翌朝の大学は、前夜の教室が嘘のように明るかった。
白い日差しが廊下の窓から斜めに差し込み、磨いた床に四角い光の枠を映している。夜の教室に染み込んでいた潮の匂いも重苦しい空気も、朝の光と学生たちの足音でどこかへ消えていた。
俺は研究室のドアをノックした。返事はなく、ノックの音だけが壁に跳ね返った。だがドアは鍵がかかっていなかった。開けると、つる子先輩が机に向かっていた。
「おはようございます、先輩」
「おはようございます。…結城くん、少し早いですね」
つる子先輩は顔を上げた。その目の下には薄い隈があった。彼女も眠れなかったのか、机の上には俺の予想通り、昨夜の話を書き留めたノートと、数枚の印刷用紙が広げられていた。さらにその横には、コーヒーの空きカップが二つ並んでいる。
「昨夜の話、整理できましたか」
「ええ、ある程度は。ですが、まだ整理しきれていません」
俺は先輩の向かいの椅子に腰を下ろした。座面が冷たい。昨夜の教室では気づかなかったが、今朝の研究室は静かすぎた。自分の呼吸の音がやけに大きく聞こえる。
「先輩、昨夜の沢木さんの話、どこまでが事実でどこからが仮説か分けたいんです」
つる子先輩は頷き、ノートの端を指でなぞった。
「そうですね。まず、確認できた事実から挙げましょう。沢木哲也という人物が実在すること。彼があかつき号の乗員名簿に記載されていること。そして彼が私たちの前に現れ、自らの口で超古代の系譜を語ったこと。ここまでは事実です」
「じゃあ、その語った内容は」
「ここからが難しいところです。彼が語った超古代の出来事——未確認生命体が元は人間であったこと、アンノウンがそれを警戒したこと、闇の力がリントへ力を与えたこと。これらは彼の証言としては記録できますが、裏付けがありません。つまり、彼が真実を語っているという保証はないのです」
俺は自分の手を見下ろした。昨日の昼間、普通の大学生の手に戻ったはずの手だ。夜になれば漆黒の鎧に変わる手。今はただ、爪の端が少し汚れているだけの人間の手だ。
「でも、俺の中にある力は事実です。アマダムの力も、アギトの力も。俺が感じたものは嘘じゃない」
「ええ、それはそうです。あなたの力は事実。津上さんの力も事実。アンノウンが存在することも事実。ですが、それらがなぜ存在するのか、その理由はまだ仮説の域を出ません」
俺は腹部を無意識に撫でていた。ベルトは出していない。今はただの腹だ。だが皮の下に何かが眠っている感覚は、昼間になっても消えなかった。闇の力と光の力。本来なら交わらない二つが、俺の中で偶然混ざった。その先で何が生まれるか、神でさえ知らないと沢木は言った。
神でさえ知らない。
その言葉が、今朝も腹の底に沈んでいる。
「先輩、俺、昨夜一睡もできなかったんです」
言葉が途切れた。自分でも何を言いたいのか分からない。ただ口を開いた。
「眠ろうとしても、沢木さんの言葉が頭から離れなくて。闇の力が人間を愛したって。グロンギも元は人間だったって。クウガの究極の闇も、闇の力に由来するって。全部、ぐるぐる回って」
指先が膝の上で落ち着かなく動いているのに気づいた。止めようとしたが止まらなかった。
「結城くん」
つる子先輩の声が、いつもより柔らかかった。
「あなたが眠れなかったのは、過去の話が怖かったからですか。それとも、自分の未来が見えないからですか」
俺は口を開きかけて、止めた。どちらとも答えられなかった。過去が怖いのでも未来が怖いのでもない。ただ、自分の中にあるものが何なのか、一向に分からないことが怖い。自分が人間に戻れるのか、戻れないのか、それすら誰にも分からないことが。
「…両方、です。たぶん」
それしか言えなかった。つる子先輩は俺の目を見ていた。その瞳は何も言わずただ待っていた。
