悲鳴は、遺跡の奥で途切れた。
何かに切られたというより、音そのものを握り潰されたみたいに、唐突に消えた。
次の瞬間、発掘の金属音や無線の声が戻ってくる。戻ってくるのに、空気だけが変わったままだ。
「……今の……」
つる先輩が言いかけて、飲み込む。
僕も、言葉が出なかった。
胸の奥が冷えていく。理由は分からないのに、分かってしまう感じがする。
——近い。
何かが、こちらに向かってきている。
足音はない。息遣いもない。
それでも、暗闇の向こう側だけが“別の場所”になったみたいで、皮膚が粟立つ。
「行きましょう」
自分の声が、妙に落ち着いて聞こえた。
僕とつる先輩は悲鳴の方向へ向かう。
曲がり角を越えた先。発掘所の一角の電灯が、僅かに壊れていた。
作業灯の光が揺れて、照らされる範囲が不自然に狭い。影が多すぎる。
「……なんだか、暗いですね?電灯の故障でしょうか?」
つる先輩が小さく呟く。
その暗がりの中心に、誰かが立っていた。
最初は“立っている”のだと思った。
壁際で、首を垂れて、じっとしている。
助けを呼んだ人物だ、と一瞬だけ脳が結論づける。
だが、足が床についていない。
……揺れている。
天井から、何か一本の線で吊られているように見えて、
僕はようやく、息の吸い方を忘れた。
首吊り死体だった。
灯りが壊れているせいで、傷も血も、はっきりとは分からない。
分からないのに、分かりたくないことだけは確実だった。
首の角度。肩の落ち方。指の力の抜け方。
つる先輩の顔が、目の前で青くなるのが分かった。
唇が震えて、呼吸が浅くなる。
「……つる先輩」
呼びかけるより先に、僕は彼女の手を握っていた。
冷たかった。異様に冷たかった。
「走ってください!」
言って、引いた。
つる先輩は一瞬遅れて、ようやく足が動いた。
そのとき、暗がりのさらに上。壁と天井の境目で、影が動いた。
音はない。
ただ、壁に“張りつくもの”の気配だけが、滑るように近づいてくる。
蜘蛛のように。
四肢が、壁面に沿って折り畳まれ、伸び、折り畳まれ、伸びる。
節の数が合わない。人の関節ではない。
作業灯の揺れる光の中で、それは一瞬だけ人の形に見えて、すぐに“別のもの”に戻る。
——未確認じゃない。
その言葉が喉まで上がって、声にはならなかった。
僕らが走り出した途端、背後の空気が変わった。
追ってくる。確実に、追ってくる。
つる先輩の手を握ったまま、通路へ飛び込む。
靴底が砂利を蹴り、土の匂いが跳ねる。
「結城君……!」
つる先輩の声が裏返る。
振り返る暇はない。
ただ、背中に刺さる視線だけで、分かる。距離が詰まっている。
——殺した。
さっき、あそこで。
あれは“事故”じゃない。
脳が理解するより先に、身体が知っている。
僕の中の何かが、勝手に“危険”を数えている。
そして——糸が飛んだ。
乾いた破裂音もなく、ただ、空気が切られる感覚だけ。
白い線が視界の端を走って、次の瞬間、つる先輩の肩に当たった。
「……っ!」
つる先輩が、止まった。
片足を踏み出した姿勢のまま、動けない。
糸が肩から胸、腕へと絡みついて、あっという間に壁へ引き寄せられる。
「つる先輩!」
僕は引き戻そうとして、手が引きちぎられそうなほどの抵抗に歯を食いしばった。
糸はただの糸じゃない。
細いのに、切れない。伸びない。
……意思みたいに絡みつく。
つる先輩の額に汗が浮かぶ。
一滴ではない。皮膚が湿って、呼吸が速くなる。
目が大きく見開かれて、焦点が合わない。
死の恐怖が、そこにあった。
「結城……君……逃げ……」
声が震えて、言葉が途切れる。
彼女の背後、壁を這う影が、さらに近づく。
蜘蛛のように、当然の動作で。
獲物が動けなくなるのを待っていたみたいに。
——ここで終わる。
その確信が、僕の内側を冷たく撫でた。
……違う。
冷たいだけじゃない。
胸の奥、もっと深い場所で、何かが熱を持ち始める。
怒りとも恐怖ともつかない、逃げ場のない熱。
助けられた夜の水の冷たさが、一瞬よみがえる。
息ができない感覚。沈む感覚。背中の影。
そして僕は、あのときと同じことを思った。
——また、誰かがいなくなる。
つる先輩の背中が、壁に押しつけられる。
糸に絡め取られたまま、肩が不自然に引かれて、首が浮いた。
足が床を探すみたいに空を踏んでいる。
その前に、“それ”がいた。
蜘蛛のように壁を這ってきた影は、今は人の形に近い輪郭を保っている。
手——いや、細すぎる指先が、つる先輩の喉元に伸びた。
触れた瞬間、つる先輩の顔色が抜け落ちる。
青くなる、という表現は生易しい。血が引くのが見える。唇が震えて、息が細くなる。
「……結城、君……」
声にならない声で、僕の名前だけが落ちた。
“それ”の指が締まる。
つる先輩の喉が鳴って、身体が小さく跳ねた。
首を絞められる音なんて聞いたことがないはずなのに、なぜか分かる。
このままでは——本当に、死ぬ。
その瞬間、考えるより先に身体が動いていた。
逃げろ、と言われた。
正しいのは分かってる。
でも、目の前で誰かが死ぬのを、僕の身体が拒否した。
僕は走る、という動作をしたはずなのに、足音が聞こえなかった。
距離が縮む。
