研究室の蛍光灯は、遺跡の火よりずっと白かった。
白すぎて、現実味がない。
机の上の資料も、壁の掲示物も、いつものはずなのに全部が“さっき”の後で、別のものに見える。
警察の事情聴取は、想像していたより長かった。
何が起きたのか。
誰が見たのか。
何を見たと思うのか。
答えようがない質問ばかりで、僕は何度も言葉を選んだ。
「暗くてよく見えなかった」
「煙で視界が悪かった」
「混乱していて覚えていない」
嘘じゃない。
全部、本当だ。
ただ、言わなかったことがあるだけだ。
研究室には、僕とつる先輩しかいない。
遺跡の調査班の他の人間は、今日は来ていない。
来られる状態じゃないのかもしれない。
あるいは、来たくないのかもしれない。
つる先輩は机の端に腰掛け、僕の正面に座った。
手には、いつものノート。
あの切抜帳とは別の、授業用の、何でもないノート。
何でもないのに、今はそれが武器みたいに見える。
「結城君」
つる先輩が、静かに言う。
「……嘘、つくの下手だよね」
喉が詰まった。
「……何のことですか」
「事情聴取の時の。“見えなかった”“分からない”って言い方。間違ってない。でもね、結城君の目が、途中からずっと同じ方向を避けてた」
逃げ道がない。
研究室の扉は閉まっている。
外の廊下は静かで、時計の秒針だけが鳴っている。
つる先輩は、僕の顔を見ながら、呼吸を整えるみたいに一度だけ息を吐いた。
「今から言うのは、“結論”じゃないよ」
「ただの推測。現時点の、私の仮説」
“仮説”という言葉が、つる先輩らしかった。
怖いのに、少し安心する。
感情じゃなく、言葉で整理してくれる人がいる、というだけで。
「遺跡で起きたこと。あれは未確認——グロンギの類じゃない」
僕の中で、何かが音を立ててはまった。
言語化されると、逃げられなくなる。
「糸で吊るす。音が少ない。行動が儀式的。あと、殺し方が“見せる”方向に寄ってる。狩りじゃない。……処理に近い」
つる先輩は淡々と話す。
淡々としているのに、その手が微かに震えているのが分かる。
怖さは消えていない。
「それで、結城君」
つる先輩が、ノートの端を指で押さえた。
「あなた、変わった。あの場で」
胸が熱くなる。
腰の前に“ないはずの重み”が、一瞬だけ戻った気がした。
「……変わった、って」
「言い方を変えるね」
つる先輩は少しだけ目を伏せる。
それから、正面に戻す。
「四号に近い何かに、なった」
言葉が、研究室の空気に落ちる。
落ちて、跳ね返ってこない。
僕は笑うべきなのか分からなかった。
否定すべきなのかも、分からない。
つる先輩は続けた。
「背中。角の輪郭。動き。……それに、結城君が抱えてる“理由”」
「全部が繋がって見えた」
「僕は……」
言いかけて、止まった。
僕は自分が何だったのか、説明できない。
でも、何かになったことだけは否定できない。
つる先輩は、机から身を乗り出す。
「だから、忠告」
「これから、慎重に動いて」
声が少しだけ強くなった。
感情が混じった。
「警察は、あなたを“人間”として扱うとは限らない」
背筋が冷える。
「え……」
「当たり前でしょ。未確認事件の記録、どれだけ読んだと思ってるの」
つる先輩の目が、怖いくらいに真剣だった。
「未知の存在を前にしたとき、人はまず“分類”する」
「敵か、味方か。危険か、安全か。管理できるか、できないか」
言葉が、刃みたいに鋭い。
「もし結城君が、四号に似た“何か”として認識されたら」
「最悪、未確認と同じ枠に入れられる。……捕まるかもしれないし、撃たれるかもしれない」
冗談じゃない、と言いかけて、飲み込んだ。
遺跡で見た死体が、脳裏に浮かぶ。
吊られて、動かなくなっていた人。
守れたのは、つる先輩だけだった。
たまたま、間に合っただけだった。
「だから、まず決めよう」
つる先輩は、ノートを開いて、ペンを握る。
いつもの癖だ。話す前に書く。書きながら考える。
「一つ。結城君は、今後“人前で変わらない”。必要がない限り」
「二つ。私たちは、あの遺跡を調べ直す。——ただし、勝手に突っ込まない。情報から攻める」
「三つ。今日のことは、私たちの間で“記録”する。忘れたら終わり」
記録。
第3話のタイトルが、そこでようやく意味を持った気がした。
「……つる先輩は、怖くないんですか」
自分でも意外な質問だった。
先輩の方が、よほど怖かったはずだ。糸で縛られて、首を絞められかけて。
つる先輩は、少しだけ口元を歪めた。
「怖いよ」
「でも、それ以上に——」
ペン先が、ノートの上で止まる。
「……興味がある」
言い切った後で、自分の言葉に少し照れたみたいに咳払いをする。
「結城君がどうなったのか。遺跡が何なのか。あの存在が何なのか」
「怖いけど、知りたい。……いつものこと」
僕は息を吐いた。
少しだけ、救われた気がした。
怖さの共有じゃない。
