点滴の落ちる音が、やけに正しい。
正しい音は、正しさの側に戻れと言ってくる気がして、俺は薄いシーツの下で拳を握りしめた。
握った指先がまだ痺れていて、冷えが抜けきっていないことを思い出す。
河の中で奪われた体温は、病室の白さで補えるほど素直じゃなかった。
ベッドの脇に置かれた椅子には、さっき名乗った刑事が座っている。
名乗ったと言っても、形式ばった名刺の差し出し方ではなく、ただ「刑事だ」と短く落としただけだ。
余計な肩書きがないぶん、逃げる理由が増えてしまう。
相手が何者か分からないほど、制度の影が濃くなるからだ。
俺は身体を起こそうとして、点滴の管を見て止まった。
抜いたら血が出る。血が出たら痕が残る。痕が残ったら説明が必要になる。
説明が必要になった瞬間に、俺はまた分類される。
そういう思考の癖が、もう勝手に回り始めている。
「無理に動くな」
刑事は声を荒げずに言った。
それだけで止まってしまう自分が悔しくて、俺は視線を逸らした。
止まったのは従ったからじゃない。身体がまだ戻っていないからだ、と言い訳したかった。
「……俺は、帰ります」
声は掠れていた。
喉の乾きが、夜の路地の乾きと同じ味を残している。
乾きが残っている限り、あの縞の怪物の気配も、捕獲のライトも、俺の中で終わっていない。
刑事は俺を追わない。
追わない代わりに、目線だけが布団の下へ落ちた。
腰のあたり。
そこにある重さを、俺が隠せていないことを示す目線。
「腰のそれを抱えたまま、どこへ行く」
声は低く、短い。
短いのに、刃物みたいに切れる。
俺の背中が冷えた。
誰にも見られたくないものを、見られている。
ベルトは今は光っていない。現れてもいない。
それでも俺の腰に“あるべきもの”として居座っている。
「……なんで、それを」
俺は問いかけたつもりだったのに、責める声になった。
責めてしまった瞬間に、あの夜の無線の言葉が蘇る。
対象、囲い込み、非殺傷、記録、逃走。
言葉が現実を作る世界で、刑事という肩書きは怖すぎる。
刑事は小さく息を吐いた。
ため息ではなく、呼吸を整える音だった。
俺を落ち着かせるために、自分の呼吸を先に落とす人の仕草。
「察しはつく」
刑事はそれだけ言い、すぐに付け加えた。
「捕まえに来たわけじゃない」
「……信じろって言うんですか」
俺は自分でも嫌な言い方をしたと思った。
信じろと言われて信じられるなら、俺は捕獲の輪に追い詰められていない。
信じたいのに信じられない自分が、もう人間じゃない気がして怖い。
刑事は視線を逸らさない。
逸らさないのに圧がない。
囲い込みの視線ではない。
現場で溺れている人間を引き上げるときの、距離の取り方だ。
「信じろとは言わない」
刑事は言った。
「話をする。君が逃げる理由も、ここにいる理由も」
俺は沈黙した。
話をする、という言葉が、つる子先輩の説明と重なりかけて、嫌な予感が胸を刺した。
だがこの刑事の声には、説明の癖がない。
言葉を増やせば増やすほど安全になると思っていない声だ。
刑事は、ゆっくりと手を上げた。
手を上げたのに、武器を見せる動きではない。
自分の胸ポケットを指で軽く叩いて、そこに何かがあると示す程度の動きだった。
警察手帳なのだろうと想像して、俺の胃がまた冷えた。
「俺は昔、未確認の事件を追っていた」
刑事は静かに言った。
「そこで、四号と呼ばれた戦士と関わった」
四号。
その単語だけで、病室の白が遠くなる。
代わりに水面の裏側の暗さが目の前に広がって、息が詰まる。
角二本の背中。
腹のあたりで揺れた小さな光。
岸へ引き上げられた感覚。
記憶は顔を持たないまま、輪郭だけで俺を殴ってくる。
