退院の手続きは、拍子抜けするほど淡々としていた。
診察券の返却、会計、簡単な注意事項の説明、そして「お大事に」という定型句。
定型句が、俺には檻の格子みたいに見えることがある。
何も起きていない体裁が整うほど、何かが起きた事実が置き去りにされるからだ。
「結城くん、歩けますか」
つる子先輩が半歩前に出て、俺の顔を覗き込む。
昨夜の大声の涙の痕が、まだ目の縁に残っている。
残っているのに、声はもう理屈の形へ戻ろうとしていて、そこが逆に怖い。
「歩けるよ、たぶん」
俺は冗談みたいに言ってしまい、すぐに口を噤んだ。
冗談にした瞬間、現実が軽くなる気がして、軽くなるのが嫌だった。
「“たぶん”はやめてください、結論を曖昧にすると体調管理が破綻しますので」
先輩は言い切り、そこで一瞬だけ言葉を弱めた。
「……でも、歩けるなら、良かったです」
「先輩、まだ泣きそうだ」
俺が言うと、先輩は鼻で息を吸って、視線を逸らした。
逸らし方が、いつもの説明逃避じゃなくて、感情の逃避だった。
「泣きません、泣く理由が減りましたので」
強がりの言い方で、先輩は入口の自動ドアへ向かう。
外の光は昼で、夜の川とは違う色をしているのに、喉の奥はまだ乾いたままだ。
自動ドアが開く瞬間、外気が入ってくる。
冷たい空気が肺へ落ちると同時に、腰のあたりが妙に重い。
ベルトが見えていなくても、そこに“ある”という確信が、布越しに脈を打つ。
俺は反射でシャツの裾を引き下ろし、無意味に整えた。
「結城くん、腰……」
先輩の声が一瞬だけ詰まる。
詰まったのは説明の順番が崩れたからで、俺はそれだけで胸が痛くなる。
「大丈夫、隠せてる」
俺は小声で言った。
大丈夫という言葉が、本当に大丈夫を意味しないことを、俺は知っている。
「隠すのは“今は”必要です、ですが“ずっと”は無理ですので」
先輩はすぐに理屈へ戻した。
戻した理屈の端が、少しだけ震えているのも分かった。
病院の玄関前には、制服の警察官が二人立っていた。
立っているだけで、空気が変わる。
捕獲の無線が耳の裏で再生され、心臓が嫌な跳ね方をする。
俺は足を止めかけて、止めなかった。
止まったら、止まったことが“怪しい”になるからだ。
そのうちの一人が、こちらに気づいて近づいてくる。
歩き方が現場の人間のそれだった。
焦っていないのに、無駄がない。
俺は昨夜の路地を思い出してしまって、喉の乾きが濃くなる。
「すみません、少しお話を」
男は丁寧に言い、警察手帳を一瞬だけ見せた。
手帳の見せ方が誇示ではなく確認で、そこに敵意は見えなかった。
それでも俺の身体は勝手に構えた。
言葉ではなく、筋肉が。
つる子先輩が俺の半歩前へ出る。
盾になろうとする動きが早い。
先輩は警察を敵だと断定していないのに、制度を怖がっている。
「要件を伺ってもよろしいですか、こちらは退院直後ですので」
先輩の丁寧語は正しいのに、圧がある。
説明したがり屋の圧ではなく、守る側の圧だ。
男は先輩の圧を受けても崩れない。
崩れないのに、押し返さない。
そのバランスが、妙に信用できる気がしてしまって、俺はそれを認めたくなくて視線を逸らした。
「昨夜の河川敷付近で、通報がありました」
男は淡々と言った。
「救助された方がいて、経緯を確認しています」
俺の背中が冷えた。
救助された方。
俺だと名指しされていないのに、俺のことだと分かる。
つまり、誰かが“救助した事実”を警察へ流している。
それが捕獲へ繋がるのか、救助へ繋がるのか、まだ分からない。
「……俺、その現場にいました」
口が勝手に言った。
言ってしまった瞬間に、先輩の視線が刺さる。
止めたかったのではなく、守りたかった視線だ。
「現場にいた?」
男の眉がほんの少しだけ動いた。
疑いではない。
確認の形を取った驚きだ。
「はい、たまたま」
