走るたびに腹の奥が軋んだ。
昨夜の反動がまだ残っている。アマダムの欠片とアギトの種が引き裂かれそうになった負荷が、骨の髄に凝り残っている。息を吸うたびに肋骨の付け根が痛む。走るなと身体が叫んでいる。だが足は止まらなかった。
木野さんから送られた位置は工場地帯の外れ、運河沿いの廃材置き場だった。前夜の廃工場とも港とも違う。だがどの場所も同じ匂いがする。錆びた鉄と湿ったコンクリートと、夜の闇に溶けた暴力の匂いだ。
バイクを降りた時、足首に鋭い痛みが走った。昨日の戦いで捻った箇所だ。無視した。無視することにした。
廃材置き場の入口を潛ると、月明かりに照らされたコンクリートの地面に点々と散らばる黒い染みが見えた。血だ。乾きかけの血が不規則な軌跡を描いている。それを辿ると奥の方から金属がぶつかる音と荒い息遣いが聞こえてきた。
「芦原さん!」
声を張った。返事はなかった。代わりに聞こえたのは、低い唸り声と何かが地面を削る音だ。
駆け寄るとそこにいた。
芦原さんがいた。ギルスの姿のまま、崩れかけたコンクリート塊に背を預けている。装甲のあちこちに亀裂が走り左肩の装甲は半分以上が砕け落ちていた。その下の生身が覗いているのが月明かりに白く浮かんでいる。息が荒い。一本一本の呼吸が、まるで硝子の破片を飲み込んでいるかのように鋭い。
そしてその前に立っていたのは二つの影。
一つは青年だった。昨夜の男。俺の力を奪おうとして弾かれた男。白いシャツが夜風に微かに揺れている。その右手は…前夜と同じように腹の前へ抱かれていた。だが立っている。立って芦原さんを見下ろしている。
もう一つはアンノウンだ。蛇を模したのか鋭い鱗に覆われた細身の体躯。アンノウンは芦原さんの正面に立ちその鋭い爪を振り上げていた。青年の指示で動く狩りの狗だ。
「俺に…構うな…」
芦原さんの声が掠れていた。変身したままのギルスの声は低く歪んでいるがその奥にある疲労は隠せなかった。
俺は返事をしなかった。返事をする余裕がなかった。
代わりに走った。青年とアンノウンの間へ割り込むために。
右手が腹へ伸びた。ベルトを呼び出すための動作。だが指先が腹に触れる直前に止まった。
震えていた。指先が微かに震えていた。昨夜エクリプスフォームになった時の感覚が指先に残っている。あの冷たさ。あの平坦さ。感情が水に溶けるように消えていく感覚。もし今変身してまたあそこへ行ってしまったら今度は戻れる保証がない。
手を引いた。
代わりに芦原さんの腕を掴んだ。ギルスの装甲ごと腕を掴み地面へ引き倒す。その一瞬の隙を突いてアンノウンの爪が空を切った。
「くそっ、離せ!」
芦原さんが抵抗する。だがその力は弱かった。ギルスの装甲が軋む音が嫌に大きく響く。
「逃げてください、芦原さん」
俺は短く言った。
「まだ間に合います。俺が逃げ道を作りますから」
「お前何言ってんだ。俺は逃げない」
「逃げてください」
俺は繰り返した。声が少し高くなった。
アンノウンが再び動いた。蛇のような身のこなしで地面を滑るように接近してくる。俺は芦原さんを背後に庇い、アンノウンの進路へ身体を割り込ませた。
アンノウンの爪が右肩を掠めた。皮膚が裂ける熱い痛みが走る。だが深くはない。受け流した。身体の軸を相手の力の方向へ傾け爪の軌道を逸らす。カウンターだ。俺の戦い方は元々受け流して返すスタイルだ。今もそれで通す。
アンノウンの攻撃をいなしながら視線は青年にも向けていた。青年は動かない。ただ見ている。アンノウンに芦原さんを追い詰めさせているのは青年だ。だが青年自身は手を出していない。
「結城」
木野さんの声が背後から聞こえた。いつの間に来たのか気配もなく近づいていた。
「お前の身体を見れば分かる。昨夜の反動でまだ変身への負荷が残っているはずだ」
木野さんは壁際に立っていた。変身できない身体。だがその目は鋭く戦況を読んでいる。
「無理な変身をするな。エクリプスフォームになったら今度は制御できる保証がない」
「分かっています」
分かっている。分かっているから手が止まったのだ。だが分かっていても迷いはある。
エクリプスフォームになれば届くかもしれない。あの力があればアンノウンも青年も弾き飛ばせるかもしれない。昨夜エルの力を内側から崩壊させたあの力があれば。
だがあの力を使った後に誰を傷つけるか分からない。
エクリプスフォームになった時、俺は感情を失った。恐怖も怒りも誰かを守りたいという願いも全部消えた。もしまたあの状態になって今度は戻れなかったら、俺は目の前の芦原さんすら敵として認識するかもしれない。
