炎は遺跡の空気を別のものに変えてしまう。
煙が喉に貼りついて、息を吸うたびに焼けた匂いがする。作業灯のいくつかは倒れ、火はまだ生きているのに、光だけが足りない。揺れる火影が壁に踊って、そこにあるはずの通路すら歪んで見えた。
背中が熱い。
いや、背中だけじゃない。腕も、脚も、胸も――自分の身体全体が、熱を内側から抱え込んでいる。走ったわけでもないのに息が荒い。鼓動が耳の奥でうるさい。
僕はゆっくり、指を開いた。
手袋をしていたはずの手は、もう違う。表面の感覚が鈍い。拳を握ると、骨の位置が微妙に違う気がする。関節が硬いというより、最初から“そういう形”だったみたいに馴染んでいる。
腰の前が重い。
視線を落とせば、そこには確かに“ある”。中心に核のようなものを持ち、輪郭の意匠が重なった、混ざりものの帯。僕が望んだわけじゃないのに、僕の身体の一部みたいにそこにいる。
「……結城君……」
背後から声がした。
つる先輩は、壁に背中を預けて座り込んでいた。糸が解けたばかりなのか、指先が震えている。喉元に赤い痕が残っていて、それが火の光で生々しく浮き上がる。
目が合った瞬間、先輩の顔色がまた僅かに変わった。青白いままなのに、そこに別の色が混じる。恐怖だけじゃない。理解しようとする目だ。
僕は何か言おうとして、言葉を失った。
「大丈夫ですか」と聞くのは、今の状況ではあまりにも嘘になる。
「逃げましょう」と言うには、遅すぎる。
——遅すぎる理由が、目の前にいる。
壁に叩きつけられた影が、何事もなかったように立ち上がっていた。蜘蛛のような節を持つ四肢が、炎の明滅で一瞬ずつ形を変える。糸の切れ端が床に散っているのに、“それ”は傷ついたようには見えない。
目だけがこちらを見て光る。
さっき、“それ”は僕を呼んだ。
“アルタ”と。
名付けられた覚えはない。なのに、先に知られていた。まるで僕の方が、遅れてこの場に来たみたいに。
“それ”の首がわずかに傾く。
次の瞬間、空気が変わった。
さっきまでの“興味”が消え、代わりに冷たい圧が立つ。
刃物みたいな気配。目的が定まった時のそれ。
「……クウガの危険……」
音としては確かに言葉だった。けれど、意味だけが先に刺さる。
火の光の中で、“それ”の目が僅かに細くなる。
「……再び、目覚める」
ぞっとした。
僕の中で何かが跳ねた。恐怖と怒りが同時に持ち上がる。
“それ”は今、つる先輩ではなく、僕を見ている。僕の腰――僕の核を見ている。
そして、襲い掛かってきた。
壁を蹴る。床を蹴る。常識の重力を無視した踏み込み。
蜘蛛のように、真っ直ぐじゃない軌道で迫り、距離が一瞬で潰れる。
糸が飛んだ。
空気を裂く感覚が頬の横を走る。避ける時間なんてなかった――はずなのに、身体が勝手に角度を変えた。頭では理解する前に、足が、腰が、肩が、すでに“そこにいない”。
糸は空を打ち、背後の壁に突き刺さる。
僕は自分の動きに驚く暇もなく、次の一手を出していた。
拳を前に出すのではなく、横に滑らせる。相手の腕の内側を叩き、踏み込みの軸をずらす。
押すんじゃない。崩す。
——知っている動きだった。
見たことがある、というより。
身体の奥が、その型を“思い出している”。
“それ”が体勢を立て直そうとする前に、足が出る。低い位置からの蹴り。膝ではなく脛を狙う。次に、胸元へ。近づきすぎない。喰らいつかれない距離だけを保つ。
カウンター。
そういう言葉を、後からなら付けられる。
でも今は、ただ“そうするしかない”からそうしている。
炎の向こうで、つる先輩が息を呑む音がした。
僕は振り返れない。
振り返った瞬間に、誰かが死ぬ予感があった。
“それ”は一歩下がり、目を細める。
まるで、確かめるみたいに。
——僕が何者なのかを。
そして、どこまで“危険”なのかを。
僕の腰の中心が熱を増した。
黄金色の渦が、また視界の端で揺らめく。
これは始まりだ。
つる先輩の言った「未知の知識」とは、たぶん違う。
けれど僕は今、否応なく“記録”されていく。誰かに、世界に。
そして何より、僕自身の身体に。
炎の向こうで、未確認が動いた。
壁を蹴り、天井に張りつき、そこから落ちるように距離を詰めてくる。
人の動きじゃない。上下の感覚がない。
視界の端で、腕が振り上げられるのが見えた。
——来る。
僕は反射的に腰を落とした。