“ここからどうするか”を共有できたからだ。
「じゃあ……僕は、何をすればいいですか」
つる先輩は、即答した。
「まず、生き延びること」
「それから、結城君。あなたの身体の変化を、観察する。自分で“記録”する」
「今日みたいに、気づいたら変わってた、は危ない」
「……観察、ですか」
「うん」
つる先輩は真顔で頷く。
「結城君が、何に近づいているのか分からない」
「四号かもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「でも、警察が“分からないもの”を放置する保証はない」
その一言が、重かった。
つる先輩は、ノートの一番上に大きく書いた。
――結城/変化/発動条件(不明)
「よし」
「これが、私たちの第一の“記録”」
ペン先が紙に当たる音が、やけに大きく響いた。
研究室の白い光の下で、僕はようやく理解し始める。
あの背中を知りたくて、ここまで来た。
でも、知ることは、戻れないことと同じだ。
つる先輩は、ノートを閉じない。
警察の聴取が終わって、研究室に戻ってきてから、ずっと同じページを開いたままだ。
ペン先が、何度も同じ場所をなぞっている。
「……ねえ、結城君」
呼ばれて、顔を上げる。
「遺跡で戦った“あれ”の姿、覚えてる?」
「……忘れられるわけ、ないです」
正直な答えだった。
壁を這う動き。糸。吊られた死体。
目を閉じても、まだ残っている。
つる先輩は頷く。
「私も。だからこそ、整理しよう」
そう言って、ノートをこちらに向ける。
そこには、箇条書きで特徴が並んでいた。
・人型に近いが、生物的
・糸を使う
・音が少ない
・動きが儀式的
・殺し方が見せる方向
「で、これとは別に——」
ペン先が、次の行を叩く。
「腰に、何もなかった」
一瞬、意味が分からなかった。
「腰……?」
「うん」
つる先輩は、迷いなく続ける。
「未確認生命体。少なくとも、私たちが資料で追ってきた“未確認”には、必ず共通点がある」
「腰に、何かある。ベルトみたいな、装置みたいなもの」
胸の奥が、ひくりと動いた。
「でも、あれにはなかった」
「少なくとも、私は見ていない。結城君も、覚えがあるでしょ?」
思い返す。
炎の中で立っていた影。
身体のラインははっきりしていた。
けれど——腰に、何かを巻いているようには見えなかった。
「……はい」
「それだけじゃない」
つる先輩は、ペンを走らせる。
「未確認は、行動原理が分かりやすい。暴力的で、衝動的で、自己誇示が強い」
「でも、あれは違った。殺しに意味があった。場所を選び、人を選んでいた」
ノートに、新しい線が引かれる。
「つまり」
つる先輩は、顔を上げて言った。
「未確認じゃない」
言葉が、静かに落ちる。
「未確認と似ている部分はある。強さも、異常性も」
「でも、系統が違う。少なくとも、同じ枠には入らない」
「じゃあ……」
僕は、喉を鳴らして続けた。
「何なんですか、あれは」
つる先輩は、少しだけ笑った。
「分からない」
「だから——仮に、名前を付ける」
ペン先が、ノートの余白に走る。
――UNKNOWN
「未確認、とは違う意味での“未知”」
「便宜上だけど……私は、“アンノウン”と呼ぶ」
アンノウン。
言葉を口の中で転がす。
確かに、しっくりきた。
未確認じゃない。けれど、分からない。
「で、次」
つる先輩の視線が、僕に戻る。
「結城君、あなたのこと」
空気が、少し重くなる。
「……名前、呼ばれてたよね」
遺跡での声が、蘇る。
——アルタ。
「……はい」
「アンノウンが言ってた」
「アギトでも、ギルスでもない。混ざった存在、アルタ」
つる先輩は、そこをゆっくり復唱する。
「つまり、仮定だけど」
ペンが止まる。
「あなたの姿の名前は、“アルタ”」
僕は、否定しなかった。
否定できなかった、の方が正しい。
「じゃあ……」
声が、自然と低くなる。
「アギトと、ギルスって……何なんですか」
つる先輩は、少しだけ考える素振りを見せてから、首を振った。
「それも、分からない」
「でも、重要なのは——」
ノートに、三つの単語が並ぶ。
・アギト
・ギルス
・アルタ
「アンノウンは、この三つを“区別”していた」
「同じ存在じゃない。混ざりもの、って言ってた」
「……僕は」
言いかけて、止まる。
僕は、人間だ。
少なくとも、そうだった。
「結城君」
つる先輩が、はっきりと言った。
「あなたは、まだ人間」
「でも、“何かに近づいている”」
怖い言葉なのに、不思議と冷静に聞けた。
「だから、探るしかない」
「アギトって何か。ギルスって何か」
「そして、アルタがどこに立つ存在なのか」
つる先輩は、ノートを閉じる。
「方法は二つ」
「一つは、資料。未確認事件、過去の記録、遺跡の情報」
「もう一つは——」
そこで、視線が僕の腰に落ちる。
今は何もないはずの場所。
「あなた自身」
