研究室の休憩室を飛び出した葦原さんの背を追って外へ出ると、夜の空気には雨の名残が薄く混じっていて、アスファルトの匂いがいつもより重く感じられた。つる先輩は切抜帳を抱えたまま走りながら、「東京を離れる人を追っているなら、駅か港です」と短く告げ、俺は頷くより先にバイクのキーを回した。葦原さんがあそこまで顔色を変えた理由を考えるまでもなかった。守りたい相手がいる。たぶん、それだけで十分だった。
着いたのは、都心を離れる深夜バスの発着所だった。白い照明の下で、旅行鞄を足元に置いた女性が一人、時刻表を見上げている。葦原さんは柱の陰に立ち、こちらには気づいていても、その人の方だけは見失うまいとしているようだった。肩の線が固い。近づいて声をかけるより、黙って視線を配る方が先に出る顔だった。
「恋人、ですか」
つる先輩が小さく言うと、葦原さんは苦い息を吐いた。
「……だった、かもしれない。巻き込みたくねえから、東京を出てほしい」
「それで一人で来たんですか」
「俺が近くにいりゃ、あいつまで狙われる気がした」
その言葉が終わる前に、胸の奥で冷たい線が張った。視線を上げる。照明塔の上、高い夜気の中に、二つの影が円を描いていた。一つは細い嘴を思わせる輪郭で、もう一つは羽音だけを先に落としてくる。後者の音は耳で聞くというより、頭蓋の内側へ針みたいに刺さってきて、思わずこめかみを押さえた。
「来ます。上です」
俺がそう言った瞬間、葦原さんの目の色が変わった。恋人のいる方へは決して振り向かず、こちらへ一歩だけ出る。
「あいつには気づかせるな」
「え」
「見せたくないんだよ。こんなもん」
低い声だった。諦めでも虚勢でもない。怖がられても仕方がないと知っていて、それでも守ると決めた声だった。次の瞬間、背中の筋肉が波打ち、呼吸が獣みたいに荒くなる。衣服の下で膨れた骨格が歪み、緑の怪物が夜の光の下へ押し出される。それでも、最初に向かったのは彼女から視線を切る位置だった。見えないところで戦うために、わざと影の濃い側へ回る。そこに覚悟があった。
俺もベルトへ手をやる。装甲が身を包む感覚と同時に、散っていた呼吸が一本にまとまる。見上げれば、羽音のアンノウンが低く弧を描き、細い嘴のアンノウンは真下を値踏みするように滑空していた。二体とも、人ではなく「条件」を見ている目だった。
緑の怪物が跳んだ。柱を蹴り、上へ伸びるその勢いは人間のものじゃない。だが、羽音のアンノウンはさらに高く逃げ、頭の奥へ刺さる音だけを残して距離を取る。痛みで視界が揺れる。そこへ、もう一体が彼女の頭上へ落ちる軌道に入った。
「させません!」
踏み込み、身体をひねり、蹴りを上へ放つ。届かないはずの高さへ、反射ではなく意志で足を伸ばした。踵が相手の脇腹をかすめ、軌道が外れる。着地の衝撃で膝が軋んだが、その一瞬で緑の怪物が横合いから組みつき、地面近くまで引きずり下ろす。声は交わさない。けれど、守る位置だけは同じだった。
羽音が強くなる。頭の芯が割れそうになる中で、ベルトの奥から流れ込む感覚に身を任せる。今だ、と身体が先に告げた。俺は一歩前へ出て跳び、落ちてくる相手の胸へ蹴りを叩き込む。夜気が裂け、羽音が乱れた。空の支配が崩れた、その瞬間が転換点だった。
緑の怪物は迷わず前へ出る。爪のような腕がもう一体の肩を捉え、発着所の看板へ叩きつける。金属がひしゃげる音で、ようやく彼女が小さく振り向いた。だが見えたのは、遠くで揺れる二つの影だけだ。葦原さんは意地でもその距離を守っていた。
二体のアンノウンは、同時に上空へ退いた。追おうとしたところで、細い嘴の方がこちらではなく彼女を見下ろし、裁くように首を傾ける。その視線に、羽音の方が寄り添う。殺し方は違うのに、狙いは同じだ。選んでいる。条件を満たす者を。
緑の怪物が低く息を吐く。俺も肩で呼吸をしながら、空を睨んだ。並び立つ影が足元に重なる。敵が去ったあとでも、その形だけはしばらく崩れなかった。