拳が握られる。
——握った瞬間、手のひらの奥が熱くなった。
熱が、胸の奥から湧き上がってくる。
怖い。
でも、それより先に、腹の底から突き上がるものがある。
「……やめろ」
声が出ていた。自分の声じゃないみたいに低い。
“それ”が、こちらを見た。
目だけが暗闇で、淡く光る。
そして——視界の端で、黄金色の渦が生まれた。
空気の中に、何もないはずの場所に、金色の輪郭が浮かぶ。
渦。螺旋。
熱と光が絡まり合って、僕の腰の前へと集まっていく。
息を呑む暇もない。
腰が、重い。
何かが“そこにある”感覚が、唐突に現実になる。
硬質な輪郭が腹部に沿って形を取り、冷たい金属のような感触が皮膚の下から押し出される。
——ベルトだ。
僕は着けた覚えがない。
でも、そこにある。
中心に、丸い核のようなもの。
その周囲を、輪が取り巻く。
左右へ伸びる帯は、機械的なのに、どこか生体みたいに“呼吸”している。
そのとき、僕の指が、さっき拾った欠片を握っていることに気づいた。
落としたはずだった。
落としたと思っていた。
けれど欠片は、手の中にある。
いや——あるだけじゃない。
熱い。脈打っている。
腰の中心が、ひときわ強く光った。
吸い込まれる。
欠片が、僕の意思と関係なく、光の核へ引かれていく。
掌から抜け落ちた欠片は、金色の渦にほどけて、中心へ沈み込んだ。
沈んだ瞬間、腰の輪郭が変わる。
丸い核の周りに、別の意匠が重なった。
原始的な、古い印象のある形。
宝石のような中心と、環状の構造。
それが、機械的な帯と噛み合いながら一つになる。
——混ざった。
そんな言葉が、なぜかぴったりだった。
次の瞬間、僕は殴っていた。
拳が、“それ”の腕に叩き込まれる。
受け止めるつもりだったのだろう。影がわずかに腰を落とした。
だが、受け止めきれない。
鈍い衝撃音がして、“それ”の身体が横に吹き飛んだ。
自分でも信じられなかった。
人間が殴った感触じゃない。
骨を打った感触でもない。
もっと硬いもの、もっと重いものを動かした手応え。
追撃するように、足が出る。
蹴る。
蹴りが当たった瞬間、視界が白く跳ねた。
“それ”は壁に叩きつけられ、糸が弾けるように千切れて散る。
つる先輩の身体が解放され、膝から崩れた。
でも僕は振り返れない。
目の前の影から目を離せない。
殴る。
蹴る。
殴る。
攻撃するたびに、身体のどこかが“変わる”。
腕の皮膚が硬質化し、筋肉が別の配置に組み直されていく感覚。
骨格が、内側から組み替えられる。
痛い、というより、痛みが追いつかない。
そして最後に——顔が覆われた。
冷たい何かが頬をなぞり、額を締め、視界の縁が狭まる。
仮面。
息が反響する音がする。
同時に、周囲の電灯が、パチ、と音を立てた。
一瞬、全部の光が死んだ。
暗闇が落ちる。
ほんの一拍だけ、世界から色が消える。
次の瞬間、炎が生まれた。
作業灯の一つが火を噴き、別の灯りに燃え移る。
乾いた煙の匂いが一気に満ちて、遺跡の空気が変質する。
火の光だけが、揺れている。
そして——火に照らされて、僕の背中だけが浮かび上がった。
角が二本に見える輪郭。
人の形をしているのに、人ではない影。
背後から、つる先輩の声が聞こえた。
震えている。恐怖だけじゃない。混乱が混じっている。
「……四号、なんで……」
その一言で、胸の奥が軋んだ。
違う、と言いたいのに、言葉が出ない。
僕自身が、何者か分からない。
“それ”が、ゆっくりと立ち上がる。
壁に叩きつけられたはずなのに、動きは鈍らない。
むしろ、興味深そうにこちらを見ている。
そして——初めて、声がした。
低い。
人の言葉の形をしているのに、人間の温度がない。
「……アギトでも、ギルスでもない」
炎の揺らぎの中で、目だけが光る。
「混ざった存在……アルタ、か」
その瞬間、背中の汗が冷えた。
名前を呼ばれた。
まだ名付けてもいないはずのものを、先に知られている。
火が爆ぜる音が、遺跡の天井に反響する。
つる先輩の荒い呼吸が背後で聞こえる。
僕は拳を握った。
自分の拳が、自分のものじゃない感触がする。
それでも——目の前の影から、目を逸らせなかった。
見出し:
警察署付近で未確認二体 武装警官ら負傷、原因不明の爆発も
日付/地域:
1999年1月 長野県○○市・○○警察署周辺
本文:
未確認生命体とみられる二体が○○警察署周辺で目撃され、現場は一時騒然となった。庁舎周辺では警官が負傷し、パトカー数台が損傷。現場近くでは原因不明の爆発痕も確認されている。目撃者によれば「一体は異様に長い腕の影」「もう一体は人型に近いが動きが速い」といい、警察は未確認第一号・第二号の可能性も含めて捜査している。
つる子の注釈:
二体同時の目撃は証言が混ざりやすいのに、妙に輪郭が揃っている。特に第二号(とされる方)。
「人型に近い」「動きが速い」「現場に“原因不明の痕”が残る」——これ、四号の断片証言と重なる点が多すぎる。偶然にしては出来すぎ。
もし同じ系統なら、四号は“突然現れた英雄”じゃなくて、最初から連続した流れの中にいたことになる。
……ねえ、面白くない? 面白すぎる。もっと資料が欲しい。