路地の奥で、緑の怪物が大きく肩を上下させながら荒い呼吸を繰り返している。街灯の白い光が背中の表面に鈍く反射し、その身体が人間のそれとは明らかに違う形へ変わっていることを浮かび上がらせていた。
「……葦原さん、聞こえますか」
静かに呼びかけるが、返事はない。緑の怪物の喉から低い唸りが漏れ、次の瞬間には地面を抉る勢いで踏み込んできた。振り下ろされた腕は拳というよりも獣の前脚に近い軌道で、舗道に叩きつけられた瞬間に石片が跳ね上がる。
その軌道を見極めながら半歩だけ身体を引き、振り抜かれる腕をわずかに外側へ流す。衝撃が横を通り抜け、頬を掠める風圧が夜気を切り裂く。荒い呼吸を整えながら視線を外さず、次に来る動きを待つ。
胸の奥で、冷たい感覚が静かに広がる。ベルトから流れ込む戦闘の感覚が、まだ知らないはずの動きを身体へ伝えてくる。手足が迷わず動き、視界の中で相手の重心が自然と読み取れていく。
緑の怪物が再び跳び込んでくる。今度は腕ではなく脚だ。低く振り抜かれた蹴りが膝を狙うが、体をわずかに回して軌道を外し、足の勢いを横へ流す。怪物の身体が前へ流れ、重心が崩れる。
その隙を突いて肩を押し返し、距離を一歩だけ広げる。力任せの攻撃は確かに強いが、動きは荒く単純だ。怒りと衝動だけで振るわれている攻撃は、冷静に見れば必ず隙が生まれる。
「……あなたは敵じゃない、落ち着いてください」
言葉は届かない。緑の怪物は低く唸りながら再び踏み込み、拳を振り上げてこちらへ突っ込んでくる。その動きは先ほどよりもわずかに遅く、呼吸がさらに荒くなっていることが遠目にも分かる。
真正面から来る拳を半歩横へずらして避け、その勢いを利用するように腕を絡めて身体の向きを変える。力を受け止めるのではなく、方向だけを変えて流すことで怪物の重心が崩れる。
緑の怪物の足が大きくよろめく。舗道に爪のような指が食い込み、呼吸がさらに乱れていく。胸が激しく上下し、肩の動きが次第に鈍くなっていくのが分かる。
最後にもう一度だけ踏み込み、体勢を崩した腹部へ軽く拳を当てる。強く打つのではなく、力の流れを断ち切るための一撃だけを静かに差し込む。
その瞬間、緑の怪物の身体から力が抜けた。
膝が崩れ、重い音を立てて舗道に落ちる。両手が地面に触れ、荒い呼吸だけが路地の中で響き続ける。
「……葦原さん」
ゆっくり近づきながら、まだ警戒を解かずに様子を見守る。緑の怪物は抵抗する様子もなく、ただ息を切らせながら地面に伏している。
暴走する力が、ついに体力を使い果たしたらしい。
夜風が路地を抜け、戦いの熱を少しずつ冷ましていった。