研究室の窓際で、つる先輩が切抜帳を閉じた。紙の端がわずかに揺れる。換気口の風だけが音を立てていた。
「……結城君。前に助けた人、たぶん葦原涼です」
名前を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。海辺で感じたあの重い気配。人間のはずなのに、どこか違う温度が混ざっていた。
「噂、出てますよね。水泳選手で……問題を起こしたって」
「はい。偶然とは思えません。アンノウンが狙う条件とも、少し重なります」
つる先輩は淡々と言う。けれど指先は切抜帳の角を強く押さえていた。
俺は少し間を置いてから口を開く。
「……接触、してみませんか。危険かもしれませんけど、確かめないまま放っておくのも……落ち着かなくて」
つる先輩はすぐには答えなかった。窓の外を見て、小さく息を吐く。
「分かりました。観測優先で行きましょう」
波の音が近い。足元のコンクリートに、細かな砂がこすれる音だけが続いていた。
葦原涼は背を向けたまま、こちらを見ようとしない。肩の力が妙に張っていて、いつでも跳び退ける姿勢に見えた。
「……すみません。少しだけ、話せますか」
声をかけた瞬間、視線が鋭く返ってくる。
敵意というより、触れられたくない部分を守るような目だった。胸の奥がきゅっと縮む。踏み込みすぎたかもしれない、そんな感覚だけが残る。
「用があるなら、さっさと済ませろ」
短い言葉。余計な隙間を作らない話し方。
近づきすぎないよう、距離を半歩分だけ保つ。波風の冷たさが頬に当たり、指先の温度が落ち着いていく。
「前に、倒れていたところを見かけました。……体、平気ですか」
「知らねえな。勝手に見ただけだろ」
切り捨てるような返答。それでも、完全に無視されているわけではない。
声の端がわずかに揺れている気がして、言葉を選ぶ間が長くなる。
沈黙が落ちる。
靴先で砂を押しながら、視線だけを少し下げた。
「……最近、似た事件が続いてます。もし巻き込まれてるなら、何か――」
「だから余計な世話だって言ってんだろ」
強く遮られる。けれど怒鳴るわけでもない。
むしろ、自分に言い聞かせているような声だった。拳が握られているのが見える。爪が手のひらに食い込んでいるのか、指先が白い。
同じだ、と思った。
力があるのに、扱い方が分からない。守りたいのか、壊したいのか、自分でも決められない感じ。
「……すみません。でも、放っておけなくて」
口にした瞬間、視線がぶつかる。
一瞬だけ、驚いたような表情。すぐに消える。代わりに、どこか遠くを見るような目に変わった。
「……あんた、変な奴だな」
風が強く吹いた。
その拍子に、空気が重く沈む。背中をなぞるような違和感。遠くで何かが動いた気配がした。
葦原の肩がわずかに揺れる。
次の瞬間、視線が鋭く上を向いた。瞳の奥に、別の色が混じる。
「……ッ」
何かを決めた顔だった。言葉は続かない。けれど、こちらを一度だけ見た。
その目は、拒絶とも違っていた。
踏み込めば壊れる距離。踏み込まなければ届かない距離。
足が動きかける。追いかけたい衝動が喉元まで上がる。
けれど背後から聞こえた、つる先輩の小さな息遣いで、踏み出しかけた足を止めた。
葦原の背中が遠ざかる。波の向こうへ溶けるように消えていく。
残ったのは、冷たい風と、言い切れなかった言葉だけだった。