夜が更けるほど、街は静かになるはずなのに。
俺の中だけは、逆に騒がしくなっていった。
乾く喉、重い腹、視線の気配、そして「次が来る」という確信。
確信は希望より強い。だから呪いに近い。
「結城くん、今どこですか」
通話口の向こうで、つる子先輩の声が夜の温度を持って揺れた。
少しだけ息が速いのが分かる。走っている息ではなく、考えすぎて肺が浅くなった息だ。
「帰り道です、大学からの、いつもの道です」
俺はなるべく平らに答えた。
平らに答えたのは、心配をかけないためというより、自分の不安を言葉にしたくなかったからだ。
「“いつもの道”は、今夜から変わるかもしれません」
つる子先輩は、そう言い切った。
言い切り方が、いつもの彼女のそれだった。
理屈で縫い止めるときの、迷いのない断言。
「どういう意味ですか」
俺は歩く速度を落とし、街灯の下で立ち止まった。
影が足元へ濃く落ちて、俺の輪郭だけを強く主張する。
この輪郭が、誰かにとっては獲物の印なのかもしれない。
「高村教授の話、覚えていますよね。G3は、対未確認用の装着型兵装です」
先輩は言う。
それ自体は知識だ。けれど、知識が生身へ届くとき、刃になる。
「……はい。だから、あの青いスーツは、対未確認の正義だって」
俺の声は、途中で少しだけ掠れた。
正義と言った瞬間に、昼の路地で銃口を向けられた感覚が戻ってくる。
正義が正義を撃つ光景は、理解より先に胃を冷やす。
「そうです。そして北條透が動き始めています」
その名前だけで、夜が一段冷えた気がした。
資料の上の人物名が、現場の匂いを持って近づいてくる。
俺は無意識に腹のあたりを押さえた。
ベルトは今は出ていない。けれど、出ていなくても在る。
「北條さんが、何を」
聞き返したのは、確かめるためじゃない。
もう薄々分かっているからこそ、言わせたかったのだと思う。
言葉にしてしまえば、逃げられない現実になる。
「アギト捕獲作戦です」
先輩の声は淡々としていた。
淡々としているぶんだけ、そこに含まれる暴力が生々しい。
「捕獲……俺を?」
俺は、主語を間違えた。
正確には「アギト」だ。
だが俺は自分がその枠に入れられていると、もう理解してしまっている。
「結城くんが、と言うより、あなたのような存在がです」
先輩は言い直す。
言い直し方が優しいのか残酷なのか、分からない。
言い直しは距離を取る行為で、距離は安全でもあり、孤独でもある。
「俺は、守ってるだけなんです」
思わず強く言ってしまった。
強く言った瞬間、怒りが熱になりかける。
熱になると、俺は怪物側へ寄る。
だからすぐに息を吐いて、熱を圧へ落とした。
「分かっています。でも、向こうは“映像”しか見ません」
先輩の言葉は、俺の胸の奥へ沈む。
映像。記録。資料。
彼女の得意分野の言葉なのに、今は武器みたいに聞こえる。
「……何が起きるんですか」
俺は訊いた。
訊いたくないのに訊いた。
知らなければ守れない。守りたいなら、知るしかない。
それが俺の呪いだ。
「まず、現場が“整います”。あなたが出てくるために」
先輩は断言する。
現場が整う。
救助の導線が、戦闘の導線が、退路の導線が。
全部が俺を囲う形に整えられる。
「そんな……アンノウンが出たら、行くに決まってる」
俺は、自分の口が勝手に真実を吐くのが嫌だった。
行く。
俺は行く。
逃げた瞬間に誰かが沈むから、行く。
捕まると分かっていても、行く。
「だから罠なんです」
先輩の声は、少しだけ揺れた。
理屈の人が揺れるとき、それは恐怖が理屈を越えた証拠だ。
「先輩、どこにいるんです」
俺は話題をずらした。
ずらすことでしか、今の自分を保てない。
「城北大学の近くです。あなたの位置情報、見えています」
先輩の答えが即答だったのが怖い。
俺はいつの間に、監視される側の癖を身につけたのだろう。
いや、監視は先輩の癖じゃない。
たぶん、これは俺を守るための癖だ。
「来ないでください」
俺は言った。
言い方が硬くなりすぎた。
でも硬くしないと、先輩は来る。
「行きます」
先輩は即答した。
即答の速さが、現場の覚悟の速さだった。
「危ないんです。捕獲って言ったでしょう」
俺の声は少しだけ荒れた。
荒れた声のまま言うと、俺は自分の中の怪物を飼い慣らせない。
「だから行きます。あなたが一人で“逃げない理由”を背負うと、あなたの背骨が折れます」
つる子先輩は、そんな言い方をした。