俺は嘘を混ぜた。
気配で向かったなど言えない。
言った瞬間に、俺は“人ではない側”へ分類される。
男は俺をじっと見た。
その視線には、昨夜の路地で感じた“信頼の質”と似たものがある。
似ているのに、俺は名前を知らない。
だから余計に、疑問だけが残る。
「君は、どうして逃げなかった」
男は短く言った。
「危険だったはずだ」
逃げなかった。
その言葉が胸に刺さる。
逃げなかったのではなく、逃げられなかった。
誰かが沈むのを知ってしまったら、逃げるという選択肢が消える。
俺はその呪いで動いている。
「……逃げる前に、誰かが倒れてたんです」
俺は言葉を選びながら答えた。
「だから、放っておけなかった」
つる子先輩が息を吸う。
説明を足したい衝動が見える。
でも先輩は堪えた。
堪えたのは、俺が“余計な情報で自分を縛る”のを避けたいからだと分かって、胸が痛い。
男は頷いた。
頷き方が軽くない。
しかし重すぎもしない。
現場で人の言葉を受け取る頷きだ。
「……分かりました」
男は続けて言った。
「君の身元と連絡先を確認させてください、必要があれば後日改めて話を」
つる子先輩が即座に口を挟む。
「個人情報の提供は、任意ですよね、手続きを確認させてください」
先輩の口調が“説明せずにはいられない病”へ戻りかけるのを、俺は横目で見てしまう。
昨夜の泣き声と同じ人だと思えないくらい、強い。
男は困った顔をせず、ただ短く応じた。
「任意です、ですが現場の確認が必要です」
その返しが誠実で、俺は余計に居心地が悪くなる。
敵だと決めつけられない相手ほど、俺はどう振る舞えばいいか分からない。
「……連絡先だけ、渡します」
俺は言った。
先輩が言い返す前に言った。
戦うのではなく、線を引くために。
つる子先輩が俺を見る。
怒っていない。
怖がっている。
俺を失うことを、まだ怖がっている。
「結城くん」
先輩が小さく言い、すぐに飲み込んだ。
言葉にしたら、また涙になると自分で分かっている声だった。
男がメモを取り、礼を言って一歩退く。
その動作が“捕獲”ではなく“確認”で終わったことに、俺は一瞬だけ安堵してしまう。
安堵した自分が、すぐに怖くなる。
油断は次の檻を呼ぶからだ。
男が離れた直後、喉の乾きが急に濃くなった。
病院の前のはずなのに、河の匂いが幻みたいに鼻をかすめる。
風が冷たい。
冷たさが、昨夜の水の冷たさと繋がって、背中がぞわりとする。
「……先輩、来る」
俺は呟いた。
呟いた瞬間、つる子先輩の表情が固まる。
彼女は気配を感じない。
でも俺の声の質で、何が起きるかを理解してしまう。
「来る、とは?」
先輩が聞き返す。
聞き返しながら、もう周囲を見ている。
説明するより先に、避難導線を探している。
それが昨夜の涙の続きだ。
俺は答える代わりに、視線だけを高架の影へ向けた。
街灯の境界、光と闇の縁。
そこに、縞のシルエットが一瞬だけ横切った。
はっきり見えたわけじゃない。
見えたと言うには短すぎる。
でも、見えた“気がする”では済まない確信があった。
男――さっきの警察官も、それに気づいたのか、立ち止まって同じ方向を見た。
正体は知らない。
俺のことも、俺は彼のことも。
それなのに、同じ影を追う視線だけが一致する。
「……今の、何だ」
男が小さく呟く。
疑問の声だ。
確信ではない。
だからこそ、現場はまた始まる。
俺は腰の重みを意識した。
ベルトが呼吸のリズムと同調し始める。
変身の前兆が、喉の乾きの奥でうごめく。
つる子先輩が、震える息を吐いた。
「結城くん……お願いです、消えないで」
声は小さいのに、昨夜の大声より重い。
俺は頷いた。
頷きながら、影の方向へ一歩踏み出した。
沈む前の予兆が、また夜の形を取って戻ってきている。
そして、その影は確かに――再び、こちらを見ていた。