津上さんが走ってきた。
革ジャンの裾が翻り荒い息を吐きながら廃材置き場へ飛び込んでくる。その顔にはいつもの柔らかい笑みがない。代わりにあったのは北條の資料室で見せたのと同じ歪んだ表情だ。姉のこと。風谷伸幸のこと。まだ答えの出ない問いを抱えたまま津上さんはここへ来た。
青年が津上さんへ向いた。
その視線が芦原さんから津上さんへ移った瞬間空気が変わった。青年の右手が微かに震えているのが見えた。昨夜の反動がまだ残っているのかそれとも別の何かが起きているのかは分からない。だが青年は止まらない。標的が変わっただけだ。
俺は津上さんの前に立った。
アビスフォームの装甲が夜風に晒されている。全身の関節が軋む。昨夜の反動がまだ骨の髄に残っている。変身への抵抗感が普段の倍以上だ。腹の奥のアマダムの欠片が鈍く脈動しているがその波動は不安定だ。いつ暴走してもおかしくない。
「結城くん下がって」
津上さんが言った。
「下がりません」
「これは俺の問題だ」
「津上さんがそう言っても俺は下がりません」
俺は津上さんの前で構えを取った。アビスの青い装甲が月明かりに鈍く光る。
蛇型アンノウンが動いた。
地面を滑るように接近してくる。鱗に覆われた細身の体躯が夜闇の中で不規則に揺れながら迫ってきた。俺は前に出てその進路を塞いだ。
アンノウンの爪が右腕を掠めた。皮膚が裂ける痛みが走る。だが受け流した。アビスの衝撃分散が攻撃の力を半減させる。俺は最小限の動きでアンノウンの攻撃をいなし続けた。
だが青年まで届かない。
アンノウンを抑えるだけで精一杯だ。消耗した身体ではこれが限界だった。一歩でも青年へ近づこうとすればアンノウンが進路を塞ぎ爪を振るってくる。俺がアンノウンに対処している間に青年は津上さんへ近づいていく。
エクリプスなら届くかもしれない。
その考えが頭を掠めた。腹の奥が冷たくなる。日食が始まる予感。あの力を使えばアンノウンごと青年を弾き飛ばせるかもしれない。津上さんを守れるかもしれない。
手が腹へ伸びかけた。
指先が震えた。
冷たい。あの平坦さが蘇りかけている。感情が水に溶けていく感覚。恐怖も怒りも誰かを守りたいという願いも全部消えてあの暗い水底へ沈んでいく。
使った後に誰を傷つけるか分からない。
手を止めた。
「結城くん」
津上さんの声が背後から聞こえた。
「もういいんだ」
振り返ると津上さんが立っていた。アギトのベルトを出したままその金色のアンクポイントを掌で握りしめている。
「津上さん」
「俺はずっと考えてた。姉さんがアギトだったのか。姉さんが風谷さんを殺したのか。あの資料室で真魚ちゃんが見た光景を聞いてからずっと」
津上さんの声は静かだった。あまりに静かだった。
「俺はアギトの力で戦ってきた。人を守るために。でももし姉さんがその力で人を傷つけたのならこの力は本当に人を守る力なのか」
「津上さんそれはまだ仮説です。つる子先輩も言ってたじゃないですか事実と仮説は分けないと」
「分かってる。分かってるけど」
津上さんは微笑んだ。いつもの柔らかい笑みだ。だがその笑みの下にあるものが以前とは違っていた。
「俺はもう戦えないかもしれないんだ結城くん」
俺は息を呑んだ。
「力を持っている限り、俺はずっとその力に問われ続ける。姉さんと同じ道を歩むのか、それとも違う道を選べるのか。その答えが出ないまま戦い続けることはもうできない」
「でも津上さん、力を手放したら戦えないですよ。アンノウンがまた来たら」
「戦える人がいるでしょう」
津上さんは俺を見た。
「結城くん。君がいる」
その言葉が重かった。
俺がいる。だが俺はエクリプスフォームになった時感情を失った。制御できる保証がない。俺が本当に戦える人間なのかどうかまだ分かっていない。
「俺は…」
言葉が途切れた。
止めようとした。「力を手放さないでくれ」と言おうとした。「アギトの力は人を守るためにあるんだ」と言おうとした。「俺たちには津上さんが必要なんだ」と言おうとした。
だが言葉が喉の奥で止まった。
