ってあるお金も含めてね」
アルバート王子の質問に青年は怪訝そうな顔をする。
「この、どこにでもありそうで、庶民の日常の一場面に当たり前のように出てくる店。だが、この店にも歴史があるのさ」
アルバート王子が店の歴史を語りだす。
店の由来となった近衛歩兵連隊、グレナディアガーズとの関係から始まり、ワーテルローの戦いでナポレオンを破ったウェリントン公爵がこの店で酒を楽しんでいたと語る。
「この店は1848年にパブとしての営業免許をとったんだ。以来70年。この店は営業を続けている。これはこれで凄いことなんだよ」
アルバートが、テーブルに届いた熱々のビーフ・アンド・エール・パイを手に取った。
「そして、このパイひとつにも歴史が詰まってる」
青年は真剣な顔で聞き入っていた。
「この、歴史が詰まったパイを晩酌のお供に、エールを楽しむ当たり前の日々を守る。それが我々の使命であり、責任。もっと俗にいうなら、生涯かけて行う仕事なのさ」
アルバート王子の言葉に、青年はわずかに目を細め、鋭い眼差しになる。
そして静かに店内をゆっくりと見まわし、やがて自分の目の前にあるパイへ視線を落とす。
「使命、ですか」
「そうさ。日々の労働を終えた彼らがここにきて、エールを飲みながらパイを楽しみ、明日への活力を蓄える。そのお膳立てをするのが我々の使命なのさ」
パイに美味しそうにかじりつくアルバート王子。
気づけばすでに3杯のエールが空になり、4杯目が届けられていた。
「君はこれから、何千万という人々の視線に晒される。彼らは君を神だと思い、あるいは悪魔だと思い、あるいはただの『記号』だと思うだろう」
アルバート王子の顔から笑みが消え、真剣な表情になる。
「だが、忘れるな。君がどれほど孤独になろうと、周りから完璧な王になることを求められようと、完璧な王になろうとするな」
真剣な面持ちのアルバートの言葉を無言で聞く青年。
「君が弱さを持ち、それを認め、誰かの助けを借りることを恥じなければ、民衆は君の中に『自分たちと同じ人間』を見つける。それが、最悪の嵐の日に、国を繋ぎ止める唯一の錨になるんだ」
「完璧な王、ですか?」
青年が思わず問い返す。
「ボクは日本を離れてから気づいたよ。日本人は上に立つものに完璧を求めすぎる、とね。求めるほうはそれでいい。でも求められるほうにとって、それはあまりにも残酷な苦痛だ」
エールをひといきに飲み干すアルバート王子。
その姿は青年には、酒でつらさを流し込む勤め人のようにも、薬を飲みほす病人のようにも見えた。
「国のために自分を捧げるのは僕らの義務だ。だが、魂の最後の一欠片だけは、誰にも渡さず自分だけのものにしておけ。植物を愛でる時間でも、保典とエールを飲む時間でもいい。そこが君の『聖域』だ。そこがある限り、君は壊れずに済み、世界は救われる」
「世界が救われる? また大きいことを言うなぁ、王子は」
いつの間にか顔を赤くした保典が割り込む。
「大きな事じゃないさ。保典、君こそ自覚してるのか? 僕らの動き次第じゃ、この先50年、いや、100年の世界平和が得られるんだぜ?」
「その前に、この動乱の20年を乗り越えなきゃならんなぁ……」
「あはは。そうだな、その通りだ。動乱を乗り越える勇者たちに乾杯!」
完全に酔っ払いになっている二人を前に、あきれながらも、青年の頭の中ではアルバート王子の言葉が何度も繰り返されていた。
そして青年が深く考えこんでいる間にも、二人の酒杯はさらに数を重ねていく。
店の親父が「もうやめておけ」と呆れ顔で告げるまでに二人は酒杯を重ねていた。
ただ一人、正気を保っていた青年は宮殿から人を呼んでもらい、迎えが来るまでの間、すっかり出来上がった二人の大人の面倒を見る羽目になったのだった。