羽音の個体が回避しようと翼を打つ。
その動きが、まるで水面を蹴った足が沈むみたいに鈍くなり、空中で姿勢を保つための「軽さ」が剥がれていく。
盾へ命中した嘴の個体は、そのまま錘として働き、二体の間に落下の連結が生まれた。
葦原さんが地面を蹴り、緑の怪物が跳び上がりながら鞭の腕を振るい、羽音の個体の脚をもう一度だけ絡め取る。
その一瞬の拘束が、俺の引力の糸と重なった。
空は逃げ道じゃなくなり、夜空はただの「高さ」へ戻され、二体の影は同時に、地面へ向かって落ちる運命を押し付けられた。
落ちる直前、羽音の個体が頭の奥へ最後の針を打ち込んできたが、痛みは怒りの核へ吸い込まれて、熱へ変わって消えた。
俺は一歩だけ踏み込み、地面へ沈む感覚をさらに深くし、落下点に向けて手を伸ばす。
伸ばした手が届く距離じゃないのに、重力なら届くと、今だけは断言できた。
盾が地面へ刺さるように落ち、二体の身体が引力に縫い付けられ、骨格のきしむ音が夜のアナウンスより生々しく響いた。
羽音の個体は翼を広げたまま、広げた翼そのものが重さに裂かれ、嘴の個体は落下の鋭さを失ったまま、ただの肉塊として地面へ押し込まれていく。
それでもまだ動こうとする意志が見えたから、俺は最後の「沈下」を選んだ。
足元から黒い圧が湧き上がり、落下点のアスファルトが割れ、そこに二体の影が沈んでいく。
沈むのは身体だけじゃない、狩りの優位も、空の誇りも、俺たちの日常を壊そうとした意思も、まとめて地面の下へ押し込められていく。
悲鳴とも羽音ともつかない音が一つになって途切れ、次の瞬間、夜の発着所に残ったのは、割れた地面と、盾が呼吸するみたいに微かに熱を吐く感覚だけだった。
俺は膝をつかないように踏ん張りながら、腹の奥で何かが一段、深い場所へ降りていくのを感じた。
強くなった実感より先に、失ったものの輪郭がはっきりするのが、この力の性格なんだと分かってしまう。
怒りを使ったのに、怒りが消えていない、むしろ怒りが「重さ」として体内へ残り、次に誰かが傷ついたら、もっと簡単に沈めてしまえる気がした。
葦原さんが着地し、緑の怪物のままこちらを一瞬だけ見た。
その視線には礼も謝罪もなく、ただ「守れた」という事実だけが置かれていて、それが逆に胸の奥を痛くさせた。
つる先輩は言葉を探しているみたいに口を開いたが、説明が追いつく前に俺の方が先に理解してしまって、だから何も言えずに息を吐いた。
深夜バスのライトが遠くから近づき、何も知らない恋人が戻ってくる未来が、ぎりぎりのところで繋がったままだと分かる。
俺は盾を引き寄せようとして、引き寄せた瞬間に腕へ走った痛みで、重力は便利な道具じゃなく、俺の内側に住み始めた「癖」なんだと悟った。
そして、その癖はきっと、誰かを守るために使うほど、俺を人間から遠ざける。
夜が静かすぎて、逆に怖かった。
戦いが終わったのに、終わった場所に立っている俺だけが、まだ落下の途中にいるみたいだった。
夜の奥へすっと姿を引いた――そう見えたのは、たぶん「逃げた」のではなく、「仕切り直した」だけだった。
羽音が消えたわけではなく、頭蓋の裏側へ残滓のように貼りついた振動が、こちらの呼吸の周期を勝手に測っている感覚があった。
あいつらは距離を取ることで安全になったのではなく、距離を取ったぶんだけ「落下」を完成させる余白を作ったのだと、妙に冷えた確信が胸の底へ沈んでいく。
照明塔の白い光が届かない高さで、二つの影は互いに重なるように旋回し、次の角度を選ぶ鳥のような迷いのなさで夜空を切り裂いた。
嘴の長い個体は、もう一度だけ真下を見下ろしてから、狙いを「俺」に切り替えたのが分かった。
羽音を撒く個体は、葦原さんへ向けていたはずの意識を薄く広げ、発着所全体を一枚の狩場として計測し直しているように見えた。
「結城君、二体とも撤退じゃない、次は同時です、片方があなたの受けを崩した瞬間にもう片方が――」
つる先輩の説明は途中で言葉を飲み込んだが、飲み込まれたのは理屈ではなく、俺の腕に残る盾の重さを見たときの、理解の速度そのものだった。
彼女は怖がっていたのに、怖さを「観測」に変える癖で、その恐怖の形を急いで言語へ落とし込もうとしていた。
盾の装甲が軋むように鳴り、前腕の内側で何かが回転する感覚が走った瞬間、俺の足元だけが世界から切り離された。
地面が固くなったわけではなく、俺が地面へ沈んだのだと理解したとき、初めて「重さ」が武器になる意味が腑に落ちた。
呼吸をするたびに肺が重くなるのに、心臓だけは軽く、怒りの熱だけが一点へ集まって、身体の中心に黒い核を作っていく。
嘴の長いアンノウンが急降下へ入る。
それはさっきと同じ軌道のはずなのに、今度は落ちてくる「速度」より先に、落ちてくる「意思」が見えた。
殺すための落下であり、こちらを受けさせて、その一瞬に羽音の方が脳を壊す、完璧に分業された狩り。
葦原さんが暗がりから跳び、緑の怪物の爪が空を裂いたが、羽音の個体は距離をずらして回避し、回避した瞬間に音だけを撒いた。
頭の奥が熱で煮えるみたいに痛んで、視界が一瞬だけ白く滲み、思考が「沈む」方向へ引っ張られた。
だから、俺は怒りを噛み潰したまま、盾の縁を指先で叩くようにして、落ちるべきものを落とす準備をした。
「――来いよ、空が強いなら、その強さごと地面へ貼り付けてやる」
口に出した言葉が自分のものに聞こえないほど低く、喉の奥に砂利を詰めたみたいな声で、俺は重力の向きを選んだ。
盾の表面に同心円の模様が浮かび、足元から立ち上がった見えない圧が、発着所のアスファルトをわずかに軋ませた。
嘴の個体が盾へ衝突する、その瞬間に合わせて、俺は「受け止める」のではなく「固定する」。
前腕の盾が衝撃を抱え込むと同時に、衝突点から重さが糸のように伸び、嘴の個体の胴体へ楔を打ち込む感覚が伝わってきた。
相手は跳ね返らない、逃げられない、落下の終わりが「地面」ではなく「俺の前腕」になったせいで、動きそのものが詰まっていく。
「今です、結城君、もう一体はあなたの頭を――!」
つる先輩の声が遠い。
遠いまま、羽音の個体が高所から真上へ入り、音の刃を垂直に落としてくる。
俺は歯を食いしばり、固定した嘴の個体ごと盾を外へ押し出すようにして、投げた。
投擲というよりも、世界の重心を一点だけずらして、そこへ「落とした」感覚に近かった。
盾は空中で軌道を失わない、見えない引力の糸に吊られたまま、嘴の個体を抱えた状態で弧を描き、羽音の個体の真下へ吸い寄せられていく。