病院の廊下は、夜の川よりも静かだった。
静かなのに、静かだからこそ、音がひとつ鳴るたびに心臓が跳ねる。ナースコールの微かな電子音、ワゴンの車輪が床を擦る音、誰かの靴が角を曲がる音。
全部が「普通」の音なのに、俺の中ではまだ“追跡の音”として聞こえてしまう。
ベッドの上で着替えさせられた病衣は、肌に変な安心を貼りつける。
安心していいはずだ、と言われている気がして、その押し付けが逆に怖い。
腰のあたりの重みは、相変わらず消えない。ベルトがそこに“在る”という事実だけが、俺がまだ現場と繋がっている証拠みたいだった。
扉を開けると、廊下の向こうに人影が見えた。
走り回っていた人間の動きではない。
けれど、立っているだけで落ち着かない気配がある。
その髪の揺れ方と、肩の上がり方と、手の握りしめ方で、俺はすぐに分かった。
つる子先輩だ。
先輩は俺を見た瞬間、息を止めた。
止めた息が、一拍遅れて崩れる。
その崩れ方が、さっきまで胸の中で何かを押し殺していた人のそれで、俺は反射で足を止めた。
「……結城、くん」
先輩の声が、名前を形にする途中で震えた。
震えた声は、説明の声じゃない。
理屈を積む声じゃない。
ただ、感情そのものの声だった。
「先輩」
俺は呼び返した。
呼び返しただけなのに、喉の奥が痛くなる。
俺は生きている。
それだけの事実が、先輩にとっては今夜の全てだったのかもしれない。
次の瞬間、つる子先輩が駆け出した。
駆け出し方が、不器用だった。
普段の先輩なら廊下の幅や人の動線を見て、もっと賢く近づくはずなのに、今はそんな計算が全部崩れている。
その崩れが、俺には眩しい。
「っ……!」
先輩は俺の前で急に立ち止まり、何か言おうとして、言葉が出ない。
言葉が出ない代わりに、肩が震え始めた。
震えが咳みたいに大きくなって、ついに抑え切れなくなった。
「……っ、なんで……!」
先輩の声が裏返り、次の瞬間に大声が落ちた。
「なんで……っ、いなくなるんですか!!」
廊下の空気が一瞬で固まった。
看護師がこちらを見る。
遠くの待合の人が顔を上げる。
でも先輩はそんな視線を一切気にしていない。
気にする余裕がないほど、積み上げていた何かが崩れている。
「先輩、落ち着いて……」
俺が言いかけた瞬間、先輩は首を振った。
否定じゃない。
抑えられないという意味の首振り。
「落ち着けません!」
先輩は、泣いていた。
泣き方が、綺麗じゃない。
声が大きくて、呼吸が乱れて、涙が頬を伝うのも構わずに、子どもみたいに泣いている。
それが、痛い。
つる子先輩がこうやって崩れるのは、俺の前では初めてだった。
「川で……」
先輩は息を吸おうとして、吸いきれず、声を継いだ。
「川で、あなたが……いなくなったから……! 水に、飲まれたまま……!」
俺は、言葉を失った。
失ったのは驚きではない。
理解が遅れているだけだ。
あのとき通話は切れていた。
先輩には、俺が落ちた瞬間から“結果”が見えていなかった。
見えていなかったから、結論は一つしかない。
いなくなった。
沈んだ。
死んだかもしれない。
つる子先輩は、そんな結論を一人で握りしめて、ここまで来たのだ。
説明より先に、理屈より先に、恐怖を抱えて。
「……ごめん」
俺はやっと言った。
謝罪の言葉は軽い。
軽いのに、今はそれしか出ない。
「ごめんじゃ、ない……!」
先輩は泣き声を上げて、胸元を握りしめた。
「あなたがいなくなったら、私は……私は……!」
言葉が途切れた。
途切れた言葉の向こうに、先輩の孤独が見える。
記録が残っても、人がいなくなったら意味がない。
説明しても、救えなかったら意味がない。
その当たり前の絶望が、先輩の理屈を全部溶かして、涙に変えている。
俺は一歩近づこうとして、止まった。
触れたら壊れる気がした。
でも触れないと、崩れたままの先輩を支えられない。
腰の重みが、胸の奥へ反響する。
ベルトは俺のものだ。
俺の戦いの証拠だ。
その証拠が、先輩の恐怖を生んだ。
俺は守るために戦っているのに、守りたい人を怖がらせている。
その矛盾に、喉がまた乾く。
「先輩」
俺は、もう一度呼んだ。
名前を呼ぶのは、距離を縮める行為だ。
データではなく人間として呼ぶ行為だ。
先輩がいつも俺にしてくれることを、今度は俺が返す。
