仮面ライダーアルタ   作:ボルメテウスさん

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父と姉の接点

美杉家の玄関を叩いた時、キッチンから漂う味噌汁の匂いが鼻を突いた。

 

何の変哲もない朝の匂いだ。豆腐とわかめのシンプルな味噌汁。それがドアの隙間から漏れてきて、平和そのものの日常を告げている。

 

ドアを開けたのは翔一さんだった。エプロンを付けたまま、菜箸を右手に持っている。いつもの柔らかい笑み。だが、俺たちの顔を見た瞬間、その笑みが少しだけ硬くなった。

 

「結城くんに…木野さんに芦原さんも。それに千羽さんも。朝から全員揃うなんて、珍しいですね」

 

「話があるんです津上さん。中へ入れてもらえませんか」

 

俺が言うと津上さんは少しの間俺の顔を見つめた。それから何も聞かずに身体を横へずらした。

 

「どうぞ。朝ごはん、まだ足りると思うよ」

 

リビングに入ると真魚さんがいた。テーブルの向こう側で、古いアルバムを開いている。朝の光が窓から差し込み白いテーブルクロスを明るく染めている。その明るさの中で真魚の指が止まっていた。一枚の写真の上で。

 

「あ、すみません。片付けるので」

 

真魚さんが慌ててアルバムを閉じようとした。だが、その前に津上さんが一歩近づいて写真を覗き込んだ。

 

「これ…」

 

津上さんの声が、少し変わった。

 

写真には二人の人物が写っていた。一人は若い頃の風谷伸幸。真魚の父親だ。そしてその隣に立っているのは若い女性。長い髪を風に流し、柔らかい笑みを浮かべている。

 

「姉さんだ」

 

津上さんが呟いた。

 

「雪菜…」

 

雪菜。沢木雪菜。津上さんの姉。津上さんが記憶を失う前の生活の中心にいたはずの存在。

 

「お父さんと…雪菜さんが一緒に写ってるの」

 

真魚さんが不思議そうに写真を見つめている。その指先が伸幸さんの顔に触れた。

 

「ああ。裏に『日政大学理学部 懇親会』って書いてある。どうやら同じ大学だったみたいだ」

 

津上さんはそう言いながら、写真を手に取った。その指先が微かに震えているのを俺は見た。

 

「同じ大学…」

 

真魚さんが呟いた。そして何かを思い出したように目を伏せた。その表情が一瞬だけ歪んだのを、俺は見逃さなかった。

 

「真魚ちゃん、君のお父さんって」

 

津上さんが言いかけた時、廊下から足音が聞こえた。美杉義彦。この家の主人であり、真魚さんの叔父にあたる男が、朝刊を手に入ってきた。

 

「おや皆さん揃って。朝ごはん一緒にどうですか」

 

美杉さんは穏やかな声で言った。だがテーブルの上のアルバムに目が止まるとその穏やかさが一瞬だけ凍りついた。

 

「その写真は…」

 

「ああ先生これ見て下さい。姉さんと真魚ちゃんのお父さんが一緒に写ってるんですよ。同じ大学だったみたいで」

 

津上さんが無邪気に差し出した写真を美杉さんは受け取らなかった。いや、受け取れなかったのだ。その手が空中で止まり、写真の表面に視線を落とした。

 

「雪菜の…」

 

美杉さんの声が掠れた。

 

「先生知ってたんですか。姉さんが伸幸さんと面識があったことを」

 

津上さんの問いかけに美杉さんはすぐに答えなかった。写真を眺める視線がどこか遠いところへ向いている。若い頃の伸幸さんと雪菜さんが並んで笑っている写真。その二人の間に何があったのか何がなかったのかを、美杉さんだけが知っているかのように。

 

「…昔の話だ」

 

美杉さんはそれだけ言い、キッチンへ向かった。背中が、僅かに丸まっているように見えた。

 

俺はその背中を見送りながら口を開かなかった。津上さんも真魚さんも沈黙している。テーブルの上には味噌汁の湯気と開いたままのアルバムと二人の若い写真だけが残された。

 

「翔一くん」

 

真魚さんが小さな声で切り出した。

 

「私、お父さんが死んだ日のことを覚えているの」

 

津上さんが顔を上げた。俺もつる子先輩も黙って聞いた。木野さんは部屋の隅に立ち、壁に背を預けたまま動かない。

 