「俺の中にある力が、闇なのか光なのか、それとも別の何かなのか。エクリプスフォームになった時、感情が消えた。あれが闇の力のせいなのか、光の力のせいなのか、それとも二つが混ざったせいなのか。誰にも分からないんです。沢木さんにも、神にも」
「ええ。そうです」
「じゃあ俺はどうすればいいんですか。力を使うたびに人間から遠ざかるかもしれない。でも使わなきゃ誰も守れない。だったら使うしかないけど、使った先で俺が俺でなくなったら」
言葉が止まった。喉の奥が詰まったような感覚。自分でも何を言いたいのか分からなくなっている。
つる子先輩は万年筆を置き、俺の手を見つめた。俺の手はまだ膝の上で落ち着きなく動いていた。
「結城くん。私は昨夜、あなたが教室から去った後もずっと考えていました。沢木さんの話を聴きながら、一つだけ気になったことがあるのです」
「何ですか」
「沢木さんは、あなたの未来を語りませんでした。過去の系譜は詳らかにしました。闇と光の対立も、クウガとアギトの意味も。ですが、あなたがこれからどうなるか、何になるべきかについては、何も言わなかった」
俺は昨日の教室を思い出した。沢木の最後の「神でさえ知らない。お前がその先で何になるのか」という言葉。
「だからこそ、彼はあなたに話したのだと思います」
「どういう意味ですか」
「誰もあなたの未来を決めつけていない、ということです。闇の力も光の力も、沢木さんも、あなたが何になるかを定めていない。それは怖しいことかもしれませんが、同時に、誰にも奪われないということでもあります」
俺はその言葉を噛みしめた。誰にも決めつけられていない。それは自由ということなのか。それとも、誰にも助けられないということなのか。
「先輩は、俺が人間に戻れると思いますか」
つる子先輩は少し間を置いてから、静かに首を横に振った。
「それは私には分かりません。ごめんなさい。知ったかぶりをしてお慰めする言葉は、あなたにも私にも何の役にも立ちませんから」
正直な言葉だった。いつものつる子先輩なら、知識を並べて何か答えを出そうとするはずだ。だが今の彼女は知識を手放していた。そして、その正直さが何よりも痛かった。
「ですが、一つだけ言わせてください」
彼女は眼鏡のブリッジを押し上げた。その指先が微かに震えていたのが見えた。
「沢木さんの話だけで、あなたの未来を決めつけてはいけない。彼が語ったのは過去の話です。あなたがこれから何を選ぶかは、あなたが決めることです。私たちがすべきなのは、あなたの選択を観測することであって、決めることではない」
俺は手のひらを開いた。昨夜、エクリプスフォームでエルを砕いた拳。今はただの人間の手。だがその奥に、力が眠っている。
「観測、ですか」
「ええ。博覧強記とは、知識を集めるだけではありません。目の前の事実から目を逸らさないことですわ。あなたが人間に戻るのか、別の何かになるのか、それは私が決めることではない。けれど、その過程を私は見届けたい。記録したい。それが私にできる、唯一の誠実な戦い方です」
俺は少し笑えたかもしれない。いや、笑えたかどうかは分からない。ただ、肩の力がほんの少しだけ抜けた。
「ありがとうございます、先輩」
「礼には及びません。不束者ですが、最善を尽くします」
窓の外では、朝の光が完全に大学の庭を照らしていた。昨夜の教室にあった影は、もうどこにもなかった。いや、影は消えたのではなく、日が昇ったから見えなくなっただけなのだろう。夜になれば、また影は戻ってくる。
俺は自分の腹部をもう一度撫でた。何も感じない。ただの腹だ。だが夜になれば、また何かが目を覚ます。
それでも今は、朝の光の中にいる。それだけで十分だった。いや、十分にしなければならなかった。