背骨。
その言葉が妙に具体的で、俺の背中が冷える。
「折れたらどうなるんですか」
俺は、笑いそうになった。
笑えないのに、笑いの形を作ろうとしてしまう。
これが俺の防御の癖だ。
「折れたら、あなたは人間の形を保てません」
先輩の声が、初めて柔らかくなった。
柔らかくなった分だけ、怖かった。
彼女が本気で心配しているのが、伝わってしまうからだ。
「……分かりました。来るなら、無茶はしないで」
俺は言った。
言いながら、自分が誰に言っているのか分からなくなる。
先輩に言っているのか、自分に言っているのか。
「あなたこそ」
先輩は短く返した。
通話は切れない。切らない。
切ったら、互いの現実が別々に沈む気がする。
その瞬間、喉の乾きが濃くなった。
乾きが濃くなるときは、近い。
アンノウンの気配はいつも、湿り気ではなく欠落として来る。
水が消える。体液が奪われる。命が軽くなる。
そういう欠落が、夜の空気へ滲む。
「……来る」
俺が呟くと、先輩の声が低くなる。
「場所、見えます。近くに人の気配がありますか」
「あります、たぶん……誰か、助けを求めてる」
言い終える前に、路地の奥で足音が乱れた。
金属が擦れる音と、息が潰れる音。
そのあと、悲鳴が途中で切れる。
声帯が壊れたのではない。
喉が乾いて、声が出なくなる切れ方だ。
俺は走った。
走りながら、頭の中で「捕獲」という単語が回る。
捕獲。
それは殺さないという意味ではない。
生かして檻に入れるという意味だ。
檻は、生かすために作られることもある。
でも檻は、外へ出る自由を奪う。
路地に飛び込むと、警察官が壁に寄りかかっていた。
右腕の皮膚が紙のように硬く、色が抜けていく途中だった。
目の前には縞模様の獣が一体。
突進の角度が完璧すぎて、まるで練習された狩りだった。
「……アルタ……?」
警察官が俺を見て呟く。
この人は俺を知っている。
名前も知らないのに、俺の名だけを知っている。
その不均衡が、胸に刺さる。
「下がれ!」
俺は叫んだ。
叫んだ瞬間、腰にベルトが現れる。
現れるというより、存在が前に出る。
俺の身体の一部として、当然のように。
「変身――!」
光が走り、装甲が俺を覆う。
角が伸び、視界が沈む。
俺はいつもの姿で、受けて返す姿勢を作る。
守るために、まず立つ。
縞の獣が突進してくる。
俺は掌で弾き、衝撃を散らし、足元へ返す。
触れさせない。受けない。
その線引きだけが生存の条件になる。
そのとき、妙に整った光が路地へ差し込んだ。
ヘッドライト。拡声器のノイズ。
足音が複数。
人の気配が、現場の外周を取り囲むように増える。
救助のための配置ではない。
包囲のための配置だ。
「結城くん、後ろ……!」
通話口の先輩の声が尖る。
先輩は見ていないはずなのに、構造で見ている。
現場が整っている。
俺が出てきた。
だから輪が閉じる。
「分かってる!」
俺は叫ぶ。
叫びながら、縞の獣へ肘を打ち込み、距離をずらす。
ずらしながら、背後の空気を感じる。
視線。
銃口のような視線。
網のような視線。
拡声器が何かを叫んだ。
言葉は風に千切れて聞こえない。
でも意味は分かる。
止まれ。囲んだ。抵抗するな。
そういう命令の集合だ。
「結城くん、撤退の導線が消されます!」
先輩が言う。
理屈の声が、恐怖の裏側で震えている。
俺は戦いながら、笑えない笑いが喉の奥へ浮かぶ。
守るために出てきたら、捕獲される。
守らなければ捕獲されないかもしれない。
でも守らなければ誰かが沈む。
俺はその二択を、もう選べない身体になっている。
縞の獣が、もう一度突進してきた。
俺は受ける。
衝撃を散らし、返す。
返す瞬間、路地の外周の人影が一斉に動いた。
輪が縮まる。
まるで俺の戦いが合図になっている。
「……罠の、始まりだ」
俺は心の中で言った。
言葉にしたら、折れる。
だから心の中だけで言う。
そして、折れないために、また構える。
守るために戦うほど捕まる地獄の中で、俺はまだ、守る方を選んでしまう。
通話口から、つる子先輩の声が小さく聞こえた。
「……結城くん、お願い。あなたを“物”にしないで」
その一言が、俺の背骨へ手を添える。
折れないための手。
でもその手は、捕獲の輪の外には出せない。
夜の路地は、静かに整っていった。
俺がそこに立っている限り、整い続ける。
そして、整えば整うほど、俺は逃げられなくなる。