「使えば届くかもしれない。でも使った後に誰を傷つけるか分からない」
俺は短く答えた。
木野さんは何も言わなかった。ただ静かに頷いた。
俺はベルトへ再び手を伸ばした。だが今度は迷わなかった。エクリプスではない。トリニティでもない。もっと基本的な力。制御できると信じられる一番小さな力。
「変身」
閃光が闇を灼いた。
アルタの基本形態。アビスフォーム。深い青の装甲が俺の身体を包む。重圧の波動が全身を巡るが昨夜のような暴走はない。これは制御できる。これはまだ俺のものだ。
アンノウンが再び襲ってきた。蛇のような身体をしならせ爪を連続で繰り出してくる。俺は最小限の動きでそれを受け流した。アビスの衝撃分散がアンノウンの攻撃力を減衰させる。受けた衝撃を全身へ散らし足元へ逃がす。基本中の基本だ。
アンノウンの三連撃目を掌で受け止め、その反動を利用して身体を回転させた。芦原さんの方へ背を向けたままアンノウンを右へ弾き飛ばす。その一瞬の空白に芦原さんの退路が開く。
「今です芦原さん下がってください!」
「だから俺は…!」
芦原さんが立ち上がろうとした。その時青年が動いた。
速い。
昨日も感じたあの速度。目で追えないほどの踏み込み。青年の右手が芦原さんの胸板へ伸びた。
「芦原さん!」
俺は飛び出した。間に割り込もうとした。だがアンノウンがそれを許さなかった。俺が青年へ向かって走り出した瞬間、アンノウンが進路を塞ぐように立ちはだかり、尾で俺の足を払った。
バランスを崩した。倒れ込む俺を尻目に青年の手がギルスの胸板に触れた。
「っ…あ…」
芦原さんの声が変わった。
悲鳴ではない。もっと乾いた音だ。空気の抜けた風船のような音。力が抜けていく音。
俺は地面に手をつき体勢を立て直した。だが遅かった。
青年の手が芦原さんの胸板から離れた瞬間、ギルスの装甲が音もなく崩れ始めた。亀裂が走り破片となって剥がれ落ちていく。変身が強制解除されていくのだ。
芦原さんの身体が前へ倒れかけた。俺は飛び込んでその身体を受け止めた。
重かった。
変身を解いた芦原さんの身体は予想以上に重かった。戦い続けた疲労と傷ついた身体と力を奪われた虚脱が、全てその質量となって俺の腕にかかってきた。
「芦原さん…芦原さん!」
返事はない。意識はあるのか。目を見ると焦点が定まっていなかった。ただその手がだらりと下がり掌が空へ向かっている。力が抜けた掌。かつてギルスの力を宿していた掌。
間に合わなかった。
俺がアンノウンに対処している一瞬の間に青年に力を奪われたのだ。もし俺がアンノウンを無視して青年へ向かっていれば。もしエクリプスを使っていれば。
もし。
その言葉が頭の中で何度も跳ね返る。
俺の手が腹へ伸びた。エクリプスへ手を伸ばしかけた。あの力なら今度こそ青年を止められるかもしれない。芦原さんの力を取り戻せるかもしれない。
指先が震えた。
冷たい。腹の奥が冷たい。あの感覚が蘇りかけている。呼びかけただけで日食が始まりかけている。
やめろ。
俺は自分の手を掴んだ。震える手をもう片方の手で握りしめた。
「結城くん!」
声が聞こえた。
遠くからだが確かに聞こえた。
津上さんの声だ。
振り返ると津上さんが走ってきた。革ジャンの裾が翻り、荒い息を吐きながらこちらへ駆け寄ってくる。
津上さんが来た。
俺は芦原さんを見下ろした。力の抜けた手を見つめる芦原さんの目には何も映っていなかった。何も答えなかった。「大丈夫だ」とも「すまない」とも言わなかった。ただ空っぽになった掌を見つめていた。
俺は芦原さんの身体を木野さんの方へ預けた。
「木野さん、お願いします」
木野さんは無言で芦原さんの身体を受け取った。力を失った木野さんの腕でも人の身体を支えることはできる。人の身体を支えることには力などいらない。
「行け」
木野さんが短く言った。
俺は立ち上がった。足が笑っている。全身が悲鳴を上げている。だが立ち上がった。
青年が津上さんの方へ向いたのが見えた。
視線が動いた。芦原さんから津上さんへ。次の標的が変わったのだ。
エクリプスを使えば救えたかもしれない。
だが使わなくて正しかったとも言えない。
どちらも結論づけない。結論づけられない。
ただ俺は立ち上がった。
津上さんを守るために。
今の俺にできることを探すために。
夜風が吹いた。冷たい。だがまだ感じている。冷たいと感じているうちは人間だ。
俺は前へ出た。