「俺は……生きてる」
言いながら、自分でも分かる。
この言葉は事実の報告じゃない。
祈りみたいなものだ。
先輩は顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃになった目が俺を見て、そこにいるのが現実だと理解した瞬間、また泣き声が大きくなる。
「う、うわぁぁ……っ!」
大声で泣く。
説明したがりの先輩が、説明を捨てて泣く。
その声は、俺の胸に刺さり続けた。
俺は決めた。
宥めるのに理屈は要らない。
先輩が欲しいのは説明じゃない。
“いる”という手触りだ。
「……ごめん。怖かったよな」
俺は、先輩の目を見たまま言った。
「俺も怖かった。でも、先輩を一人にするつもりはなかった」
それでも先輩は泣き続ける。
泣く理由が、今ここにあるからだ。
不安が現実に変わり、現実が安心に変わり、安心がやっと涙に変わった。
そういう順番の涙だ。
「先輩、深呼吸」
俺は、さっき自分が言われた言葉を借りた。
「息、合わせよう。今はそれだけでいい」
先輩は一度、息を吸おうとして、またしゃくり上げた。
吸えない。
だから俺は、先輩の呼吸に合わせて、自分の呼吸をわざと大きくした。
呼吸の音を聞かせる。
落ち着けと言わない。
落ち着くための“型”を先に置く。
「……すぅ、……っ」
先輩の肩が、少しだけ落ちた。
それでも涙は止まらない。
「……ほんとに、ばか」
先輩は嗚咽混じりに言った。
「あなた、いなくなったら……私、切り抜き帳だけ持って……どうすれば……!」
その言葉が、胸に刺さって抜けない。
先輩はいつも資料の中に逃げ込む。
でも今は、資料が救いにならない場所まで来てしまっている。
俺が連れてきた。
俺の戦いが、先輩の理屈の外側へ引きずり出した。
「……ごめん」
俺はもう一度言った。
同じ謝罪を繰り返すのは好きじゃない。
でも先輩の涙は、同じ場所を何度も洗うしかない種類のものだ。
そして俺ができるのは、そこに立っていることだけだ。
「俺、沈まないって決めた」
俺は小さく言った。
声は廊下の騒がしさの中に溶けそうだったけれど、先輩には届くように言った。
「沈んだら、先輩が泣くって、今知ったから」
先輩は鼻をすすり、目を擦った。
乱暴な動きで涙を拭って、でもまたすぐ涙が溢れる。
「そんな理由で……」
先輩は言いかけて、言葉が崩れる。
崩れた言葉の代わりに、彼女は両手で顔を覆った。
声はまだ大きい。
けれど少しだけ、呼吸が整ってきている。
「先輩」
俺はもう一歩近づいた。
距離を詰めても、今は捕獲されない。
ここは病院で、廊下で、目撃者もいる。
でもそれ以上に、先輩を“その場に戻す”ためには距離が必要だった。
「……触らないで」
先輩が小さく言った。
拒絶じゃない。
今触れたら、また泣き声が爆発する、と自分で分かっている声だった。
「分かった」
俺は立ち止まり、視線だけを合わせた。
「触らない。でも、いなくならない」
その言葉を言った瞬間、先輩の泣き声が少しだけ小さくなった。
大声が、嗚咽へ変わる。
嗚咽が、鼻をすする音へ変わる。
変わっていくのが分かる。
それは先輩が理屈を取り戻したからじゃない。
安心が、ようやく涙を終わらせ始めたからだ。
「……ほんとに、生きてるんですね」
先輩が、やっと言葉を形にした。
その言い方が、資料の確認みたいで、少しだけいつもの先輩に戻っている。
「生きてる」
俺はうなずいた。
「あと……ちゃんと帰ってくる。今度は勝手に消えない」
先輩は、もう一度だけ泣いた。
でもそれは、さっきの大声の泣き方じゃない。
声を押し殺す泣き方で、肩だけが震える。
「……当たり前です」
先輩は嗚咽の合間に、いつもの口調を無理に引っ張ってきた。
「先輩として……後輩を……死なせるわけには……いきませんので……」
その“先輩として”が、今は理屈じゃなく祈りに聞こえた。
俺は喉の奥の乾きを飲み込み、息を整えた。
そして、笑顔の代わりに、せめて口角だけを少し上げてみせた。
「……じゃあ、先輩として」
俺は言った。
「落ち着くまで、ここにいて。俺も、ここにいるから」
先輩は涙で濡れたまま、こくりと頷いた。
その頷きは、資料の結論じゃない。
“生きている”という現実を受け入れるための、最初の小さな合図だった。