「……四号」
俺は復唱してしまった。
声が震えたのが分かって、悔しくて唇を噛む。
震えは弱さだ。弱さは捕獲される理由になる。
そうやって思考が戻るのが、なおさら腹立たしい。
刑事は頷いた。
頷き方が、誇りでも懐古でもなく、事実確認のようだった。
「クウガ、という名もあった」
刑事は言う。
その言い方が、誰かの大事な名前を雑に扱わない人の言い方だった。
「……あなたは、クウガを知ってるんですか」
言った瞬間、胸の奥が熱くなった。
憧れを口にしたときの熱だ。
でもその熱は同時に恐怖でもある。
憧れが現実の人間の話になった瞬間、俺の記憶はただの物語では済まなくなる。
「知っている」
刑事は短く答えた。
「現場で、何度も見た。守るために戦っていた」
守るために戦う。
俺が今、追い詰められている理由そのものだ。
守るために出て、守るために変身して、守った分だけ危険存在として分類された。
俺はその矛盾の中で、まだ守ることを手放せない。
「あなたは……その戦いを、止めなかったんですか」
俺の声には、責めが混じっていた。
止められたなら、止めるべきだったのではないか。
戦いは代償だ。代償は人を壊す。
俺は今、壊れかけている。
刑事は一瞬だけ目を伏せた。
目を伏せたのは弱さではなく、答えの重さを選ぶ癖だ。
「止めたかった」
刑事は言った。
「巻き込みたくなかった。だが、彼は行った。行かなければ誰かが死ぬと、知っていた」
俺は喉の奥が痛くなった。
その言葉が、俺の行動原理をそのまま言い当てている。
行かなければ沈む。
誰かが沈む。
それを知ってしまったら、戻れない。
「……でも」
俺は言いかけて、言葉が続かない。
でも、彼は救われたのか。
でも、彼は人間のままいられたのか。
でも、彼は捕獲されたのか。
聞きたいことは山ほどあるのに、どれも怖すぎて選べない。
刑事は、俺の沈黙を急かさなかった。
急かさない代わりに、必要なところだけを刺す。
「君の腰のそれを見て、思い出した」
刑事は言った。
「似ている。力の匂いが。だが、同じではない」
「……俺は、クウガじゃない」
俺は反射で言った。
否定は逃げ道だ。
クウガではない。四号ではない。
同じだと言われたら、俺は自分の憧れの影に押し潰される。
刑事は肯定も否定もしない。
ただ、事実を置く。
「君は君だ」
それだけ言って、少しだけ間を置いた。
「だが、似た力を持つなら、似た問いが来る」
問い。
その言葉が、捕獲作戦の無線と結びついて、心臓が嫌な跳ね方をした。
問いとは、選別だ。
選別とは、殺すか生かすかの線引きだ。
俺はその線引きを、他人の制度に任せたくない。
「……何を、聞きたいんですか」
俺は腹の奥を押さえるように言った。
押さえたのは痛みではない。
逃げたい衝動を押さえたのだ。
刑事は椅子に深く座り直さず、姿勢を崩さない。
現場のままの姿勢で、俺を見る。
その視線は捕獲のそれではなく、救助のそれだ。
だが救助は優しさだけではない。
救助は選択だ。選択は責任だ。
「君は、その力でどう戦う」
刑事は、静かに問いかけた。
「守るために戦うのか。怒りに引っ張られずに戦えるのか。誰かの命を守りながら、自分の形を失わずにいられるのか」
俺は答えられなかった。
答えられないのに、答えを探し始めている自分が分かった。
病室の白は冷たいままだ。
それでも、あの夜の水面越しの背中が、ただの記憶ではなく問いの形に変わっていく。
俺は、ゆっくり息を吸った。
点滴の音が、まだ規則正しい。
規則正しい音は、正しさの側へ戻れと言う。
戻れないのに戻りたい。
その矛盾を抱えたまま、俺は刑事の目を見返した。