「感じた気配はここだけど」
一か月ぶり。
それは、決して嬉しい事ではない。
アンノウンが再び現れて、人を襲うかもしれない状況は決して嬉しい事はない。
俺はゆっくりと周囲を見つめる。
頭の中にある警報が未だに鳴り止まない。
同時に見つめた先には。
「っ!」
逃げている人が何かに貫かれる。
貫かれた人の身体は透明となって消えていた。
「アンノウンっ」
俺がそれと共に睨んだ先。
最初に思い出したのは、水のエル。
奴と似た気配がそこに立っていた。
だが、違う。エルではない。あの鯨の巨体とは違う、より細身の、しかし隙間風のように鋭い圧力を持った存在だ。全身を覆う装甲は鷹を思わせる鋭角な意匠。背中には翼が伸びている。だが、その佇まいはただの獣ではない。あのエルと同じ、神の意志を代行する者としての冷徹さがそこにあった。
携帯が鳴った。つる子先輩だ。
「結城くん! アンノウン反応があります!」
「分かってます。目の前にいます」
「気をつけて! ついさっき津上さんからも連絡があって芦原さんも向かっていると」
通話が途切れた。芦原さんが向かっている。携帯をポケットへしまった。今は電話に構っている余裕はない。
現場へ走る途中、一か月前の感覚と比べた。以前なら走るだけで腹の奥が軋んだ。エクリプスフォームの反動が骨の髄に残っていたからだ。だが、今は足取りが違う。息が切れない。一か月、変身せずに過ごした日々が、確かに身体を回復させていた。
だが、ベルトへ手を伸ばした時、あの感覚がよぎった。
冷たい。
日食。
感情が平坦になっていく、あの感覚。
回復した身体と制御できる力は別だ。エクリプスの制御が完成したわけではない。使えば届くかもしれない。だが、使った後に誰がいるか分からない。一か月の平穏で取り戻した感情が、また水底へ沈んでいく。
「あの姿にはならない」
自分に言い聞かせる。制御できる力。まだ人間でいられる力。まずはそれで戦う。
「変身」
叫びと共に現場に着くと、芦原さんがいた。
変身済みのエクシードギルス。だが、立ち位置がおかしい。通常のアンノウンなら正面から立ち向かうはずの芦原さんが、敵の周囲を回るように動いている。正面から追っても捉えられないと悟っている動きだ。
風のエル。
奴の動きは、これまでのアンノウンとは根本的に異なっていた。水のエルが重圧で押し潰す戦い方なら、風のエルは流れる。芦原さんの拳が届く前に、奴は既にそこにいない。風そのもののように攻撃の軌道を読んで消え、別の角度から斬り込んでくる。
「芦原さん!」
「結城! 遅いぞ!」
芦原さんの声が掠れている。一か月ぶりだというのに、彼は迷わず前に出ている。
「逃げ遅れた人を!」
俺の声に、芦原さんが一瞬だけ顔を向けて頷いた。
二人の間で役割が分かれる。いつの間にか、そうなっていた。芦原さんが前で敵の目を引き、俺が後方で人々を戦闘範囲から離す。俺が人々の腕を掴み、安全な路地へと誘導する。一人、また一人と。アビスフォームの強化された身体能力のおかげで、一人を抱えて走るだけなら苦ではない。ただ、芦原さんを背中に預けておく不安はあった。
「結城くん、民間人の避難は完了ですか!」
氷川さんから通信が入った。現場周辺の封鎖を担当している。
「あと三人! 氷川さん、芦原さんが風のエルと交戦中です!」
「了解! G3-Xで援護に向かう!」
三人を路地の奥へ押し込み、俺は踵を返した。芦原さんの背中が見える。彼は耐えていた。風のエルの一撃一撃を受け流し、時に受けて、時に返して。だが、少しずつ後退している。押されている。
俺が合流しようとした、その瞬間だった。
風のエルが動いた。
速い。
水のエルとは違う速さ。風そのもののような一足飛びの踏み込み。芦原さんのガードを掠め、その背後の空間へ回り込む。芦原さんが反応できない。エルの手が芦原さんの背中へ伸びた。
「芦原さん!」
俺が飛び込んだ。アビスの衝撃分散を最大まで溜め込んだ状態で、芦原さんとの間に割り込む。エルの手が俺の胸板に触れる。
衝撃。
だが、奪われる感覚はない。風のエルはアギトの力を奪うのではない。ただ、衝撃を与えてくる。風圧。目の前が歪むような、一瞬の真空。
「ぐっ!」
俺は芦原さんごと吹き飛ばされた。
路地の壁に背を打ちつける。芦原さんが俺の胸元で喘いでいる。彼は無事か。確認する前に、風のエルが再び構えた。
俺は睨んだ。
だが、エルは攻撃を続けなかった。
奴は既に去ろうとしていた。背中の翼を広げ、夕風に乗るように浮上する。
「…終わりは近づく。その時やり直す為にアダムとなる」
「アダム?」
その言葉の意味が分かる前に、風のエルは姿を消した。上空へ、風の彼方へ。一瞬で気配が消えた。
残されたのは壁に背を預けた俺と、膝をついた芦原さんだけだった。
変身が解けた。アビスの青い光が消え、生身に戻る。一か月ぶりの戦闘はあっけなく終わった。だが、あの言葉だけが腹の底に残った。
アダムとなる。
終わりは近づく。
俺は立ち上がった。腹の奥で、アマダムの欠片が微かに脈動している。一か月の平穏で薄れていた感覚が、また戻り始めていた。
携帯を取り出した。つる子先輩への連絡と、津上さんへの連絡。そして氷川さんへの状況報告。やることは一か月前と同じだ。だが、一か月前とは違う。腹の奥に残った言葉の重さが違う。
俺はつる子先輩との約束を思い出した。卒業までに一緒にあかつき号の資料を調べる約束。そして、卒業後も一緒に調べ続ける約束。
戦いから戻って続けたい暮らしがある。
その思いを確かめるように、俺は携帯を握りしめた。