病院の白は、夜の川より冷たく見えた。
目を開けた瞬間、俺は呼吸の仕方を一瞬だけ忘れた。消毒の匂いが鼻の奥に刺さり、蛍光灯の光が眼球の裏側まで届く。水の中で消えたはずの音が、今度は規則正しく戻ってきて、点滴の滴下音が心臓の代わりみたいに刻まれていた。
腕が重い。指先が痺れて、感覚が遅れてくる。
身体の内側がまだ冷えている。落ちた水は抜けたはずなのに、冷たさだけが居座っている。
俺は咳き込み、喉の奥の乾きに気づいた。
乾きは、あの縞の怪物が残した欠落と同じ種類の味がする。
そして、次に気づく。
腰だ。
布団の下、腰のあたりに確かな重量がある。ベルトの存在感が、眠りより先に俺を現実へ引き戻す。
――外されていない。
外せない。
もしくは、外してはいけないと判断された。
そのどれもが怖い。
カーテンの向こうで、足音が止まった。
靴底が床を鳴らす音は静かで、静かなのに迷いがない。
そのままカーテンが擦れる音がして、隙間から人影が覗いた。
「起きたか」
声は低くて、落ち着いていた。
落ち着いているのに、命令ではない。
現場で人を生かすときの声だ。
俺は反射で上体を起こそうとした。
点滴の管が引っ張られ、腕に鈍い痛みが走る。
痛みが走った瞬間に、俺の頭は“逃げろ”と命令を出した。
病院は安全な場所のはずなのに、刑事や警察の言葉を聞いた途端に檻へ変わる。
捕獲作戦の無線が、まだ耳の裏で鳴っているせいだ。
男がカーテンを開けて、病室に入ってきた。
背は高いが、威圧する立ち方ではない。
腕の動きが実務的で、視線が人を“対象”として測らない。
それでも、俺は言葉が出る前に身体が動きかけた。
「刑事だ」
男は短く言った。名刺のように肩書だけを置く。
それが余計に怖かった。肩書は制度の一部だ。制度は俺を捕まえに来る。
「……刑事?」
俺は布団を跳ね除けようとして、指先が震えるのを見た。
冷えの震えなのか、恐怖の震えなのか分からない。
分からないまま、足を床へ下ろそうとした。
「動くな」
男の声が落ちる。
怒鳴らない。掴まない。
ただ言葉だけで止める。止めるための言葉を選ぶ人間の声。
「俺は……帰る」
嘘にならない嘘を吐いた。
帰る場所があるかどうかは分からない。
でもここにいたら捕まる、という確信だけは体内に沈んでいる。
「腰のそれを抱えたまま、どこへ行く」
男の視線が、布団の上から俺の腰へ落ちた。
ベルトの位置を正確に言い当てられた瞬間、血の気が引く。
なぜ分かる。
なぜ、それを見て怯えない。
「……なんで、知ってる」
声が掠れた。喉が乾いて、言葉が砂みたいに崩れる。
俺は半身だけ起こしたまま、逃げる角度を探した。
窓は高い。廊下へ出るにはこの男の横を通る。
身体はまだ冷えていて、走れる気がしない。
それでも逃げるしかない、という癖だけが残る。
男は一歩も近づかなかった。
距離を詰めない。追い込まない。
追い込めば人間は暴れると知っている距離の取り方だった。
「察しはつく」
男は短く言った。
短いのに、その短さが嘘じゃないと分かる。
つる子先輩の説明みたいに、言葉が増えれば増えるほど刃になる類ではない。
この男の言葉は、必要な分だけしか出ない。
だから、逆に重い。
「察しって……何を」
俺は問い返しながら、腰の重みをもう一度意識してしまう。
ベルトは出ていない。
それでもそこにある。
そこにあることを、俺だけじゃなくこの男も知っている。
男は一度だけ、目を伏せた。
伏せたのはためらいではなく、言葉を選ぶ癖だ。
それから顔を上げ、低い声で言った。
「昔、似たものを見た」
似たもの。
その瞬間、俺の脳裏に水面越しの背中が浮かんだ。
角二本。体格。腹部で揺れた小さな光。
救われた夜。
顔も声も知らない救いの輪郭。
その輪郭が、今この病室の白い光の下で、勝手に現実へ浮上する。
「……」
言葉が出ない。
出そうになる言葉は一つしかないのに、それを口に出したら戻れない気がした。
俺は自分の呼吸が速くなるのを感じ、慌てて息を抑えた。
息を乱せば、この男に弱さを見せることになる。
弱さを見せれば、捕まる。
その癖が、もう骨に染みている。
