翌朝の大学は、昨日と同じように明るかった。
白い日差しが研究室の窓から差し込み、つる子先輩の机の上を均等に照らしている。ノートパソコンの画面が光を反射し、積み上げられた資料の山が影を作っている。平和な朝の風景だ。
だが、その平和さに似合わないものが二つ、研究室へ入ってきた。
「…芦原さん」
俺は椅子から立ち上がりかけて止まった。芦原さんの服が破れていたからだ。左肩から腕にかけてシャツが裂け、その下の肌に乾いた血が黒くこびりついている。顔にも薄い擦り傷があり、目の下には濃い隈が刻まれている。
芦原さんは、それを気にする素振りも見せず、部屋の椅子へ腰を下ろした。革ジャンの背中が擦れる音が、静かな研究室に響いた。
そしてその後ろから、木野薫が入ってきた。
木野は壁際に立った。椅子には座らなかった。黒いタートルネックに暗色のジャケット。いつもの服装だ。だがその右腕が、無意識に腹の前へ抱かれている。力を失った右腕。弟の右腕。そこに宿っていたアギトの力はもうない。
木野の表情は変わらなかった。何一つ変わらなかった。ただ、壁に背を預け腕を組むその姿が、以前よりも少しだけ壁に近い気がした。自分の無力さを壁で隠しているように見えた。
「先輩、お茶を」
つる子先輩が、既にポットへ手を伸ばしていた。彼女は芦原さんの傷に視線を向けたが何も言わなかった。何も言わないことが、今の彼女なりの配慮なのだろう。
「芦原さん、その傷」
俺は口を開いた。芦原さんは、薄く笑った。
「ああ、これか。大したことない。木野に比べりゃ」
「俺のことはいい」
木野が、短く遮った。
「芦原を襲ったのは昨夜の男だ」
俺の背筋が伸びた。昨夜の男。あの青年。俺の力を引き剥がそうとして弾かれた青年。
「昨夜、俺が力を失っている間に彼は動き、芦原を襲った」
木野は壁に背を預けたまま淡々と語り始めた。
「芦原は変身して応戦したが、あの男の力は桁違いだ。ギルスの攻撃は全部防がれた。一方的にな」
芦原さんが、苦い顔で頷めた。
「全然届かなかった。あいつ、俺の蹴りを掌で受け止めてそのまま投げ飛ばしてきた。アンノウンともあの鯨とも違う。もっと…干渉的な力」
俺は拳を握りしめた。あの青年が、俺から力を奪えなかった。その反動で手が弾かれた。だが、諦めたわけではないのだ。俺からは奪えないなら、他のアギトから力を奪おうとしている。
「それで、どうやって逃げたんですか」
俺の声は低かった。
「それが妙なんだ」
木野が、初めて壁から背を離した。
「あの男が芦原を追い詰めた時だ。突然右手を押さえて苦しみ出した。まるで内側から何かが暴れ出しているみたいに。その隙に芦原が逃げた」
右手を押さえて。
俺は、昨夜のことを思い出した。青年が俺の腹部から手を弾かれた瞬間。あの時、二つの力が分離を拒んだ反動が青年の手を弾き飛ばした。
「それは俺のせいです」
言葉が口から滑り出た。
「あの男が俺から力を奪おうとして弾かれた。その反動が、まだ残っていたんです。俺の中の二つの力が拒絶した波動が、あの男の身体にも残っていたんだと思います」
木野が、俺を見た。その瞳が少し細められた。
「そうか。お前の中の力が、あの男へ跳ね返ったのか」
「はい。だから、芦原さんが助かったのは、俺があの男に拒絶したからで…」
言葉が途切れた。喉の奥が詰まったような感覚。
自分が助かった代わりに、別の誰かが狙われた。
その事実が、胃の底に鉛のように沈んでいった。あの青年は俺から力を奪えないと悟った。だから標的を変えた。俺より脆弱なアギトへ。力の源が一つしかない者へ。そしてその結果、芦原さんが傷ついた。
「結城くん、違います」
つる子先輩の声が、静かに割り込んだ。
「あなたがあの男に拒絶されたからこそ芦原さんが逃げられた。それはあなたのせいではありませんわ。むしろあなたの中の力が芦原さんを守ったとも言えます」
「でも、あの男が俺に来ていたら芦原さんは襲われなかったかもしれない」
「かもしれない話には意味がありません。起きたことを積み上げていくのが私たちのすべきことです」
