夜は、昼の延長ではない。
城北大学の白い廊下も、高村教授の資料も、画面の中で光っていた“角の輪郭”も、日が落ちた瞬間にべつの性質へ変わる。
昼に得た知識が、夜になると呪いみたいに再生して、こちらの足首へ絡みつくのだと知った。
帰り道、喉が乾いた。
乾くのに、汗が冷たい。皮膚の表面だけが砂のようにざらつき、呼吸をするたび肺の内側から水分が抜けていく錯覚がある。
水の匂いではない。むしろ逆だ。水が消えていく匂い。
嫌な予感が、あの蛸の事件よりも先に、身体へ合図を送ってくる。
携帯電話を握りしめる指に、無意味な力が入った。
連絡すべき相手は一人しかいない。そう思って画面を点けると、ちょうど先に通知が飛んできた。
『帰れていますか。変な気配、まだ続いてますか』
つる子先輩の短い文章は、心配を隠したいのに隠しきれていない角がある。
俺は迷って、結局、通話ボタンを押した。
呼び出し音の一回目で繋がる。
「結城くん?」
先輩の声は、昼より少し低かった。夜の声だ。
「……先輩、今、喉が乾くんです。変なんです。水じゃないのに」
自分でも説明になっていないと思いながら言うと、先輩は息を吸う音を立てた。
「乾き……。それ、今日の資料の話と繋がる可能性があります。ゼブラ……」
言いかけて、先輩は言葉を切った。
切った理由は、たぶん俺が欲しいのが名前じゃないと分かっているからだ。
「先輩、来ないでください」
俺は先に言ってしまった。
言ってから、少し遅れて、自分が怒っているのか怖がっているのか分からなくなる。
「……行きますよ」
先輩の返事はあっさりしていた。
そしてあっさりしている分だけ、譲らないのが分かった。
「危ないんです。前も……」
青い装甲の銃口。爆ぜた空気。撤退。
言葉にしようとした瞬間、喉の奥の湿り気が戻って、言葉が詰まる。
「だからです」
先輩は、淡々と言った。
「あなたが一人で“背中を守る”癖を強めると、いつか誰も近づけなくなります。私は、そうなるのが嫌です」
拒絶ではなく、宣言だった。
俺は一瞬だけ黙ってしまう。
先輩は僕の中身を“データ”にしようとする人でもあるのに、こういうときだけ、理屈じゃなく人間のまま押し込んでくる。
「……場所、送ります」
負けた、と思った。
でも負けたのに、少しだけ息がしやすくなった。
「了解。無理はしないで。あなたの無理は、あなたのものだけで済まなくなるから」
先輩はそう言って通話を切った。
切った後に残る沈黙が、夜の方が重い。
――来る。
そう思った瞬間、腹の奥がわずかに回った。起動寸前の静電気みたいに内側が痺れる。
アンノウンの気配だ。理屈では説明できない。
けれど説明できないからこそ、これだけは外さない。
俺は走った。
街灯の光は頼りなく、暗がりの方が輪郭をはっきりさせる。
夜の空気は冷たいはずなのに、喉だけが干上がっていく。
人の気配が薄い場所へ近づくほど乾きは強くなる。
乾きが強くなるほど、誰かが“触れられかけている”と分かる。
路地の先で、悲鳴が途切れた。
途切れた理由が疲労ではないことがすぐに分かった。喉が塞がったのだ。水ではなく、乾きで。
「……っ、誰か……!」
声を絞り出していたのは警察官だった。
制服の肩章が街灯に反射し、顔は青白い。汗が浮いているのに唇が乾いて割れている。
目の前には、黒と白の縞模様が揺れていた。馬の輪郭に獣の冷たさを貼り付けたような異形。
そしてもう一体。似た縞を持ちながら、動きが補助に徹している、余白の怪物。
触れたら終わる。
そういう圧が肌の上を滑ってきた。実際に触れられていないのに、皮膚の水分が奪われる予感だけで背中が凍る。
警察官は右腕を押さえていた。袖口が不自然に皺み、皮膚が紙みたいに硬くなりかけている。
――助ける。
考える前に身体が動いた。
昼の公園で、守る対象を視界から消した後の虚無を、もう繰り返したくなかった。
「下がれ!」
叫んだ声が自分のものか分からないほど低くなる。
次の瞬間、腹の奥が灼けた。
“器官”が生えるのではなく、ベルトが――腹部に、最初からそこにあったみたいに“現れる”。
革でも金属でもない質感。なのに触れれば確かな重みがあって、俺の体温より少しだけ冷たい。
「変身――!」
光が走り、世界が水中みたいに遅くなる。
黒銀の装甲が皮膚を覆い、角が伸びる。
俺はアルタになっていた。通常の姿で、受けて返すための姿で、触れさせないための姿勢を取る。
乾きを押し付けてくる方が前へ出た。
縞の怪物が、夜の空気を踏みつけるように距離を詰める。
触れたら終わる。だから触れられる前に折る。
俺は一歩で間合いを削り、拳ではなく掌で胸元を弾いた。
弾いた衝撃を装甲全体へ散らし、散らしたまま足元へ返す。
突進は“止める”のではなく“ずらす”。触れる角度が狂えば、能力の成立も狂う。
もう一体が横から入ってくる。
能力を使う気配が薄いのに、動きはいやらしい。追い込み役だ。足を止めて仲間に触れさせるための動き。
俺は後ろへ下がらない。背中を見せない。
背中を見せたら、人間の正義が撃ってくる夜を知ってしまったから。
警察官の方へ視線を投げた。
倒れていない。逃げてもいない。
それどころか、俺を見ている。恐怖の目じゃない。状況を読む目だ。
“助けられる側”の目ではなく、現場の人間の目。
知らないのに、どこかで知っている視線の質だった。
「……アルタ……」
小さな声が聞こえた。確かに俺の名を呼んだ。
俺は振り向かなかった。振り向けば背中が空く。
ただ、呼ばれた事実だけが胸の底へ沈む。
この人は俺を知っている。
俺はこの人を知らない。
なのに、その視線を背中に感じるだけで、少しだけ“守り方”が変わってしまうのが怖かった。
追い込み役が回り込み、俺と警察官の線を切ろうとする。
守るべき対象を視界から消させない。
守る対象が消えた瞬間、戦いが殺意へ寄ることを、俺はもう知っている。
だから位置をずらし、二体の間へ自分の影を差し込む。灯りの下で境界線を引く。