「……あの人には、最後まで何も気づかせたくないんですか」
つる先輩が声を潜めてそう尋ねると、葦原さんは返事の代わりに短く息を吐き、しばらく黙ったあとで低く言った。
「俺が近くにいるせいで巻き込まれるなら、それだけは絶対に避けたいんだよ。せめて、見えないところで終わらせる」
その言葉がまだ耳に残っているうちに、胸の奥へ冷たい線が一本走った。視線を上げると、発着所の照明塔よりも高い位置で、二つの影が夜空を横切っている。一つは細い嘴のような輪郭を持ち、もう一つは羽音を撒きながら高く旋回し、その不快な震えを耳ではなく頭の奥へ直接落としてきた。
「二体とも来ます。狙いは、あの人の真上です」
俺がそう告げた瞬間、葦原さんの顔つきから迷いが消えた。彼は恋人から視線を切らないまま、一歩だけ暗がりへ下がり、そのまま見えない位置へ滑り込むように移動していく。その背中を見たとき、正体を隠したいという思いよりも、隠してでも守ると決めた覚悟の方が強く伝わってきて、胸の奥が重く沈んだ。
頭蓋の内側を針で掻き回されるみたいな痛みが強まり、思わずこめかみを押さえそうになる。けれど、その一瞬の遅れすら危ういと身体が告げていたので、歯を食いしばって空を見上げた。嘴の長いアンノウンはすでに落下の角度へ入り、羽音を撒くアンノウンは高い位置からその様子を見下ろしながら、こちらの動きまで計算しているように見えた。
次の瞬間、葦原さんの身体が大きく変わった。背中の筋肉が波打つように膨らみ、喉の奥から獣のような咆哮が漏れ、その異形の輪郭が緑の怪物として夜の光へ押し出されていく。それでも彼は恋人の視界に入る角度だけは徹底して避け、柱と照明の死角を選びながら、一気に地面を蹴った。
俺もベルトへ手を伸ばす。装甲が身を包む感覚と同時に、乱れていた呼吸が一本へ揃い、視界の端にあった迷いが静かに沈んでいった。守りたい、ただそれだけの思いが腕へ集まり、次の一手をためらいなく選ばせる。
緑の怪物は高く跳び上がると、その右腕から裂けるように生えた鞭を空へ振り上げた。咆哮と一緒に放たれたそれは、羽音を撒くアンノウンの脚へ鋭く絡みつき、高所にあった影を無理やり地上へ引きずり落とす。空の均衡が一気に崩れ、羽音が乱れた瞬間、嘴の長いアンノウンが待っていたようにこちらへ急降下してきた。
「結城君、真上です。あれは、あなたを抜いて後ろへ行きます」
つる先輩の警告と同時に、足が前へ出る。振り返って避ければ、後ろにある日常が壊れると分かったからだ。腕の外側へ重い感触がせり上がり、前腕を覆うように盾が展開した。厚く硬い装甲と一体化したその防御は、見た目以上の重量を持っているのに、なぜか身体の軸を地面へ深く沈め、立っていること自体を強くする。
落下の勢いを乗せたアンノウンが盾へぶつかった瞬間、肩から背中まで鈍い衝撃が貫いた。押し潰されるような重さだったが、腕は折れず、膝も崩れない。むしろ、受け止めたことで相手の勢いが止まり、空から落ちてきた殺意そのものが目の前で足を失ったように感じられた。
視界の端では、緑の怪物が落ちたもう一体へ躊躇なく飛びかかっている。羽音を撒くアンノウンは地面へ叩きつけられた衝撃で体勢を立て直しきれず、そこへ獣じみた拳と爪のような一撃が容赦なく叩き込まれる。荒々しい戦い方なのに、恋人のいる方へだけは一歩も寄せない。その不器用なまでの線引きが、かえって彼の意志をはっきり見せていた。
嘴の長いアンノウンは盾から離れたあと、一拍だけ空中でたじろいだ。こちらも追撃に移ろうとしたが、その瞬間、落ちた仲間へ目を向けたそいつは、裁くような冷たい視線を残したまま、高所へ距離を取り直す。緑の怪物が地を蹴ってさらに追おうとしたところで、羽音を撒くアンノウンもよろめきながら飛び上がり、二体は互いの位置を確かめるように旋回したあと、夜の奥へすっと姿を引いた。
追えば届く距離ではないはずなのに、無理に踏み出すべきではないと身体が告げていた。今ここで崩せなかった空の優位を、次は確実に落とさなければならない。そのための何かが、まだこの姿の奥に隠れている気がするのに、今は盾の重さだけが確かな現実として腕に残っている。
深夜バスの到着を知らせるアナウンスが流れ、恋人は何も知らないまま鞄を持ち上げた。葦原さんは緑の怪物のまま、暗がりの中でその背中を見送っている。届かない距離に立ちながら、それでも守れたという事実だけが、夜の発着所に静かに残っていた。
やがて彼は、荒い呼吸のあいだに少しだけこちらを向いた。言葉はない。けれど、空を崩した力と、空からの一撃を止めた重さが、今だけ同じ場所で並んでいたことは確かだった。