湿った夜気が路地を満たしている。街灯の白さが壁を舐め、影が深く沈む。奥で鈍い衝突音が弾け、振り向いた先に葦原の背中が崩れるのが見えた。青い蛇のアンノウンが低く滑り、間合いを詰める。細い風が喉に刺さり、胸の奥がひやりと締まる。
「葦原さん、下がってください!」
声が路地に跳ね返る。
返事はない。肩が震え、指先が石を掴んでいる。
ベルトへ手をやる。装甲が組み上がる感触と同時に、足元の水たまりが波打つ。踏み込む。青い蛇の尾が振り下ろされる軌道へ武器を差し込み、弾く。衝撃が腕を痺れさせ、息が荒くなる。鱗が擦れるような音が耳に残る。
「……くっ」
青い蛇が距離を取る。
その隙に、葦原が立ち上がろうとする。だが動きが不自然だ。背中の線が波打ち、肩甲骨のあたりが盛り上がる。喉から低い唸りが漏れ、声にならない。
「葦原さん……?」
皮膚の下で何かが押し広がる。筋肉が異様に張り、骨が軋む音がする。指が地面を抉り、爪が伸びる。背中が大きく反り返り、胸郭が膨らむ。呼吸が獣じみたリズムに変わる。
変わる。
緑色の質感が、夜の光を鈍く弾いた。
装甲とも皮膚ともつかない表面が肩から腕へ広がり、肘の先が鋭く尖る。脚の筋肉が膨れ、足の着き方が変わる。立ち上がったそれは、もう人間の立ち姿ではない。
緑の怪物。
目が光る。荒い呼吸が路地を震わせる。胸が上下するたび、喉の奥で獣の音が鳴る。青い蛇のアンノウンが一瞬、動きを止めた。次の瞬間、怪物が跳ぶ。跳躍の勢いが壁の看板を揺らし、拳とも爪ともつかない一撃が空気を裂く。
「……!」
衝撃が腹に響く。青い蛇が弾かれ、路面を滑る。怪物は止まらない。踏み込むたび、地面が抉れ、石片が跳ねる。攻撃は荒々しく、制御のない力が溢れている。
「落ち着いてください!」
声が届いているのか分からない。
緑の怪物は低く唸り、再び跳ぶ。青い蛇のアンノウンが距離を取り、闇へ退く。滑るように路地の奥へ消えていく。
静けさが戻る。
残ったのは、荒い呼吸と、緑色の背中。肩が震え、拳が握られている。近づくべきか迷う。武器を握る手が汗で滑る。
「……葦原さん」
小さく呼ぶ。
怪物の呼吸が、わずかに揺れた。
夜風が通り抜ける。
路地に残った緑の影は、まだ人の形を保っているのか、それとも完全に別の何かなのか、判断がつかない。
緑の怪物の呼吸が荒い。
胸が大きく上下し、喉の奥で低い唸りが震える。瞳は焦点が定まらず、それでもこちらを捕らえて離さない。
「……葦原さん」
名を呼んだ瞬間、地面が弾けた。
踏み込みが速い。拳が一直線に飛んでくる。反射で腕を上げる。衝撃が骨に響き、視界が白く揺れる。
重い。
力任せの一撃。だが軌道は単純だ。
足を引き、体を半歩ずらす。拳が頬をかすめ、風圧が耳を打つ。
次は蹴り。
低く払うような脚が腹を狙う。肘で受け、膝を跳ね上げる。鈍い音。緑の怪物の身体がわずかに仰け反る。
「……落ち着いてください!」
返るのは荒い息だけ。
距離を詰められる。胸ぐらを掴まれる。
壁へ押し付けられ、肺の空気が抜ける。視界が暗くなる。
――力が強すぎる。
腕を捻り、重心を崩す。足を絡める。
体をひねり、怪物の勢いを横へ流す。舗道にふたり分の影が転がる。
立ち上がる前に、蹴りが落ちる。
転がり、回避。足元の石が砕ける。
「……あなたは、敵じゃない」
呼吸を整える暇もない。
怪物が跳ぶ。真正面から来る。今度は逃げない。踏み込む。拳を打つ。頬に硬い感触が返る。
痛みが走る。
それでも引かない。肩をぶつけ、体を押し込む。怪物の足が半歩下がる。
「止まれ!」
声が路地に響く。
緑の怪物の瞳が揺れる。
ほんの一瞬、焦点が戻る。だがすぐに濁る。拳が振り上がる。
その手首を掴む。
力比べ。骨が軋む。足を踏み込み、膝を打ち込む。腹に当たる。息が漏れる。
荒い呼吸。
怪物の動きが鈍る。
肩が震える。拳がゆっくり下がる。
「……葦原さん」
もう一度、低く呼ぶ。
瞳の奥に、わずかな迷い。
唸りが小さくなる。握っていた手が、力を失う。
路地に、荒い息だけが残る。
緑の怪物は膝をつき、頭を垂れた。
自分も肩で息をしながら、その場に立つ。
壊さずに済んだ。