金が引かれた。
腹の奥から、何かが引き抜かれ始めた。物理的な痛みではない。もっと根本的な、自分を構成する要素そのものが根こそぎ剥がされる感覚。
アギトの種。光の残滓。あかつき号以前から俺の中に眠っていた進化の胚芽。それが、青年の手によって外へ引き出されようとしていた。
ざわり。
だが、引かれた光は途中で止まった。
アマダムの闇が、それに絡みついたのだ。
俺の中で、二つの力が互いへ食い込んでいる。光が引かれれば闇がそれを追い、闇が掴めば光がそれを巻き込む。引き抜こうとする力と、離すまいとする力が、俺の身体の力が拮抗していた。
青と金の光脈が、装甲の表面に不規則に浮かび始めた。アビスの青、フロストの白銀、グラビティの紫、それらが混ざり合う前の、まだ名前のない色が、亀裂のように全身へ走る。エクリプスの兆候だ。だが、今はまだ、完全な日食ではない。
(割れる)
そう感じた。自分が二つに割れるのではない。二つの力が互いを放さないために、容器である俺自身が内側から砕けようとしている。
青年の手が、微かに震えたのが見えた。俺の腹部へ伸ばされたその手が、何かに抗うように指先へ力を込めている。だが、引いても引いても光が完全に抜けない。闇が、根のように光へ絡みついて離さないのだ。
そして、俺は理解した。感覚として理解した。
アギトの種とアマダムの欠片は、もう一つではない。二つが互いの根を絡ませ、一つの生命維持機構を構成している。片方だけを引き抜けば、残った方は崩壊する。いや、崩壊するのは力ではない。容器である俺自身が壊れる。
「…くっ」
声が出た。自分の声なのか分からなかった。だが、喉から空気が漏れた。
視界が揺れている。青い夜と金色の昼が、交互に明滅する。感情が、また平坦になり始めていた。エクリプスフォームになった時と同じ感覚。恐怖が薄れ、怒りが薄れ、痛みさえ遠くなっていく。
このまま放っておけば、二つの力が拮抗したまま俺の中で日食が完成する。そうなれば、もう戻れないかもしれない。
「結城くん!」
声が、届いた。
つる子先輩の声だ。遠い。とても遠い。水底から水面を見上げるような距離。
「結城くん! 結城くん!」
名前を呼ばれている。何度も何度も。懇願するように、祈るように、俺の名前を繰り返している。
名前。俺の名前。結城。俺は、結城だ。
だが、その名前さえ、輪郭を失いかけていた。水に溶けるインクのように、自分が何者であるかの境界が滲んでいく。
「おれに任せろ。お前には救えない」
別の声が、割り込んだ。低く、重い。木野薫だ。どこにいるのか見えない。だが、その声だけが、鋭く闇を切り裂いて届いた。
「力ではなく、自分の意志を見失うな。お前がお前である理由は、力にあるのではない」
木野の声は、冷たかった。だが、その冷たさの中に、かつてのアナザーアギトの排他性はなかった。あるのは、同じ深淵を覗き込んだ者だけが知る、静かな警告だった。
意志。
俺の意志。
俺は、何者になりたいのか。力か。人間か。それとも。
いや、違う。何になりたいかではない。何であってほしいと願われているのかでもない。
俺は、戻りたいのだ。
沈みたくない。だから、戻りたい。
その一つの願いが、平坦になりかけた感情の底で、小さく燃えていた。日食の中心で、最後に残った光。
俺の拳が、開いた。
握りしめていた指が、一本ずつ緩んでいく。掌が開く。そこには何も握られていない。力も、恐怖も、憧れも。ただ、空っぽの手がある。
だが、その空っぽの手が、つる子先輩の声と木野の言葉が届いた証だった。返事の代わりに、掌を開いた。それが、今の俺にできる精一杯の応答だった。
その瞬間、青年の手が弾かれた。
バリリッ!
鋭い音が、夜の臨海部に響いた。青年の手が俺の腹部から弾き飛ばされ、彼ごと後方へ弾かれる。
二つの力が、分離を拒んだのだ。
アギトの種とアマダムの闇は、既に一つの生命維持機構として融合している。片方だけを引き抜けば、容器ごと壊れる。青年にも、この融合を解除することはできなかった。無理に続ければ、俺を人間へ戻すのではなく、命ごと壊してしまう。
青年が、数歩後退して俺を見た。その瞳に、初めて動揺が見えた。計算外なのだ。彼の力をもってしても、二つの力を分離できない。それは彼にとっても予想外の事象だったのだろう。
俺は、立っていた。まだ立っている。
だが、身体中が軋んでいた。二つの力が拮抗した反動が、骨の髄まで響いている。装甲の表面に浮かんでいた青と金の光脈が、少しずつ消退していく。エクリプスは、完成しなかった。だが、完全に元に戻ったわけでもない。
俺は、自分の意志で、ベルトの力を解除した。
漆黒の装甲が、音もなく分解されていく。角が砕け、複眼が消え、黒い鎧が霧のように晴れていく。
変身が、解けた。
生身に戻った俺は、そのまま膝から崩れ落ちた。膝がコンクリートにぶつかる音が、やけに大きく響いた。
荒い呼吸。冷たい夜風が汗ばんだシャツを急速に冷やしていく。心臓の鼓動がうるさい。いや、うるさいということは、まだ感じているということだ。まだ、人間だ。
「結城くん!」
つる子先輩の足音が近づいてきた。駆け寄ってくる彼女の靴音が、夜の静寂を破る。
俺は地面に手をついたまま、顔を上げられなかった。上げたくなかった。今、つる子先輩の顔を見て、安心した表情を向けられたら、それに縋ってしまいそうだった。自分の足で立つ理由を、誰かの安心に委ねてしまいそうだった。
「…大丈夫、です」
掠れた声が出た。大丈夫ではない。だが、生きている。壊れていない。
木野の足音は、近づいてこなかった。遠くから、俺を見下ろしている気配だけがあった。何も言わず、ただ立っている。だが、その沈黙が今の俺には必要だった。
青年は、弾かれた手を見つめていた。そして、ゆっくりと顔を上げ、俺を見た。その瞳には、敵意よりも困惑が勝っていた。
「…分離不能、か」
青年が初めて、俺に対して明確な反応を示した。それは、勝利でも敗北でもない。ただ、理解できないものに直面した者の表情だった。
俺は地面に手をついたまま、自分の掌を見た。汚れた掌。擦りむいた指先。人間の手だ。
戻った。いや、戻ったのか。まだ分からない。だが、今は、ここにいる。
それだけは、確かだった。