数日後の昼だった。
夜の発着所に残っていた割れた地面の感触が、靴底の裏にまだ貼りついている気がするのに、空はあっけないほど青く、雲は無邪気に流れていた。
日光は世界を清潔に見せる。だから余計に、あの夜の「沈む」感覚だけが異物として体内に残る。
結城は講義の途中で席を立った。
教授の声が遠くなる。板書のチョークが擦れる音が、まるで水面の下から聞こえるみたいに鈍くなる。
喉の奥が湿って、呼吸が引っかかった。
――来る。
羽音でも、風でもない。
水のない場所で溺れるあの気配。
誰かが、沈められる前の予兆。
廊下を走る。
階段を駆け下りる。
外へ出た瞬間、日の匂いが鼻腔を刺した。草の青さ、アスファルトの熱、昼のざわめき。
それなのに結城の内側だけ、冷たい水の底へ落ちていく。
公園だった。
平日の昼なのに人が少なく、遊具だけが無言で風に揺れている。
そして遊具の影に、ありえないものがあった。
水たまり。
昨日の雨ならもう乾いているはずの場所に、黒い水面が広がっている。
水が置かれているというより、地面が水へ「書き換えられて」いた。
その中心で、一人の男が沈みかけていた。
足を取られ、膝まで沈み、上半身を引き戻そうとしても、腕が水の粘度に絡め取られて動かない。
助けを呼ぶ声は出ているのに、声が届く前に喉が詰まり、叫びが泡に変わっていく。
結城は視界の端で、父親と子どもを見た。
さっきまで一緒にいたのだろう、父親は子どもの肩を抱え、泣きそうな顔で距離を取っている。
子どもは水たまりを見つめたまま、足が床に縫い付けられたみたいに動けない。
「つる先輩!」
結城の声に反応して、つる先輩がすぐに父子へ走った。
彼女は迷わない。迷いを見せたら、相手が沈むと知っているからだ。
「離れて! その子、抱えて! そのまま日陰を抜けて、道路側へ!」
丁寧語が崩れているのに、指示だけは鋭い。
父親は一度だけ結城を見て、何か言いかけたが言葉にならず、子どもを抱え上げて走り出した。
礼も説明もない。そういう昼だ。恐怖が最優先の昼だ。
結城は水たまりへ踏み込む前に、腹の奥へ意識を落とした。
あの夜、角と装甲に身を預けた瞬間と同じ痛みが、昼の明るさの中で蘇る。
――怒りじゃない。
今は、間に合わないという恐怖だ。
失わせないという、焦りだ。
腹部が灼けた。
皮膚の内側で、金色の渦が回る。
擬似アークル器官が生まれ、骨格がずれるような違和感が走り、肉体が「戦う形」に改められていく。
「変身っ」
声が出た瞬間、世界が沈む。
昼の光が水面の反射みたいに揺れ、色が一段落ちる。
装甲が皮膚を覆い、角が伸び、通常フォーム――深海の黒銀が整った。
俺は水面へ踏み込んだ。
沈むはずの足が沈まない。
圧を分散し、瞬間だけ“面”を作る。
水そのものに勝っているのではなく、水面が「沈むべきもの」を計算し直している。
沈みかけの男の腕を掴む。
水の腕が絡みつき、引きずり込もうとする。
受けて、返す。
触手の力を装甲へ流し、散らし、散らしたまま返す。
水面が波打ち、絡みがほどけ、男の身体が浮いた。
男は咳き込み、空気を掴むように口を開く。
「息、して!」
俺は男を岸へ押し戻し、地面へ転がす。
その瞬間、背後で水面が盛り上がった。
アンノウンが立っていた。
タコのような頭部。
触手のような腕。
水を操っているのではない。水を「命令できる」存在。
水のない場所で溺死を成立させるためだけに、世界の規則をねじ曲げている。
俺は構える。
拳を握らない。掌を開く。掴むための形。救うための形。
だがその形は、いつでも殺す形へ裏返る。
そのとき、金属音が割り込んだ。
昼の公園に似つかわしくない、硬い足音。
装甲が擦れ、関節が駆動する音が近づく。
振り向いた結城の視界に入ったのは、青いパワードスーツだった。
人の輪郭をしているのに、人間の柔らかさがない。
軍用品の冷たさだけで組み上がった、青い鎧。
胸部の装置が光り、手には銃――いや、銃というより「現場の結論」を持っている。
結城は名前を知らない。
だから認識は単純だった。
――青いパワードスーツ。
人間側の、別の怪物。
スーツの男が機械みたいに淡々と言った。
「対象確認。未確認生命体反応……二」
銃口が上がる。
アンノウンへ向く。
そして、そのまま俺へも向く。
「おい、待て!」
結城は叫んだ。
叫んだが、昼の空気は夜より軽く、言葉は軽いまま届かない。
乾いた発砲音。
火花が散り、弾がアンノウンの肩を抉り、ほとんど同時に俺の装甲にも弾けた。
撃った。
平然と。
区別なく。
衝撃は散った。致命傷にはならない。
だが胸の奥へ、冷たい水が流し込まれる。
助けるために立ったはずの場所で、人間が撃ってくるという事実が、昼の明るさで余計に生々しい。
つる先輩の声が、少し離れた場所から聞こえた。
避難させたはずの父子が走り去る背中を見送ったまま、彼女はこっちを見ている。
見ているのに、理解が追いついていない顔をしている。
「……それ、味方……じゃ……」
言葉が途中で折れる。
折れた断面がむき出しのまま、震えている。
理屈の人の理屈が、昼の現場で裂ける音がした。
アンノウンが笑うように触手をうねらせた。
水面が広がり、青いパワードスーツの足元へも黒い池が伸びる。
だがスーツの男は一歩も引かず、銃口を上げ直して、今度は俺へ照準を合わせる。
結城は困惑を飲み込めないまま、構え直した。
アンノウンへも。
青いパワードスーツへも。
守る対象はもう視界にいない。
視界にいるのは、沈めようとする怪物と、沈め方の違う正義だけだ。
三つ巴。
昼の公園で、最悪な形の“戦いの開始”が成立してしまう。
結城は息を吸う。
喉の奥が、やっぱり湿っていた。
止まった方が沈む。
沈んだら、浮かび上がるための理由さえ奪われる。