川沿いの昼は、やけに明るい。
明るいのに、明るいからこそ影が濃い。
高架の下に落ちる影も、護岸のコンクリートに伸びる電柱の影も、輪郭だけが強調されて、そこに“何か”が隠れていそうな錯覚を作る。
俺はその錯覚を、もう錯覚だと笑えない身体になっていた。
規制線は川に沿って一直線に張られていた。
赤白のテープの向こうに、黄色くえぐれた地面が点々と続いている。
雨粒みたいな跡。
それが昼の光の下ではっきり見えるのが逆に気持ち悪い。
夜の方がまだ、見ないふりができた。
「……結城くん、見てください、これ」
つる子先輩がしゃがみ込み、えぐれた跡の縁を指差す。
素手で触ろうとして、途中で止めた。
怖いからではなく、酸の性質を理解しているからだ。
説明の順番を守る癖が、危険の前でも崩れないのが先輩らしい。
「先輩、触るな。匂い、まだ残ってる」
俺が言うと、先輩は小さく頷き、鼻をひくつかせた。
「腐臭……黄色い体液……揮発性も高い可能性がありますね」
言ってから、先輩は自分の言葉を噛み直す。
「……いえ、今は推測より、現場の安全が先です」
その言い直しに、俺は少しだけ救われた。
泣いた翌日の先輩は、理屈の刃を自分で制御しようとしている。
それが、たぶん俺を守るためだと分かってしまうから胸が痛い。
「関係者は下がってください」
川風に乗って声が飛んできた。
制服警官の声じゃない。
場を仕切ることに慣れた、上から来た人間の声だった。
堤防の上に、腕を組んだ男が二人立っている。
どちらも“現場を救う”より“現場を管理する”空気を纏っていた。
もう一人、刺さるように乾いた声の男が、目立つ位置で顎を上げている。
俺は名前を知らない。
知らないのに、種類だけ分かってしまう。
こういう人たちの言葉は、誰かを助ける言葉じゃなく、誰かを分類する言葉だ。
「今日は昼間だ。余計な混乱を起こすなよ」
乾いた声の男が吐き捨てるように言った。
昼間を理由にするのが、余計に腹立たしい。
怪物は昼も夜も関係なく来る。
来るのに、制度だけが昼夜で態度を変える。
氷川が二人の前に出た。
制服姿のまま、現場の中央に立っている。
俺は彼を見るたびに、夜の路地の視線を思い出す。
あの時助けた警察官が彼だと知っているのに、彼は俺を知らない。
その捻れが、俺の喉を乾かす。
「現場を混乱させるつもりはありません」
氷川は上の男たちへ向けて言い、次に視線をつる子先輩へ向けた。
「ただ、一般の方が立ち入るのは危険です。……失礼ですが、あなたは」
つる子先輩は一礼する。
礼儀正しいのに、言葉の準備だけは既に整っている。
「城北大学の千羽つる子と申します。資料と分布から、今回の襲撃に一定の規則性があると考えています」
先輩は言い切り、堤防の上の男たちへ視線を向けた。
「もし許可いただけるなら、短く説明します」
「許可?」
眼鏡の奥が冷たい男が眉を動かす。
「ここは捜査の現場だ。学生の発表会ではない」
「一般人が口を出すな」
乾いた声の男が噛みつくように言う。
「危険を煽るな。血縁関係を洗って、関係者を保護すれば済む話だ」
“血縁関係”という言葉が落ちた瞬間、つる子先輩の肩が微かに跳ねた。
怒りではない。
反論したい衝動の跳ね方だ。
そしてその衝動は、今の先輩にとって俺を守るための衝動でもある。
「――違います」
つる子先輩は、空気に向けて言い放った。
声が大きい。
大きくなるつもりじゃなかったのに、大きくなってしまった声だ。
俺は反射で先輩の袖を軽く引いた。
半歩だけ下げる。
止めるのではなく、速度を落とす。
「先輩、今は言い方を」
