風のエルが爆散した瞬間、空気が変わった。
それまで夜風が吹いていた大気が、ぴたりと止まった。静寂。だが、平穏ではない。もっと重く、もっと古い沈黙が場を覆っていた。
津上さんが前を見ていた。俺もつられて視線を上げた。
そこに、いた。
闇の力。
人間の姿をしていた。黒いコートを纏った男。だが、人間ではない。あかつき号の乗員が触れた光の正体。リントへ力を貸した存在。クウガの力の源。そして、アギトの進化を止めようとしている存在。
津上さんは迷わなかった。
「あなたは…人間を信じないんですか」
津上さんの声が静かに響く。闇の力は答えない。ただ、津上さんを見ている。
「俺は人間です。アギトの力を持っていても人間です。人間は変われる。進化できる。でも、それはあなたが決めることじゃない」
津上さんの身体が輝き始めた。シャイニングフォームを超える光。全身から白銀の炎が噴き出す。クロスホーンが展開し、右脚へ力が収束していく。
強化シャイニングライダーキック。
津上さんが跳んだ。光の矢のように闇の力へ突っ込む。その姿は、まるで太陽そのものだった。
だが、その一瞬手前で俺の意識が暗転した。
『——』
声が聞こえた。いや、声ではない。直接頭の中に響く意志。闇の力の意志。
俺の身体が動かない。エクリプスフォームの装甲が固まっている。変身も解けない。ただ意識だけが、引き抜かれていく。
気づくと、俺は屋敷の中にいた。
古い屋敷だった。高い天井に古びたシャンデリア。壁には誰のものか分からない肖像画。窓の外は闇。時間が止まったような空間。
そして、目の前に闇の力がいた。
人間の姿のまま。黒いコートの男。だが、その瞳は人間のそれではない。深淵そのもの。何もかも吸い込む暗闇。
「結城」
名前を呼ばれた。声は低く穏やかだった。敵意がない。むしろ、親が子を見るような眼差し。
「あなたをここに呼んだのは、別れを告げるためです」
「別れ…」
「あの男が来ます。津上翔一。彼は私を止めるために力を放った。私はそれを受け入れます」
「なぜ」
「私が負けるからです」
闇の力は、迷いなく言った。
「私は人間を愛した。現状のままの人間を。進化せず、変わらず、ただ人間として生きる者たちを。だが、アギトの力は人間を変える。進化させる。それは人間が人間でなくなることだ。だから止めたかった。だから人間を守るために、人間の進化を止めたかった」
「それでアンノウンを使ってアギトになる人間を殺したのか」
「殺したのではありません。刈り取ったのです。芽のうちに」
「同じだ」
「…そうかもしれない」
闇の力は、初めて表情を変えた。微かな苦渋。人間に近い顔だった。
「あなたをアダムにしようとした理由を話しておきましょう」
「アダム…」
「あなたの中には二つの力があります。アギトの種。光の進化の力。そしてアマダムの欠片。闇の守護の力。これまで人間の中で二つの力が共存したことはありませんでした。光と闇は相容れないはずでした。ですが、あなたの中でそれは混ざり合い、新たなものを生み出しています」
「エクリプスフォーム…」
「そうです。あれは光でも闇でもない。二つの始源が重なり合って生まれた、第三の力。私はそれを見た時思いました。これが新たな人間の形かもしれないと」
「新たな人間…」
「今の人間を消し、やり直す。その時アダムとなるのは、光と闇の両方を持つ者でなければならない。ただの光でもただの闇でもない。両方を併せ持ちながら、なお人間であれる者。あなたがそれにふさわしいと思いました」
俺は自分の手を見た。エクリプスフォームの漆黒の手。だが意識の中では、生身の手が見えている。人間の手。
「ですが、あなたは選びませんでした。人間を捨てることも、力に従うことも。あなたはただ隣に立つ者を選び、共に戦った」
「俺は…」
「言わなくていいです。あなたの選択は見ました。それが人間の選択だ。だから私は負ける。あの男に。津上翔一に。彼もまた、人間のまま戦った者だから」
闇の力は立ち上がった。その姿が、少しずつ薄くなり始めている。
「結城。一つだけ教えておきましょう。あなたがアダムにならなかったことは、正しかったのか間違っていたのか。それは私にも分かりません」
「…分からないのか」
「神でさえ分からない。あなたの未来は。あなたの中の二つの力が何を生むのか、それはあなたが選ぶことです」
闇の力が俺の方を向いた。その瞳に、初めて人間と呼べる感情が浮かんだ。寂しさだった。
「人間とは何なのか。もう一度この目で見ておきたい。それだけです」
その言葉を最後に、闇の力の姿が消えた。
屋敷が崩れていく。壁が、天井が、シャンデリアが、全てが闇に溶けていく。
そして、俺の意識が戻った。
目を開けた時、空は明るくなっていた。
夜が明けていた。
俺は地面に倒れていた。変身は解けている。生身の身体。全身が鉛のように重い。だが、冷たくはない。朝の光が頬を温めている。
「結城くん!」
津上さんの声がした。近づいてくる足音。肩を揺さぶられる感触。
「大丈夫ですか?」
目を開けると津上さんがいた。変身を解いた姿。革ジャンが汚れ、顔に疲労の色が濃い。だが、その目は澄んでいた。
「津上さん…戦いは」
「終わったよ」
津上さんは微笑んだ。いつもの柔らかい笑み。だが、その笑みには深い疲れと、それ以上の安堵が混じっていた。
「闇の力は消えた。もうアンノウンは来ない」
「…そう、ですか」
俺は空を見た。朝の空。雲が薄く引かれ、向こうから陽が昇っている。鳥の声が聞こえる。風が吹いている。普通の朝だ。
「結城くん、何かあった?意識が消えてた。急に倒れたから心配したよ」
「…少し、夢を見てました」
「夢?」
「闇の力と話しました。最後に」
津上さんの表情が少しだけ変わった。驚きでもなく不安でもなく、何かを理解するような顔。
「そうか。彼は何か言ってた?」
「人間とは何なのか、もう一度この目で見たいと」
津上さんはしばらく黙った。そして、空を見上げた。
「…そうだね。俺たちもそうだ」
俺は身体を起こした。関節が軋む。エクリプスの反動がまだ残っている。だが、冷たくはない。
津上さんが手を差し出してくれた。俺はその手を掴んだ。立ち上がった。自分の足で。
芦原さんと氷川さんが、少し離れた場所にいた。二人とも変身を解いて座り込んでいる。無事だ。
「結城くん」
津上さんが俺の顔を覗き込んだ。
「戻れた?」
俺は自分の手を見た。人間の手。傷だらけで汚れていて、指先が微かに震えている。だが、俺の手だ。
「戻れました」
その言葉は、自分に向けて言ったものだった。