夜の空気が、わずかに揺れた気がした。
研究室でつる先輩と向き合っていたはずなのに、胸の奥に差し込んだ違和感が思考を押し流していく。
窓の向こうの街灯が、やけに遠く見えた。
ホワイトボードに並んだ単語が、意味として繋がる前に崩れる。
紙の匂いと、乾いたペン先の音だけが残った。
つる先輩が何か言いかけた。
けれど声が言葉になる前に、椅子が床を擦る音が勝手に鳴っていた。
ドアノブに触れた手が冷たい。
廊下に出ると空気が薄く、足音だけがやけに響く。
出口に近づくほど、その違和感が強くなる。
胸の内側を、指で引っ張られているみたいだった。
外へ出る。
風が頬を切る。
息を整える前に身体がバイクへ向かい、鍵を差して、捻る。
エンジンの振動が腹の奥に伝わった瞬間、違和感が輪郭を持った。
前回の倉庫街で感じた、あの冷たい“選別”の気配に似ている。
交差点に差しかかるたび、胸の奥が引かれる。
迷いが消え、曲がるべき方向だけが残る。
逆へ切りそうになると背中が冷え、正しい方へ入ると少しだけ息が楽になる。
道が、勝手に決まっていく。
工場地帯が近づくにつれて、空気の温度が下がった。
人の気配は薄い。
それでも視線だけが、上から降りてくるような重さがある。
バイクを停めた瞬間、胸の奥がきりりと締まった。
ここだと分かった。
足を踏み入れる。
鉄骨の匂いが濃い。
油と埃が混ざった空気が、喉の奥に貼りつく。
静けさの中に、押し殺した呼吸が混じっていた。
壁際に若い男がいる。
肩を押さえ、呼吸を乱している。
目つきは鋭いのに焦点が揺れていて、身体の感覚と心が噛み合っていない様子だった。
指先が小刻みに震えている。
肩を押さえる手がほどけたり締まったりを繰り返し、痛みの場所が定まっていない。
「……来るな」
掠れた声が落ちた。
拒絶というより、自分の身体が自分のものじゃないことへの恐怖が滲んでいた。
男の背後で、影が動く。
翼のような外套が、闇から浮かび上がる。
細長い輪郭がゆっくりと首を傾け、頸へ顔を寄せていく。
噛みつくまでの距離が、異様に長く感じた。
踏み込みが先に出た。
拳が影に触れた瞬間、重い反動が腕を伝い、骨の奥が冷えた。
影の頭部がわずかに揺れ、噛みつきが外れる。
若い男の身体が崩れ、地面に手をついたままこちらを見上げた。
驚きより困惑が強い。
視線の中に、自分の手を疑う色が混じっている。
腰が熱を帯びる。
黄金の光が渦を巻き、皮膚の上に硬質な感覚が広がっていく。
装甲が腕から生まれるように形を持ち、視界の端が静かに変わった。
影が一歩後ろへ下がった。
逃げる気配はない。
距離を測り、結論を出そうとしている。
次の瞬間、上から衝撃が落ちてきた。
爪のような蹴りが肩口に触れ、骨の奥まで冷たい振動が走る。
踏みとどまりながら勢いを逃がすと、影は音もなく跳び上がった。
梁の上に逆さに張り付き、翼がわずかに揺れる。
そのまま滑空するように突っ込んでくる。
頬の横を冷たい風が切った。
避けたというより当たらなかっただけだと分かる。
次の一撃が来る前に、腕が勝手に差し込まれていた。
衝突のたびに空気が歪む。
足元の埃が舞い上がり、灯りの届かない場所で白く散った。
背後の男が動こうとして止まる気配が伝わり、息を呑む音が遅れて聞こえる。
影の動きが変わった。
翼が大きく開く。
外套のような闇が厚みを増し、空気が沈む。
視線が鋭くなり、今度は俺ではなく背後の男へ軌道を変える。
踏み込み、間に割り込む。
噛みつきが肩のすぐ横を掠め、冷たい風が頬を撫でた。
背中に男の荒い呼吸が当たり、恐怖がこちらへ染みてくる。
足裏に力が溜まる。
床の埃が、青い光を拾って瞬いた。
影の輪郭が一瞬だけ鋭くなり、額の奥で熱が脈を打つ。
身体が跳ね上がる。
軸足を支点に回転し、伸ばした脚が光を帯びて闇を切り裂く。
衝突。
重い反動が全身を貫き、影の身体が後方へ弾き飛ばされる。
鉄骨にぶつかり、闇が揺れた。
けれど爆ぜない。
影は着地し、こちらを見据えたまま静かに後退した。
逃げるというより、判断を保留するように翼を閉じる。
そして闇へ溶けていった。
装甲の感触が薄れ、夜の空気が肌に触れた。
若い男が立ち上がる。
呼吸を整えようとして失敗し、喉の奥で息を詰まらせた。
「……何だよ、これ」
声が震えていた。
言葉の先を飲み込みながら、自分の手を見つめ、まるで知らないものを見るように指を動かしている。
遠くでサイレンが鳴り始める。
胸の奥に残る冷たい気配は消えず、次の場所を示すように微かに引っ張った。
夜はまだ深い。
結論は、出ていない。
見出し:
工事現場付近で不可解な窒息死 地面に残る“引きずり跡”
日付/地域:
○○年○月/都内近郊・造成地周辺
本文(〜200字):
夜間、造成地付近で男性が死亡しているのが発見された。外傷は少ないが、肺に土砂が入り込んだ痕跡があり、警察は事故と事件の両面で捜査を進めている。現場周辺には地面を引きずったような不自然な溝が複数確認され、重機の作業痕とは一致しないという。目撃者はおらず、原因は不明のままとなっている。
つる子の注釈:
未確認の記録には、必ず「説明できない力」が先に現れる。
地面へ引き込むという発想は、人間の犯行としては不自然すぎる。
……もしこれが未確認ではなく、“選別”を目的とした別系統の存在なら。
今回の遺跡で見たものと、線が繋がる可能性がある。