「ここが城北大学ですか」
口に出した瞬間、言葉がやけに乾いて聞こえた。
数日前の昼の公園で、地面の上に黒い水面が“生えた”光景が、まだ網膜の裏に残っているせいだと思う。
同じ昼なのに、ここは明るすぎる。学生の笑い声と自転車のベルが、世界がまともである証拠みたいに耳へ入ってくる。
けれど、まともさは薄い膜だ。少し擦れば破れて、あの湿り気が顔を出す。
「そう言えば、結城君はここに来るのは初めてですよね」
つる子先輩が隣で言う。
普段どおりの声に聞こえるのに、あの瞬間――青い装甲に銃口を向けられた瞬間、先輩の言葉が途中で折れた音が、まだどこかで鳴っている。
それでも先輩は歩く。
足取りに迷いを混ぜない。迷いが混ざったら誰かが沈む、と知っている人の歩き方だった。
案内板に従って校舎へ入る。
廊下はワックスの匂いがする。蛍光灯の反射が床に帯を作り、僕らの影を伸ばす。
ただの大学の廊下のはずなのに、胸の奥が少しだけ重い。
僕の中にある“それ”が、未知の匂いに反応している気がする。
研究棟の奥。
扉の前で先輩が立ち止まり、呼吸を一度整えた。
ノックの回数まできっちり揃えるのは、先輩が本気になった時の癖だ。
「失礼します、高村教授」
扉の向こうで椅子が軋み、紙束が擦れる音がした。
次の瞬間、短い声。
「むっ?」
その声だけで、空気が変わった。
研究室という場所の“圧”が、ドア越しに漏れてくる。
先輩が扉を開ける。
本が壁になっていた。背表紙が積み重なって、外の昼の白さとは別の重さを作っている。
その中心に、男の人がいた。
白衣ではない。けれど立っているだけで「教授」だと分かる種類の人間だった。
「つる子君に、そちらの子は」
視線が僕へ向く。
柔らかいのに、焦点がぶれない。
測られている、と感じた瞬間、僕は反射で背筋を伸ばしていた。
腹の奥――擬似アークルの場所が、薄く熱を持つ錯覚がした。
「後輩の結城君です」
先輩が言うと、教授は小さく頷いた。
机の角を指で一度だけ叩く。
それだけで、会話の主導権が向こうへ移ったのが分かる。
「ふむ、結城君か、初めまして、高村光介だ」
「初めまして、結城です」
名乗った瞬間、教授の目がわずかに細くなった。
好奇心というより、名前から何かを読み取る研究者の目。
僕は自分の名前が、僕の中身を守ってくれる盾ではないことを思い出す。
盾があるのは、もう別の場所だ。
「それで君達は何を聞きに来たのかね」
問いは淡々としているのに、逃げ道がない。
僕は喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
青い装甲の銃口が、頭の中でまた回転する。
あれを“敵”と言い切ってしまえば楽だ。
でも、あれは人間の側にいる。
人間の側にいるはずのものが、僕を撃った。
僕が言葉を探っている間に、先輩が一歩前へ出た。
「えぇ、実は警察で最近話題になっている青いパワードスーツについてを」
先輩の口調は落ち着いている。
落ち着いているからこそ、僕は少しだけ息がしやすくなる。
理屈がある。整理がある。
それだけで世界は少しだけ沈みにくくなる。
「ふむ、好奇心旺盛な君らしいね」
教授の声は軽い。
軽いのに、軽さで済む話題じゃないことが逆に分かる。
先輩は“伝手”と言った。
その伝手が、危険を知っている人の伝手だということが、今さら胸に落ちてくる。
教授の視線が僕へ戻る。
僕は一瞬だけ目を逸らしそうになって、踏みとどまった。
逃げない、と決めてここまで来た。
逃げないと決めたのに、逃げないことが僕を怪物側へ寄せる気がして怖い。
それでも、僕は顔を上げた。
「G3の事を話そうか」
その単語が落ちた瞬間、腹の奥がわずかに反応した。
知らないはずの言葉なのに、身体のどこかが“知っている”みたいに。
僕は自分の中で何かが静かに回り始めるのを感じた。
先輩が僕の横で、ほんの少しだけ笑った。
「大丈夫」という意味の笑いじゃない。
「ここからが本題」という合図の笑いだった。