津上さんの人生まで俺が決めて良いのか。
俺は守りたい。津上さんを。芦原さんを。木野さんを。つる子先輩を。みんなを守りたい。だが守ることと代わりに決めることは違う。津上さんが自分の力をどうするか選ぶのは、津上さん自身であって俺ではない。
「…津上さん」
声が掠れた。
「俺には止める権利がないですよね」
津上さんは微笑んだ。
「ありがとう。でも分かってくれてるんでしょ」
青年が動いた。
津上さんは青年の方へ向き直った。アンクポイントを掌に握りしめたまま一歩前に出る。
「俺の力はいらないから持っていってくれ」
青年の手が津上さんの胸に触れた。
その瞬間、金色の光が津上さんの身体から溢れ出した。アギトの力。光の進化の象徴。それが津上さんの身体から引き抜かれていく。
津上さんの膝が折れた。
俺は動けなかった。
止めようと思えば止められたかもしれない。エクリプスを使えば青年を弾き飛ばせたかもしれない。だが動かなかった。津上さんが自分の意思で選んだことだから。
青年の手が離れた時、津上さんはその場に崩れ落ちた。変身は解けている。アンクポイントの光は消えている。ただの革ジャンを着た青年が地面に膝をついているだけだった。
青年は手の中に集まった光を見つめていた。そしてその光を掌の中へ閉じ込めた。
「三つ目です」
青年が静かに言った。
「木野薫。芦原涼。そして津上翔一。三つのアギトの力を回収しました」
青年は俺の方を向いた。
「残るは君だけです、結城。ですが、君の力はまだ奪えません。いずれまた来ます」
青年は背を向けた。蛇型アンノウンがその後を追うように闇へ消えていった。
廃材置き場に静寂が戻った。
月明かりだけが変わらず地面を照らしている。
俺は津上さんに駆け寄った。
「津上さん!大丈夫ですか」
津上さんは顔を上げた。青白い顔色だったが目は澄んでいた。
「大丈夫だよ。ちょっと力が抜けただけ」
そう言って津上さんは微笑んだ。いつもの笑みだった。だがその笑みには力がなかった。今までその笑みを支えていたアギトの光が消えたのだ。
「結城くん」
翔一さんが静かに言った。
「これからはそれぞれ人間として生きればいいんだ」
それぞれ人間として。
その言葉が胸に沈んだ。
芦原さんは力を奪われた。木野さんは力を失った。そして津上さんは自分で力を手放した。アギトの力を持つ者が次々と減っていく。
残っているのは俺だけだ。
アルタ。アマダムの力とアギトの種が融合した異物。奪えない力。制御できる保証もない力。
「…それでも、俺はまだ力を持ってます」
俺の声は低かった。
「うん。知ってる」
翔一さんは頷いた。
「だから結城くんにお願いがあるんじゃなくて、結城くんが決めることだと思うよ」
津上さんはゆっくりと立ち上がった。ふらついたが自分の足で立った。
「俺はもう行くよ」
「津上さん」
「大丈夫。俺は俺の足で帰れるから」
津上さんは背を向けた。歩き出した姿はふらついていたが、しっかりと前を見ていた。
俺は追わなかった。
追うべきか迷った。だが追わなかった。
背後で木野さんの声がした。
「結城。芦原を頼む」
振り返ると木野さんが芦原さんを支えていた。力を失った二人の男がお互いの身体を支え合っている姿は奇妙なほど静かだった。
俺は芦原さんの反対側へ回りその身体を支えた。力の抜けた身体は重かった。だがその重さを感じているうちはまだ人間だ。
「…返す言葉もないですね」
俺は呟いた。
木野さんは何も答えなかった。ただ夜空を見上げていた。
月が出ていた。半分欠けた月だ。日食ではない。ただの月だ。だが俺の中にはまだ日食の影が残っている。
守るための力を持つ自分はその力とどう向き合うべきか。
津上さんは人間として生きることを選んだ。
芦原さんは力を奪われた。
木野さんは力を失った。
俺だけが残された。
力を持ったまま。
答えの出ない問いを抱えたまま。
夜風が吹いた。冷たい。
だが冷たいと感じているうちは人間だ。
俺はその言葉をもう一度自分に言い聞かせた。
夜の廃材置き場に三人の影だけが残された。