警察署の地下資料室は、地上の穏やかな陽射しから隔絶された場所だった。
蛍光灯が点滅し湿った空気の中に埃の匂いが漂う。無機質な金属製の棚が並びそこに収められたファイルや証拠品たちはまるで墓標のように冷たく静まり返っていた。
北條透は資料室の隅にある作業机に数点の品を並べた。彼の表情は硬く、その眼鏡の奥には警察官としての冷徹な光が宿っている。
「これが風谷伸幸の遺品であり、事件当時彼が持っていたものです」
北條さんが指差したのは三つの品だった。
一つは古い手紙。茶封筒に入ったそれはもう黄ばんでいる。
二つ目はノイズの走ったビデオテープ。ケースには何も書かれていないが中身が何であるか想像するだけで背筋が寒くなる。
そして三つ目。
俺は息を呑んだ。テニスボールだった。だがそれは通常のものではなかった。ボールが裏返しになっていたのだ。ゴムの内側が外へ剥き出しになり、まるで裏返しになった心臓のように不気味な赤色を晒している。これを不穏と呼ずになんと言えばいいのか。
「あのボール…」
真魚さんが小さく呟いた。彼女の手が震えながらテニスボールへ伸びる。
「真魚ちゃん」
津上さんが止める間もなく真魚の指先が裏返しになったゴムに触れた。
「あっ…!」
真魚の目が見開かれた。彼女の瞳から光が消え代わりに何か別の景色が映し出されているのが分かった。透視だ。
「見える…苦しんでいる…女の人が…」
真魚さんの声が震えている。
「力が…身体から溢れ出していく…光…変わりたくないのに変わっていく…!」
その光景が見えない俺でさえ、真魚さんの言葉からありありと想像できた。
女性が苦悶の声を上げながらその身体が異形へと変わっていく。拒絶しても抗えない進化の奔流。アギトへの変容。
「姉さん…」
津上さんの声が絞り出された。彼の手がきつく握りしめられているのが分かった。
「姉さんが…アギトに?」
真魚さんの手がボールから離れた。彼女は膝から崩れ落ちそうになり机に手をついた。
「それだけじゃない…その人は…殺そうとしている…誰かを…」
その言葉が重く落ちた。
津上さんが顔を上げた。その表情は歪んでいた。信じられないという気持ちと否定したいという願いと、それでも浮かび上がってしまう最悪の疑念。
「姉さんが…風谷さんを…殺したのか?」
誰も答えられなかった。
北條さんが冷ややかに口を開いた。
「これで明白でしょう。アギトもまた人間への脅威になり得るということが」
彼の言葉は冷酷な事実として突き刺さった。
俺は否定したかった。アギトは人間を守る力だ。津上さんはそう使っている。俺もそうありたいと願ってきた。
だが否定できなかった。
エクリプスフォーム。
感情が消え冷徹な破壊衝動だけが残ったあの時。あれは人間への脅威だった。もし俺があの時完全に人間性を失っていれば誰を傷つけていたか分からない。
「確かにそうかもしれません」
俺の口から出た言葉は津上さんをさらに深く傷つけたかもしれない。だが嘘はつけなかった。
「待ってください」
つる子先輩の声が静かに響いた。彼女は一歩前に出て北條と対峙した。
「事実と仮説を混同してはいけません」
彼女の声は冷静だった。いつものように知識を整理する時の落ち着いた声だった。
「確認できた事実は沢木雪菜さんがアギトの力に覚醒した可能性が高いということです。真魚さんの透視もそれを裏付けています」
つる子先輩は津上さんの方を向いた。
「ですが沢木雪菜さんが風谷伸幸さんを殺害したというのはまだ仮説にすぎません。殺害の意図があったのか事故だったのか、あるいは全く別の犯人がいるのか、そこまではまだ分からないのです」
「でも姉さんが…」
津上さんの声は震えていた。
「仮説であっても可能性がある以上、私は真実を知りたい」
津上さんは顔を上げたその目には決意が宿っていた。
「沢木さんなら知っているかもしれない。あの人は俺の過去を知っている」
彼は踵を返した。
「津上さん!」
俺が呼び止めようとしたが彼は振り返らなかった。
「待ってくれ結城くん。これは俺が行かなきゃいけないんだ」
津上さんが資料室を出ていった。
俺も追いかけようとしたその時だ。
ポケットの中で携帯が震えた。画面を見ると木野薫からの着信だった。
「木野さん?」
『芦原がまた狙われた』
電話越しの声は低く緊迫していた。
『あいつだ、昨夜の男だ。芦原の居場所を掴んだ』
「どこですか!」
俺は場所を聞き出した。津上さんが走っていった方向とは逆だ。
俺はつる子先輩を見た。彼女は頷いた。
「行ってくださいま、結城くん。こちらは私が」
「でも真魚さんが…」
「大丈夫です。不束者ですが、人一人守るくらいはできます」
彼女の目は揺るぎなかった。
俺は頷いた。
「お願いします」
俺は走り出した。
津上さんは過去へ走った。
俺は現在へ走る。
反対方向へ。
地下資料室を出て階段を駆け上がり地上へ出る。
陽射しが目に痛い。