構えるという意識はなかった。
ただ、重心を下げると同時に、肩の力が抜ける。
拳が眼前に迫る。
真正面から受け止めれば、吹き飛ばされる。
避けきれなければ、つる先輩のいる後ろへ押し込まれる。
そう考えた次の瞬間。
身体が半歩だけ横に流れた。
拳は僕の頬を掠めて空を切る。
そのまま通り過ぎるのを待たずに、腕が動いた。
相手の肘の内側に、短く拳を当てる。
強く打ち込んだ感触はない。
けれど、関節の向きがずれたのが分かる。
未確認の腕が、意図しない方向へ流れる。
「……!」
影が体勢を立て直そうとする前に、足が前に出ていた。
踏み込むのではなく、距離を詰めるだけ。
蹴りは高くない。脛を狙う。
鈍い衝撃が返ってきて、影の脚が一瞬、床を滑った。
——崩れた。
その隙に追撃できる。
でも、しなかった。
頭の奥で、別の考えが浮かぶ。
——後ろ。
背中の気配を、はっきりと意識する。
つる先輩がそこにいる。
ここで踏み込みすぎれば、糸が飛ぶ。
角度を変えれば、狙いは僕じゃなくなる。
だから、前に出ない。
距離を保ったまま、構え直す。
未確認が、低く身を沈めた。
今度は糸だ。
腕が振られ、白い線が空間を裂く。
一直線じゃない。床と壁を使って、巻き取るように迫る。
避けるには遅い。
そう思ったはずなのに、足が勝手に動いた。
片足を引き、身体を斜めに沈める。
糸が頭上を抜け、背後の壁に突き刺さる。
同時に、もう一方の脚が伸びた。
蹴りは狙っていない。
ただ、そこに“足首があった”。
影の脚を横から払うように当てる。
今度ははっきりと手応えがあった。
未確認の身体が傾く。
すぐに次が来る。
拳
避ける
返す
糸
沈む
返す
攻撃を止めている感覚はない。
来た動きに身体が応じているだけだ。
不思議なほど、余計な力を使っていない。
恐怖は消えていない。
でも、頭の中は妙に静かだった。
——守る。
その意識だけが、はっきりしている。
気づけば、未確認の動きが荒くなっていた。
踏み込みが大きくなり、攻撃が直線的になる。
焦りか、怒りか。
それとも、僕を“危険だと判断した”のか。
僕は構えを崩さない。
前に出ない。
背中を見せない。
相手が動いた分だけ、返す。
考えていない。
判断していない。
ただ、身体が知っている。
——こうすれば、後ろの人は無事でいられる。
炎の爆ぜる音の中で、未確認が一歩、距離を取った。
僕は追わない。
拳も下ろさない。
未確認が動いた。
それまでの様子見とは違う。
壁を蹴る音が、はっきりと聞こえた。
逃げでも後退でもない――殺すための踏み込み。
視界が狭まる。
“それ”の全身が、糸を吐きながら前に出る。
一本じゃない。
何本もの糸が床と壁を縫い、空間そのものを絡め取るように広がる。
逃げ場を消す。
糸の向こう側で、影が迫る。
距離が一気に詰まる。
——来る。
身体が深く沈んだ。
息を吸う暇はない。
代わりに、腹の奥に重い圧が溜まる。
押し潰されるみたいな感覚。
空気が身体の内側に集まってくる。
——プレッシャー。
地面を踏みしめた足裏から、力が伝わる。
筋肉が軋み、骨が鳴る。
未確認の糸が視界を覆う。
その瞬間。
頭の奥で、何かが切り替わった。
視界の端が、金色に染まる。
角が伸びる。
額の感覚が変わり、空気を切る抵抗が増す。
二本だった輪郭が枝分かれするように展開し、視界の上部を縁取る。
——判断はない。
あるのは返すという選択だけ。
迫る影。
迫る糸。
身体が前に出た。
蹴り足が地面を離れる。
跳躍じゃない。
押し出されるような踏み込み。
腰が回り、軸足が地面を削る。
上半身が遅れてついてきて、視界が一瞬、横に流れる。
——ラウンドキック。
回し蹴り。
だが、ただの回転じゃない。
溜め込んだ圧が、脚に集中する。
空気が歪み、足先の周囲で音が潰れる。
未確認の糸が、蹴りに絡みつこうとする。
だが、触れた瞬間、弾けた。
圧が糸を押し返す。
脚が影の中心を捉える。
——当たった。
衝撃は音にならなかった。
代わりに空間が揺れた。
未確認の身体が糸ごと吹き飛ぶ。
壁に叩きつけられる前に、内部から圧が抜けるように爆ぜる。
蜘蛛の影が空中で崩れる。
脚が床に戻る。
遅れて、轟音。
壁が砕け、遺跡全体が震えた。
糸は焼け切れ、床に黒い痕だけを残す。
炎がさらに燃え上がる。
その中心で、影はもう動かない。