言い切りだった。
「あなたの変化を、あなた自身が記録する」
「隠すためじゃない。理解するため」
研究室の時計が、静かに秒を刻む。
僕は、深く息を吸った。
「……逃げられませんね」
「うん」
つる先輩は、あっさり頷く。
「でも、独りじゃない」
その一言が、胸に残った。
遺跡で見た背中。
あの夜、助けられた記憶。
僕は、また同じ場所に立っている。
今度は、助けられる側じゃない。
名前を与えられ、記録され、追われる側だ。
——アルタ。
その名を、まだ受け入れきれないまま。
それでも僕は、頷いた。
「……全部、調べましょう」
つる先輩は、満足そうにペンを握り直す。
「うん。じゃあ、まずは——」
ノートの一番上に、新しい見出しが書かれた。
――アンノウン仮説/アルタ事例(第一記録)
それが、僕たちの次の一歩だった。
つる先輩がノートに何かを書き足そうとした、その瞬間だった。
胸の奥が、きつく締めつけられる。
息が、一拍だけ遅れた。
「……っ」
無意識に、椅子の肘掛けを掴んでいた。
手のひらに、嫌な汗が滲む。
さっきまでの研究室の空気が、急に薄くなる。
蛍光灯の音が、遠くなる。
——いる。
理由は分からない。
でも、はっきりと“いる”と分かる。
遺跡で感じたものと、似ている。
あの蜘蛛型のアンノウンが、こちらを見ていた時の圧。
直接触れていないのに、皮膚の内側をなぞられるような感覚。
違うのは、距離だ。
「……近い」
思わず、声に出ていた。
つる先輩が、すぐに顔を上げる。
「結城君?」
「……何か、います」
自分でも驚くほど、断言に近い言い方だった。
「さっきの遺跡の……アンノウンに、似た感じです」
「でも、あれとは少し違う。……もっと、静かで」
言葉を探して、続ける。
「気配だけが、置いてあるみたいな」
つる先輩は、一瞬も笑わなかった。
むしろ、目が輝いた。
「……感じるの?」
「距離は?」
「……そんなに、遠くないです」
心臓の奥で、何かが微かに反応している。
腰の前が、熱を持つ気がする。
つる先輩は、椅子から立ち上がった。
「場所、分かる?」
「……方向なら」
指差す。
研究室の窓の向こう、キャンパスの外れ。
駐車場がある方角。
「じゃあ、行こう」
即答だった。
「え」
間の抜けた声が出る。
「ちょっと待ってください」
「まだ、警察にも——」
「だからこそ、今」
つる先輩は、きっぱりと言った。
「警察が動く前に、私たちが“記録”する」
「未知の存在を、未知のまま放置する方が危険」
理屈は、分かる。
分かるけれど。
「危ないですよ」
「もし、またアンノウンだったら——」
「その時は」
つる先輩は、少しだけ言葉を切る。
「逃げる」
「……あなたを信じて」
その言い方が、ずるかった。
断ろうとした言葉が、喉で止まる。
あの遺跡で、先輩を守った。
でも今は、先輩に“信じる”と言われている。
「……分かりました」
結局、そう答えていた。
研究室を出て、夜のキャンパスを抜ける。
風が冷たい。遺跡の煙の匂いが、ようやく抜けてきた気がする。
駐車場には、僕のバイクが停まっている。
つる先輩は、迷いなくヘルメットを手に取った。
「後ろ、乗るから」
「……本気ですね」
「当たり前」
そう言って、当然のように後部座席に腰を下ろす。
「掴まってください」
「振り落とされます」
「了解」
つる先輩の手が、僕の腰に回る。
さっき“何もない”はずの場所に、温度を感じる。
エンジンをかける。
低い振動が、身体を通って伝わる。
——行動が、始まる。
ヘッドライトが闇を切り裂く。
バイクを発進させながら、もう一度だけ、胸の奥を探る。
まだ、いる。
静かで、確かな存在感。
こちらを見ているわけでも、襲ってくるわけでもない。
ただ、待っている。
背後で、つる先輩の声がした。
「ねえ、結城君」
「はい」
「これ、多分……」
言葉が、夜風に紛れる。
「また“記録”になるよ」
その予感が、なぜか否定できなかった。
バイクは、闇の中へ走り出す。
知らなかったはずの道を。
引き寄せられるように。
——次の、未知へ。
見出し:
未確認騒動の裏で発掘中止 山間部立入禁止措置、理由は非公開
日付/地域:
1999年2月 長野県○○郡山間部
本文(〜200字):
未確認生命体出現で混乱が続く長野県内において、山間部の一部地域が突如として立入禁止となり、進められていた発掘調査が中止されたことが分かった。関係者によれば、現場からは「由来不明の出土品」が確認されていたが、詳細は公表されていない。封鎖措置は警察および関係機関の判断とされており、未確認騒動との直接の関連性は「ない」と説明されている。
つる子の注釈:
未確認対応で手一杯だった時期に、やけに判断が早い。
しかも「出土品あり」で中止は不自然。
未確認を理由に“別の何か”を封じた可能性が高い。
——今回の遺跡と、位置も条件も、よく似ている。