夜の路地は、昼の街を裏返しただけのはずなのに、別の世界みたいに冷たい。
街灯の光は届いているのに、届いている部分だけが余計に暗い。影が濃くなる。輪郭が尖る。
そして喉が乾く。乾くのに、息が湿る。自分の呼吸だけが、水分を奪われていく音を立てている気がした。
「……っ、ぐ……!」
壁に手をついた警察官が、膝を折らないように踏ん張っている。
制服の肩章が街灯に反射し、顔は青白い。汗は浮いているのに唇は乾いて割れていて、右腕の袖口が不自然に皺み、皮膚が紙みたいに硬くなりかけている。
それでも彼は逃げない。逃げられないのではなく、逃げないと決めて立っている。
その視線が、俺の背中へ刺さる。
知らないのに、どこかで知っている視線の質だ。現場の目だ。
「下がれ!」
叫ぶと同時に、腰のあたりが熱を持った。
擬似器官が生えるのではない。俺の腰に“ベルト”が現れる。最初からそこにあったみたいに、違和感なく、けれど確実に。
バックルの中心で金色の渦が回転し、光が起動する。
「変身――!」
光が走って、世界が水中みたいに遅くなる。
黒銀の装甲が皮膚を覆い、角が伸び、息の音だけが深くなる。
俺はアルタになっていた。通常の姿で、受けて返すための姿で、触れさせないための姿勢を取る。
目の前のアンノウンは縞模様の獣だった。
馬の輪郭を持ちながら、獣の冷たさを貼り付けたような異形。
触れたら終わる。空気が乾く。皮膚がきしむ。喉が鳴る。
能力の理屈は分からない。でも“接触が死”だという圧だけは、身体が勝手に理解してしまう。
――触れさせるな。
受ける前に、ずらせ。
俺は一歩で間合いを詰め、拳ではなく掌で胸元を弾いた。
弾いた衝撃を装甲全体へ散らし、散らしたまま足元へ返す。
突進は止めない。止めたら触れる。だから、線を外す。
縞の怪物が腕を振る。空間に“触れ”が走る。
俺は肩を回し、肘を畳み、すり抜けるように避けた。避けた瞬間、踵で地面を叩き、短い蹴りを入れる。
深追いしない。深追いしたら終わる。
だから削る。削って、成立条件を崩す。
背後で、警察官が息を吸う音がした。
「……アルタ……」
小さな声だが、確かに俺の名を呼んだ。
この人は俺を知っている。
俺はこの人を知らない。
それでもその呼び方が背中に触れるだけで、俺の怒りが“熱”ではなく“形”になるのが嫌だった。
守るべきものがここにいると、確定してしまうからだ。
「動くな……触れるな……」
警察官が、自分に言い聞かせるように呟いた。
恐怖の言葉じゃない。現場の言葉だ。
その質の違いが、俺の中で何かを少しだけ変えた。
その瞬間、空気がもう一段乾いた。
路地の奥から、別の足音がする。
獣のものではないのに、こちらへ向かってくる“殺意の速度”。
――増えた。
視界の端で、縞模様がもう一つ揺れた。
最初の個体より細身で、動きが無駄に滑らかだ。
能力の圧は薄い。だが、その薄さが逆に怖い。
これは“触れて殺す”役ではなく、“触れさせる”役。追い込み。足止め。退路を消すための存在。
俺の位置取りが崩れる。
一体目の正面圧力を捌きながら、二体目の回り込みを封じなければならない。
しかも背後には守らなければならない警察官。
下がれない。広がれない。路地の狭さが檻になる。
「……増援か」
背後の警察官が歯を食いしばった声で言った。
振り向けない。でも、その声の端に焦りより先に“判断”があるのを聞き取ってしまう。
この人は現場を知っている。戦場の音を、恐怖より先に整理できる人間だ。
二体目が左へ滑る。俺の死角へ入り、警察官の退路を塞ぐ角度。
俺は踏み替え、影を差し込む。灯りの下で境界線を引く。
だが一体目がその瞬間を待っていたように突進してきた。
触れが走る。乾きが刺さる。
――間に合わない。
そう思った瞬間、別の金属音が割り込んだ。
重い足音。駆動音。青いパワードスーツ。
昼に見たあの鎧が、夜の路地へ現れる。
銃声。乾いた連射が一体目の肩口を抉る。
だが手応えがない。縞の怪物は揺れただけで、こちらを見る目を変えない。
青い鎧の動きが乱れる。焦燥が肩の上下に出る。
「……効かない?」
俺の中で言葉が浮かぶより先に、二体目が動いた。
追い込み役が、邪魔者を排除するだけの速度で青い鎧へ跳んだ。
衝突。
硬い音。
青い鎧が宙を舞い、壁へ叩きつけられる。火花。金属の悲鳴。
そのまま動かなくなった。気絶した。
落ちた武器が路地の床を転がり、街灯の光を反射する。
――最悪だ。
二体は健在。俺は守りの制約。背後に警察官。
そして人間側の武装が地面に転がっている。
戦場が現実を越えて歪む。
一体目が再び突進してくる。
二体目が俺の踵を狙う位置で待つ。
回避角度が削られる。次に避けたら背後が触れられる。次に受けたら俺が乾く。
選択肢が減っていく。怒りが熱になりかける。熱になったら、暴走する。
そのとき、背後で足音がした。
さっきまで壁に寄りかかっていた警察官が、立ち上がった音。
乾いていく腕を押さえながら、それでも一歩踏み出す音。
「……動くな。俺が撃つ」
短い。
命令じゃない。現場の共有。
そしてその声の質が、以前の共闘の“青い鎧の中の声”と同じ種類の硬さを持っていた。
俺は名前を知らない。けれど“この声は逃げない”と、身体が勝手に判断してしまう。
警察官が地面の武器を拾った。
青い鎧の銃だ。
重そうなのに構えがぶれない。
狙いが獲物ではなく“線”に向いている。俺の死線を切るための射線。守るための弾道。
銃声が鳴った。
弾が二体目の足元を抉り、回り込みの線を断ち切る。
怪物が一瞬踏み替える。その一瞬が俺の世界を広げた。
――この撃ち方。
以前、共闘した青い鎧の中にいたのは、こいつだ。
逃げなかった青い鎧。味方を撃たなかった青い鎧。
それを確信した瞬間、胸の底が少しだけ軽くなったのが悔しい。
「今だ、決めろ!」
警察官が叫ぶ。叫びがただの声じゃなく、俺の背中を押す“許可”になる。
俺は一体目へ踏み込んだ。
触れさせないまま間合いを潰し、掌で弾き、肘で打ち返す。
二体目が再び回り込もうとする。警察官の銃声がそれを追い、線を断つ。
撃つ場所が正確すぎる。怖いくらいに。
そしてその正確さは、敵を殺す正確さではなく、味方を生かす正確さだった。
――ありがとう、と言いたかった。
でも言葉にした瞬間、俺は背中を見せる。
だから言わない。言えないまま、俺は戦う。
二体の縞が同時に襲い掛かる。
路地の闇が乾き、喉がひりつく。
それでも俺は構えた。
守るべきものが背後にいる。
そして背後の視線が、初めて“信頼”に近い形で刺さっている。
この夜は、まだ終わらない。
けれど沈む前に、踏み止まれる場所があると――今度こそ、信じられる気がした。