研究室の休憩室には、夕方の淡い光がゆっくりと差し込み、テーブルの上に置かれた紙コップの影を長く引き伸ばしていた。電気ポットが小さく湯気を立てており、そのかすかな音だけが、静まり返った室内に途切れずに流れている。つい先ほどまで路地裏で息を切らしていたはずなのに、ここだけがまるで別の場所のように落ち着いている。
紙コップを両手で包むように持ちながら、まだ少し冷えた指先を温める。戦闘の後に残る独特の疲労感が、腕の奥にじんわりと残っていた。視線を上げると、テーブルの向こう側でつる先輩が切抜帳を広げたまま、静かな表情で何かを書き込んでいる。
あの路地裏で見た光景が、頭の中で何度も繰り返される。
あれは確かに、人間の身体の動きではなかった。
言葉にするまで、少し時間がかかった。
「つる先輩、葦原さんが変わっていたのって、やっぱりアギトに似ていると思うんです」
言葉にした瞬間、自分の声が思っていたよりも低く聞こえた。つる先輩はペンを止め、ゆっくりと顔を上げる。その仕草は落ち着いているのに、瞳の奥だけがわずかに鋭く光っている。
「そうですね、これまでの事を考えると、もしかしたらアギトなのかもしれません」
彼女は一度言葉を区切り、窓の外をほんの一瞬だけ見た。その横顔は冷静なままだが、思考の速度だけが静かに上がっているのが分かる。
「けれど、それ以上に考えるに、彼はもしかしたらギルスかもしれません」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に小さな引っ掛かりが生まれた。聞いたことがある名前だったが、その意味はまだ完全に理解できていない。
「ギルスって、確か」
「えぇ、私達が探していた新たな種の事です」
つる先輩は切抜帳の表紙を閉じ、指先で軽く叩いた。その仕草はいつもと変わらないのに、今はどこか慎重に言葉を選んでいるように見える。
「ですが、彼を見ていると」
その言葉の続きを、自然と口をついて出ていた。
「まるで、老人のようになっていますが、これって」
つる先輩の視線が静かに細くなる。
研究対象を前にしたときの、あの表情だった。
「私の仮説ですが、良いですか」
その言い方は柔らかいが、内容はいつも鋭い。
思わず姿勢を正す。
「仮説」
「はい、私が考えるにこのギルスの力は強すぎるのと適合していない可能性があります」
その言葉を聞いた瞬間、路地裏で見た葦原の姿が頭の中に浮かぶ。あの呼吸の荒さ、あの筋肉の震え、そしてまるで身体そのものが耐えきれていないような歪み方。
「それは一体」
つる先輩は紙コップをゆっくり持ち上げ、少しだけ温度を確かめるように指先を動かした。
「これも私なりに分かりやすい例ですが、アレルギー反応と言うべきですか」
休憩室の時計が、小さく時を刻む。
「体の免疫が本来無害な物質に過剰に反応して起こる不適切な免疫反応であり、おそらく彼の身体は自身の力に過剰に反応し、そのエネルギーを使った事により歳を取ったような状態になっているかもしれません」
言葉の一つ一つが静かに落ちてくる。
それは理屈としては理解できるが、どこか現実感が追いつかない。
そのときだった。
「俺の身体に」
背後から、低い声が聞こえた。
心臓が跳ねる。
思わず振り向いた。
「っ葦原さんっ、起きていたんですか」
休憩室のソファに葦原が座っている。さっきまで眠っていたはずなのに、いつの間にか目を開けてこちらを見ていた。
葦原は肩を軽くすくめ、少しだけ苦い笑いを浮かべる。
「さっきは、その⋯悪かった、襲い掛かってしまって」
その言葉に、胸の奥の緊張が少しだけほどける。
「いいえ、気にしないでください。それよりも、その」
言葉が途切れる。
聞きたいことは山ほどあるのに、どう切り出せばいいのか分からない。
葦原は小さく息を吐き、視線を天井へ向けた。
「……聞きたいんだろ、俺がこんな身体になったのを」
つる先輩がゆっくりと頷く。
「はい」
少しの沈黙が流れる。
葦原は指を組み、しばらく黙ったまま考えているようだった。やがて低い声で、ゆっくりと言葉を選びながら話し始める。
「……あれは少し前のバイク事故だった。当時はもう水泳に戻れない程の怪我を負ってしまった」
拳がわずかに握られる。
「けれど、奇跡的に回復した」
その言葉の裏にある違和感が、空気を重くする。
「つまりは、その時にギルスの力に」
つる先輩が静かに言葉を補う。
葦原は苦笑しながら肩を落とす。
「かもしれないな。おかげで嫌な事しかないがな」
その声には、諦めのようなものが滲んでいる。
「葦原さん」
呼びかける。
葦原は少しだけ視線を伏せた。
「……悪いな、こんなの今まで誰にも言えなかったから」
休憩室の窓の外で、風が木の葉を揺らす音がする。
その音だけが、静かな部屋の中にゆっくりと広がっていった。