男は俺の様子を見て、さらに一歩引いた。
逃げ道を残すみたいに。
そして、自己紹介をするように言った。
「……俺は、刑事だ。名前は――」
名を名乗る前に、男は言葉を切り替えた。
名乗るより先に、伝えるべきことを選んだのだと思う。
「君が怖がるのは分かる。だが、ここは捕まえる場所じゃない」
言い切る。
言い切る声の落とし方が、現場で人を落ち着かせるときのそれだった。
「捕まえる、じゃないなら……何だ」
俺はまだ疑っている。疑うことが生存の癖になっている。
疑わないと撃たれる。疑わないと囲われる。
そう教えられてしまった。
「生かす場所だ」
男は短く答えた。
“生かす”という動詞が、俺の胸の奥を叩く。
生かす。
殺さないのではなく、生かす。
捕獲部隊の「非殺傷」とは別の温度がある。
「……どうして、俺を」
俺は言いかけて、言葉を飲み込む。
“俺を助けたのは誰だ”と聞きたいのに、喉が乾いて出ない。
聞いた瞬間、あの夜の救いが現実の人間の顔を持ってしまうからだ。
顔を持てば、憧れは変質する。
怖い。
男は、ほんの少しだけ目を細めた。
優しさの表情ではない。
痛みを知っている人間の表情だ。
「……俺は、昔、角二本の戦士と現場を一緒に見た」
男はそう言った。
「四号――そう呼ばれていたやつと、な」
四号。
その単語が落ちた瞬間、病室の白が一度だけ揺れた気がした。
揺れたのは光じゃない。
俺の内側の水面が揺れたのだ。
忘れたくないのに、忘れられない背中が、目の前の男の言葉で輪郭を取り戻していく。
「……あなたは、四号を知ってるのか」
声が震えた。
自分でも驚くほど、子どもみたいな声だった。
憧れを口にした声。
恐怖と同じ場所から出てくる、別の感情の声。
男は頷いた。
頷き方が静かで、だから重い。
「関わっていた」
それだけ言って、余計な英雄譚を続けない。
続けないからこそ、本物に聞こえる。
俺は息を吸って、吐いた。
吐いた息が、まだ少しだけ湿っていた。
水の中で溺れた記憶が、身体に残っている証拠みたいだった。
「……俺は、昔」
言いかけた瞬間、喉が詰まった。
昔、川に落ちた。
四号に助けられた。
背中しか見ていない。
角しか覚えていない。
腹の光だけが焼き付いている。
それを全部言えばいいのに、言葉にすると軽くなる気がして、怖かった。
男は、急かさなかった。
急かさない代わりに、現実の手順を置いてくる。
「無理に喋るな。呼吸が先だ」
短い指示。
それが不思議なくらい効いた。
俺は頷いて、呼吸を整える。
呼吸を整えるだけで、今夜はまだ生きていると確認できる。
「君の腰のそれを見て、昔を思い出した」
男は続ける。
「俺が知ってる四号は、君みたいに逃げなかった。だが、逃げないために、誰かが背中を守っていた」
背中。
その言葉が刺さる。
俺はずっと背中を見せないように戦ってきた。
背中を見せたら撃たれる夜を知ってしまったから。
でも四号の背中は、俺の命を救った背中だ。
背中は弱点じゃなく、救いの輪郭だったはずだ。
「……捕獲作戦が始まってる」
俺は思わず言った。
病室の白に似合わない言葉が、口から落ちた。
落ちた瞬間、また逃げる癖が顔を出す。
この男も制度側なら、今の一言で終わる。
男は眉を動かさなかった。
驚かない。
驚かないことが、逆に恐ろしい。
知っているのだ。もう、知っている。
「察している」
男は言った。
そして、言葉を続ける前に、俺の腰のあたりへ一度だけ視線を落とした。
ベルトではなく、俺の生存そのものを見ている視線だった。
「だから話をしよう」
男は短く言う。
「君が知りたいのは、捕獲のことだけじゃない。四号のことだろう」
俺は答えられなかった。
答えられないのに、頷いてしまった。
頷いてしまった瞬間、俺の中で何かが決まる。
逃げるだけじゃ、もう足りない。
知る必要がある。
知って、選ばなければならない。
沈まないために。
病室の白は冷たいままだった。
でも、冷たい白の中に、確かに人間の声があった。
捕獲の言語ではなく、救助の言語。
その声が、俺の背中へ初めて“支え”として触れた気がした。