「お父さんが倒れていた場所に私が来た時、もう意識がなかったの。でもその前に誰かがいた気がして、お父さんに何かを託されて誰かが立ち去るところを、私は遠くから見たの」

 

「誰かって」

 

津上さんの声が低くなった。

 

「分からない。ただその人の背中が…」

 

真魚さんは言葉を切った。そして津上さんの顔を見た。津上さんは何かを思い出している。遠い記憶の底へ沈んでいくような目をしている。

 

「俺も覚えている」

 

津上さんが静かに語り始めた。

 

「あの日、姉さんと待ち合わせをしていたんだ、駅前の広場で。でも姉さんは来なかった。代わりに連絡があって場所を変えることになったから、俺は急いで向かったんだ」

 

津上さんの手がテーブルの上で握りしめられた。

 

「着いた時にはもう遅かった。伸幸さんが倒れていた。瀕死で意識がほとんどなかった。でも最後に何かを言ったんだ。俺に何かを託して。それから力尽きた」

 

「それでお父さんは…」

 

「ああ」

 

沈黙が降りた。真魚さんは写真の上の伸幸さんの顔を指先で撫でていた。父親の死の場面を見た罪悪感。自分が何もできなかったという事実が、彼女の指先に宿っているかのように。

 

津上さんは写真の雪菜を見つめていた。姉に会えなかった後悔。待ち合わせの場所へ行けば会えたかもしれない、伸幸さんを救えたかもしれないという後悔。

 

二人の間にはそれぞれの傷がある。重なる部分と重ならない部分がある。そしてその傷の底に、まだ語られていない何かがある。

 

俺は何も言えなかった。軽々しく答えを差し込むには二人の沈黙が深すぎた。

 

「津上さん」

 

つる子先輩が静かに口を開いた。

 

「あなたが風谷さんに託されたものは、今どこにあるのですか」

 

津上さんは顔を上げた。

 

「それが分からないんです。記憶がその先で途切れている。あの日から俺の記憶は海辺で倒れているところまで飛んでしまう。何を託されたのか、その後どうなったのか全部」

 

津上さんは微笑んだ。いつもの柔らかい笑み。だがその笑みの下に、深い穴が口を開けているのが見えた。

 

「だから俺は記憶を取り戻したい。ただ自分が誰だったかを知るためだけじゃない。あの日何が起きたのか、姉さんと伸幸さんの間で何があったのかそれを知りたい」

 

真魚さんが顔を上げた。

 

「私も知りたいです。お父さんが何を託したのか、誰に託したのか」

 

二人の視線が交差した。共通の問いを持つ二人の視線。

 

俺はその視線の間に入る言葉を持たなかった。

 

廊下から美杉さんの足音が戻ってきた。彼はキッチンの入り口に立ち、テーブルに置かれた写真を見ていた。

 

「雪菜のことを調べるのか」

 

美杉さんの声は静かだった。だが、その静けさの中に動揺の跡が残っていた。

 

「ええ、先生。姉さんが伸幸さんとどういう関係だったのか知りたいんです」

 

津上さんが答えると美杉さんは長い間黙っていた。

 

「…今は話せない」

 

その言葉だけを残して、美杉はキッチンへ戻っていった。

 

津上さんと真魚さんは顔を見合わせた。俺は二人の間の沈黙を見守ることしかできなかった。

 

つる子先輩が万年筆をノートに走らせる音だけが、リビングに響いていた。

 

俺は自分の手を見た。昨夜エクリプスフォームでエルを砕いた拳今日は誰かの傷を癒すこともできないただの手。

 

津上さんの後悔も真魚さんの罪悪感も美杉さんの沈黙も、今の俺にはどうすることもできない。ただこの場所でこの問いが存在することを知ること、それしかできなかった。

 

朝の光は明るいままだった。味噌汁の湯気はまだ細く立ち昇り、家族写真の中の雪菜と伸幸は変わらぬ笑みで並んでいた。

 

だが、この明るい食卓の下で、誰も答えを持たない問いが三つ四つと転がっている。

 

俺は拳を握りしめた。そして、本来ここへ来た目的である青年の話をまだしていないことに気づいた。

 

だが、今この沈黙を壊すのは躊躇われた。津上さんと真魚さんの間にある傷の重さに比べれば、青年の脅威は後でいい気がした。

 

いや、後でいいと思ってしまっている自分に気づいた。それが正しいのか間違っているのか分からないまま、朝の光の中で俺はただ座っていた。

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