黄色い腐臭が、先に来た。
匂いが届くより早く、空気が変わる。夜の湿り気が一瞬で奪われ、喉の奥が紙みたいに乾いて、舌が動かなくなる。
見上げるまでもない。
上にいる。
光の外側、街灯の輪郭が届かない高さで、丸い殻が一度だけ赤黒く反射した。テントウムシの模様を、毒に塗り替えたような影。
「来る!」
俺が叫ぶと同時に、つる子先輩が反射で後退した。
説明より先に避難する動きは、さっき氷川と出会った時の硬さに似ている。
あの人たちの“現場”が、先輩にも移ってしまっているのが苦い。
次の瞬間、雨が落ちた。
雨というより、点々とした黄色の飛沫。
空から降る液体が、地面に触れた瞬間に泡立ち、アスファルトがじゅっと音を立ててえぐれる。
一滴一滴が、触れたものの形を崩す。
「跡形もなく溶かす」という言葉が、比喩じゃないことを視覚で突きつけてくる。
俺は一歩下がり、しかし背中は見せない。
逃げれば、先輩が雨の下に残る。
だから逃げるのではなく、位置を選び直す。
飛沫の軌道を見て、高度を推し量り、落ちる角度の癖を読む。
それでも次の一撃は避けきれない。
影が旋回し、狙いが絞られる気配がした。
黄色い雨が、今度は線になって降ってくる。
広く撒くのではない。
狙って浴びせる。
俺の動きの先を読んだ、狙撃みたいな散布。
――受けたら終わる。
受けたら装甲が溶ける。
溶けるのは装甲だけじゃない。
その下の皮膚も、筋も、俺の“人間だった部分”も、順番に剥がれる。
腰が熱を持った。
ベルトが現れる。
呼吸が沈み、世界が水中のように遅くなる。
「変身」という言葉を言い切るより先に、身体の輪郭が変わった。
前腕に、盾が現れた。
展開式の、無骨な形。
模様は同心円のように圧縮され、空気がそこだけ重くなる。
足元が沈む。沈むのに倒れない。
沈むという動詞が、今は支えになっている。
黄色い飛沫が盾へ当たる。
じゅ、と嫌な音がした。
腐臭が濃くなる。
だが盾の面が、落ちた酸を“弾く”のではなく“押し下げる”。
飛沫が広がらない。
溶かす前に、圧で押し潰され、地面へ落ちていく。
俺は攻撃を受け流す。
受け止めるのではない。
軌道をずらす。
盾を少し傾け、雨の線を逸らし、飛沫を自分の脇へ流し落とす。
足元のアスファルトが泡立つが、そこへは踏み込まない。
一歩の選択が、生死の選択だ。
上の影が苛立ったように高度を落とした。
近づいた分だけ、匂いが濃い。
匂いが濃いほど、相手は危険だ。
だが同時に、相手の自由が減る。
俺が欲しいのはそこだ。
盾を前に出しながら、俺は踏み込む。
視線は上に置いたまま、足元の沈みを深くする。
地面が俺を引き留めるのではない。
俺が地面に錨を打ち込む。
そうすることで、空の自由に対抗できる。
影が急降下する。
酸の雨ではなく、体当たりの速度。
近距離で浴びせるための突進。
俺はその衝撃を、盾で受ける。
――重い。
重いのに、持っていかれない。
衝撃が腕から肩へ走り、胸へ落ちそうになるのを、足元の沈みで受け止める。
受け止めた衝撃を、今度は“縛り”に変える。
盾の縁が、相手の殻へ噛みつく。
噛みつくというより、見えない楔が打ち込まれる。
動こうとするほど動けない。
跳ねようとするほど、その場に固定される。
「落ちろ」
俺は低く言った。
声は祈りじゃない。命令だ。
空の生物に、地面の掟を押し付ける命令。
相手が羽ばたく。
羽ばたきが鈍る。
自由が剥がれる。
そして、俺は盾を押し出した。
投げる動作ではない。
落とす動作だ。
盾ごと相手を“落下”させる。
軌道は真っ直ぐではなく、引き寄せる曲線になる。
一度離れても、引力が糸のように繋がって、逃げ道を許さない。
地面が近づく。
相手が暴れる。
暴れた瞬間、黄色い飛沫が散る。
だが俺はもう、散る範囲を計算している。
つる子先輩の位置を視界の端で確認し、飛沫が届かない角度に自分の身体を滑らせる。
守るべきものを、雨の外へ置く。
盾が地面へ突き刺さるように落ち、相手の殻が同時に叩きつけられる。
その衝撃点に、重さが集中する。
集中した重さは、点では終わらない。
周囲へ広がらず、内部へ沈む。
沈むことで、相手の動きと酸の散布が同時に止まる。
俺は一歩踏み込み、最後の押し込みを選んだ。
盾の中心から、圧が走る。
重さが、相手の核へねじ込まれる。
逃げるための空間が、全部潰される。
爆ぜる。
だが爆発ではない。
押し潰された結果として、形が維持できなくなって崩れる。
赤黒い殻が裂け、黄色い体液が飛び散ろうとして、その前に地面へ押し付けられて泡になる。
腐臭が一瞬濃くなり、次の瞬間、夜風に散った。
静かになった。
空を見上げても、もう赤黒い反射はない。
残っているのは、えぐれた地面と、焦げたような臭いだけだ。
俺は盾を引き戻し、足元の沈みを浅くする。
ベルトの光が弱まり、呼吸が少しずつ人間の速度へ戻っていく。
勝ったのに、胸の奥が軽くならない。
重さだけが残る。
重さは強さの証明で、同時に、失うものの予告だ。
「……結城くん」
つる子先輩の声が震えていた。
さっき泣いていた声とは違う。
怖さを理屈に変え損ねたときの震えだ。
「大丈夫」
俺は言った。
本当に大丈夫かは分からない。
でも大丈夫と言えるうちは、まだ人間でいられる気がした。
夜の空は、何事もなかったように暗い。
その暗さが、次の影を隠すための暗さでもあると知りながら、俺は一度だけ深く息を吐いた。