俺が耳元で言うと、先輩は一瞬だけ唇を噛み、しかし視線は逸らさなかった。
「前提として、血縁を狙うのなら被害は家系に偏ります」
先輩は呼吸を整えて言い直す。
説明の型に戻ることで感情を制御している。
「しかし現場の分布は一致しません。被害者の生活圏、同居状況、血縁の濃度が揃っていない。つまり狙いは血縁ではなく“条件”です」
「条件?」
眼鏡の奥が冷たい男が冷たく問い返す。
「それは何だ。根拠は」
つる子先輩は即答する。
即答できるほど調べているという事実が、俺には怖い。
先輩がここまで来てしまったということだからだ。
「痕跡です」
先輩は指をさす。
えぐれた跡の縁、黄色い染み、腐臭。
「これは“雨”の痕です。上空から散布され、特定の個体へ集中した形跡がある。もし血縁狙いなら、屋内や生活圏へ連続して出るはずですが、ここでは“単独”を狙っています」
「単独?」
氷川が思わず言ってしまう。
止めるべき立場のはずなのに、口が出た。
現場の人間として腑に落ちる部分があったのだと思う。
彼の眉が僅かに寄り、視線が地面の跡へ吸い寄せられる。
「……確かに、家族単位の襲撃なら、もっと別の痕が残る」
氷川の口から、同意が漏れた。
漏れた瞬間、彼自身も驚いたように口を噤む。
立場としては止めるべきなのに、現場の手触りが先に来てしまった。
その葛藤が、逆に信用できる。
眼鏡の男の声がさらに冷える。
「氷川君、現場の感情に引きずられるな。推理は捜査を乱す。まして一般人の――」
「一般人ではありません」
つる子先輩が食い下がりかけて、すぐに言い直す。
「……いえ、一般人であることは否定しません。ただ、情報の整理は役に立つはずです。説明なら私にお任せください」
乾いた声の男が鼻で笑った。
「説明? そんなものはいらない。捕まえればいい。危険なら全部同じだ」
その言葉が、俺の胸の奥の圧を刺激した。
危険なら全部同じ。
それは、俺が撃たれた時の言葉と同じ種類の乱暴さだ。
怒りが熱になりかける。
熱になったら、俺は負ける。
負けたら、先輩がまた泣く。
だから俺は息を吐いて、圧を沈めた。
「……結城くん」
つる子先輩が小さく言って、俺を見た。
止めてほしいではない。
見失わないで、という目だった。
昨夜の河川敷の恐怖が、まだ残っている。
俺は小さく頷いた。
頷きながら、鼻の奥が急に痛くなるのを感じた。
腐臭が、さっきより濃い。
昼の風が運んだのではない。
“新しい匂い”だ。
喉の奥が乾く。
乾くというより、体の水分が一段抜ける感覚が走る。
それは議論が生む緊張ではない。
あの雨の前兆だ。
俺は反射で空を見た。
高架の影の外側、光が届かない場所。
昼なのに、そこだけ夜みたいに黒い。
丸い殻が、赤黒く一度だけ反射した。
テントウムシみたいな輪郭。
次の瞬間には、ただの点になって消える。
見間違いだと言い張れるほど短い。
だが俺の身体はもう、見間違いだと許さない。
「……来る」
俺は短く呟いた。
「何がだ」
氷川が即座に反応し、堤防の上の男たちも同じ方向を見上げた。
つる子先輩は言葉より先に一歩引き、俺の袖を掴みかけて止める。
掴めば“いなくなる”恐怖が暴れると知っている手だ。
川面が、きらりと光った。
風が止んだ気がした。
次の瞬間、地面のえぐれ跡の上に、小さな黄色い滴が落ちた。
じゅ、と音がする。
昼の光の下で、アスファルトが泡立つ。
議論は、そこで終わった。
終わったのではなく、現実に叩き落とされた。
上の男たちの正論も、強硬も、つる子先輩の推理も、氷川の葛藤も――全部まとめて、空の一点へ視線を縫い付けられる。
そして、影は再び、こちらを見ていた。