彼女の声は、冷静だった。だがその冷静さの裏に痛みがあるのが分かった。
「…はい」
俺は小さく頷いた。だが胃の底の鉛は消えなかった。
「それで芦原。あの男は何か言っていたか」
木野が話を戻した。芦原さんは、腕の傷を無意識に押さえながら記憶を辿った。
「あいつ…俺を追い詰めた時に言ったんだ。『君の力は一つだ。分離できる』って。俺の力なら奪えるって意味だと思った」
「俺からは奪えなかった。だから標的を変えたんだ」
俺は呟いた。
「あの男は、俺の力を諦めたわけじゃない。奪えないと分かっただけで、他のアギトの力はまだ回収するつもりだ」
木野が頷いた。その表情は変わらなかったが拳を握る力が強くなっていたのが見えた。
「あの男の狙いはアギトの力を集めることだ。お前の中の二つの力は奪えないが、他のアギトからなら一つずつ奪える」
「じゃあ津上さんも危ないってことですよね」
俺は立ち上がった。椅子が後ろへ滑る音が響いた。
「津上さんも芦原さんも、力が一つしかない。あの男にとっては奪いやすい標的だ」
「ああ。だが今のお前には何ができる」
木野の声は冷たかった。だその冷たさは正論だった。
「昨夜の反動で消耗しているのはお前もだろ。無理に変身すればまたエクリプスフォームになりかねない。そうなれば今度は戻れる保証がない」
俺は言葉を詰まらせた。木野の言う通りだ。昨夜の反動で身体はまだ軋んでいる。変身への抵抗感が普段よりも強い。腹の奥に眠るアマダムの欠片も静かだ。完全に沈黙しているわけではないが、普段のような確かな脈動を感じない。
「今は無理です。でも」
「でもじゃない」
木野が一歩前に出た。壁を離れたその背筋が、力を失ってもなお直立していた。
「お前が守りたいと言ったのは昨夜だ。守ると決めたなら、守れる時に守れ。消耗している時に無理をして共倒れになったら誰も守れない」
正論だった。痛いほど正論だった。だが正論だけでは何も動かない。
「木野さんの言う通りです、結城くん。今は休むことも戦いの一部です。それに私たちにはやるべきことがあります」
つる子先輩が、ノートを開いた。
「あの青年の行動パターンを整理するのです。彼が次に誰を狙うか予測できれば、先回りできます」
「…先輩」
「それが私にできる戦い方ですから」
芦原さんが椅子から立ち上がった。血の乾いたシャツが動く度に擦れる音がした。
「俺は戻るよ。津上にも伝えておく」
「芦原さん、その傷、病院へ行った方が」
「大したことないって」
芦原さんは手を振って研究室を出ていった。ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
残されたのは俺とつる子先輩と木野の三人。
木野は再び壁へ背を預けた。だが今度は腕を組まなかった。両手がだらりと下げられている。力を失った右腕と、その右腕に宿っていた弟の力。それらが今は何もない空へ向かって伸びている。
「木野さん」
俺は呼んだ。木野は視線だけをこちらへ向けた。
「昨日言ったこと覚えていますか。あなたの力を取り戻す手伝いをするって」
「覚えている」
「あれはまだ有効です。でも今は俺も消耗しているので…」
「分かっている」
木野は短く答えた。そして微かにだけ口元を緩めた。
「お前は本当に甘いな」
「そうかもしれません」
「だが甘いだけならとっくに死んでいる。お前は甘い上に頑固だ」
それが褒め言葉なのか皮肉なのか分からなかった。だた木野がそう言った時その声には以前のような排他的な冷たさはなかった。
窓の外で朝の光が一段と強くなった。昨日も今日も光は同じように昇る。だが昨日と今日で世界は確実に変わっている。
あの青年はまだ動いている。俺からは力を奪えないと知った今、他のアギトへ標的を向ける。津上さんも芦原さんも危ない。そして木野さんの力を取り戻す方法もまだ見つかっていない。
やるべきことは多すぎる。俺の力はまだ足りない。
だが、今朝の光の中で俺は自分の手を見た。昨夜と同じ掌、昨日と同じ傷、今日も同じ人間の手だ。
まだ人間だ。それだけで今は十分だった。いや十分にしなければならなかった。