僕は構えを解かない。
呼吸がようやく戻る。
肺が焼けた空気を吸い込んで痛む。
角はゆっくりと元の形に戻っていく。
金色の縁取りが、視界から薄れていく。
——終わった。
そう理解した時、ようやく足が震えた。
背後で誰かが息を呑む音がした。
振り返らなくても分かる。
つる先輩だ。
炎に照らされて、僕の影が壁に映る。
二本角の仮面の影。
その姿を見て、先輩が呟いた。
「……四号……」
否定できなかった。
でも、同じでもない。
未確認の残骸が、静かに崩れる。
その中で、掠れた声が落ちた。
「……アギトでも、ギルスでもない……」
炎が揺れる。
「混ざった存在……アルタ……」
その名が遺跡に残った。
記録されるように。
消えない痕跡として。
遺跡が悲鳴を上げた。
低く、腹の底から響くような音。
石と石が軋み合い、天井のどこかで何かが崩れる。
炎が広がっている。
作業灯の火が燃え移り、壁際の木製の支柱が一気に燃え上がる。
煙が濃くなり、視界が赤黒く滲む。
——ここはもう持たない。
そう理解した瞬間、身体が動いた。
振り返り、つる先輩のところへ駆け寄る。
声をかける余裕はない。
「……っ」
つる先輩は立ち上がろうとして、足に力が入らず崩れかけた。
糸に縛られていたせいか、膝が震えている。
考えるより先に、腕を回していた。
抱き上げる。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
軽いと思った瞬間、胸が痛んだ。
人一人の重さを、軽いなんて感じてしまう今の自分が。
「結城、君……?」
つる先輩の声がすぐ近くでする。
驚きと不安と、まだ残っている恐怖。
「掴まってください」
それだけ言って、走り出した。
炎が背後で爆ぜる。
熱風が背中を叩き、空気が一気に乾く。
通路を駆け抜ける。
足音がやけに大きく響く。
その途中で——
身体が重くなった。
違和感というより、引き戻される感覚。
筋肉の張りが抜け、関節の感触が変わる。
視界の縁にあった硬質な輪郭が、薄れていく。
呼吸音が反響しなくなる。
——戻っている。
仮面が消える。
皮膚の感触が、知っているものに変わる。
重さが一気に現実になる。
腕が軋み、脚が悲鳴を上げる。
それでも止まらない。
人間の身体に戻ったと頭が理解する前に、出口が見えた。
外の光。
夜の冷たい空気が、煙の向こうに滲む。
最後の一歩で地面を蹴った。
転がるように、外へ飛び出す。
次の瞬間——
爆発音。
背後で遺跡が弾けた。
炎と煙が噴き上がり、衝撃が背中を押す。
地面に転がりつる先輩を抱えたまま、必死に身体を丸めた。
しばらく、何も聞こえなかった。
耳鳴り
心臓の音
自分の荒い呼吸
ようやく煙が流れ、視界が戻る。
遺跡の入り口は、もう原形を留めていなかった。
崩れ落ちた石と燃え残った木材が、赤く燻っている。
——終わった。
僕はそっと腕の力を緩めた。
つる先輩はまだ呆然としたまま、僕を見上げている。
目が合って数秒遅れて、現実を理解したように瞬きをした。
「……生きてる……?」
「……はい」
声が震えた。
自分でも分かる。
つる先輩が深く息を吐く。
それから、小さく笑った。
「……すごい記録、取れちゃったかもね……」
その言葉で、ようやく膝が笑った。
力が抜けて、その場に座り込む。
腰の前に、もう“あれ”はない。
けれど、消えたわけじゃないとなぜか分かる。
燃え続ける遺跡を背に、夜風が頬を冷やす。
僕は知ってしまった。
あの背中に近づいてしまった。
そして、もう戻れない場所に、一歩踏み込んでしまった。
これが始まりだ。
誰かに記録される前に、
僕自身の中で、確かに刻まれた――最初の夜だった。
見出し:
山間部で正体不明の怪人出現 武装警官隊と交戦か
日付/地域:
1999年1月 長野県
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長野県○○村付近で、正体不明の生命体が目撃され、警察の武装部隊と衝突した可能性があることが分かった。現場では複数の車両が破壊され、付近一帯に爆発や銃撃の痕跡が確認されている。目撃者の証言によれば、対象は「人型に近いが異様な姿」「銃弾を受けても倒れなかった」とされる。詳細は不明だが、警察は未確認生命体の関与を視野に捜査を進めている。